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‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

姫小島水門

2012-06-17 | 横浜


横浜・金沢区の図書館の近くに、「姫の島公園」という小公園があります。


姫小島跡
        
「 その昔 照手姫がこの島にて 松葉いぶしの難に遭いたるを
土地の人 哀れみ呼んで 姫小島と云う 」

室町時代に照手姫伝説の舞台となり、中之島は通称「姫小島」と呼ばれたそうです。



姫小島水門

この水門は1785(天明5)年に完成され、1964(昭和39)年に
撤去されましたが、1993(平成5)年に復元し保存されているものです。


この辺りは嘗て浅瀬の海が広がり、付近には多くの入り江があって漁業や塩田を
営む寒村が点在していましたが、鎌倉時代に源頼朝が「六浦湊」として開発しました。 

江戸時代になり、江戸・湯島聖堂の儒官だった永島祐伯(号は「泥亀(でいき)」)が
晩年を金沢・野島に住まいし、干潟を埋立めてて新田開発に乗り出
しました。
入江口にあった姫小島を利用して汐除堤を築き、島と堤の間に水門を設けました。

元禄大地震や天明・寛政の大洪水などの災害に遭いながら、永島家は200年に
わたって干拓事業に取り組み、第9代 忠篤のとき新田67町余が完成しました。
永島家は製塩業の成功により、近郷で並ぶもののない大富豪となったそうです。



水門は開閉式門扉で通称「煽り水門」と呼ばれ、石柱4本と
門扉3枚で構成され、姫小島の両脇に2門あったようです。


門扉は木製のため、数年ごとに村民総出で交換されました。
両端の石柱は、創建当時のものだということです。



門扉は海側にのみ開くように造られ、満潮時には閉じて海水の流入を防ぎ
干潮時には開いて川の水を外海へ排出するという独創的な構造でした。


1910(明治43)年 政府が製塩地整理法を施行し、鎌倉時代から700年も続いた
金沢の製塩は廃止の対象となり、1916(大正5)年 「泥亀新田」は売却されました。
「泥亀」の名は、今も町名として残っています。




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