伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

諦めもスポーツマンシップ

2021年05月03日 | エッセー

 こんな状況下で開催は無理だという判断こそ最も理があり、国民のコンセンサスもそこに収斂されてきた。
 4月中旬の時事通信の世論調査によれば、
〈「中止する」が39.7%で最も多く、「開催する」28.9%、「再延期する」25.7%と続いた。単純比較はできないが、過去の同種の設問で最多だった「再延期」と答えた割合を今回、「中止」が上回った。〉(4月16日 Web版)
 中止と延期を併せると65.4。最近の他社による調査だと中止・延期で7割という調査結果もある。
 4月中旬のバイデン大統領との首脳会談では、共同声明に「大統領は、今夏、安全・安心なオリンピック・パラリンピック競技大会を開催するための菅総理の努力を支持する」とは記されたものの、選手団の派遣など具体的な約束はなかった。
 できないと決めつけるのではなく、できる前提で議論すべきだという意見もある。一見正論ぶってはいるが、それは視野狭窄、正常性バイアスではなかろうか。前提そのものが揺らぎ、前提そのものを問う局面で「できる前提」を揚言するのはトートロジーでしかない。B案、C案を用意せずA案だけで強行突破するのは日本人の悪習であろう。一案だけで遮二無二押し切る。とどのつまりが精神論で玉砕。太平洋戦争の教訓をすっかり忘れたかのようだ。
 一方、Tokyo2020を目指してきた選手たちの血と涙の努力を無下にはしたくない、是非なんとか開催をとの声もある。悩ましいところだが、ここが考え物だ。
 スポーツマンシップという。字引には「スポーツの競技者などが備えるべきとされる道徳的規範や、その規範に準じる心構えなどの理念を指す語。スポーツマンシップの例としては、ルールを守ってフェアプレーに努める、競技相手や審判に敬意を払うといった理念を挙げることができる」とある。「備えるべき」「道徳的規範」「規範に準じる心構え」とは一義的にはスポーツを対象にしているが、それはあくまでも社会的規範を大前提にしている。スポーツの世界だけの話ではない。社会的に許容される「道徳的規範」を超えてはならないはずだ。プロレスでさえリング上で本物の凶器を使いはしない。たまに我を忘れたヒールが凶行に及ぶ場面があるが、所詮はショーである。
 してみるとアスリートファーストを公言するよりも、アスリートセカンド、あるいはアスリートサードに甘んじるのもスポーツマンシップではないか。つまりは、唇を噛んでじっと我慢する。潔く諦める。それもスポーツマンシップだ。TOKYOを逃したら選手生命を終えるアスリートもいるにちがいない。かわいそうだが、事に当たって甘受するという対応もスポーツマンシップと呼んで過言ではあるまい。
 オリンピック憲章・根本原則の2には、
〈オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。〉
 と謳われる。「肉体と意志と知性の資質を高揚」、特に「意志と知性」は前述のスポーツマンシップの核心と同意である。「基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造」にも通ずる。ぶっちゃけていえば、スポーツおばかをつくるためではない。立派な大人をつくろうということだ。勝利至上主義のなれの果ては、金メダル以外の選手は取り返しのつかないムダな人生を送ったと断じられてしまう。そんなバカなアベコベはない。
 最近になって、現実を冷静に見詰め開催に懐疑的な選手の声も上がり始めている。いい機会だ。もう一度深呼吸して、原点に立ち返りたい。
 かつて「幻の五輪」と言われた「東京オリンピック」計画があった。1940年(昭和15年)9月に開催が予定されていた。欧米以外、アジアでの初の五輪。紀元二千六百年記念行事でもあった。国威大いに発揚の五輪となるはずだったが、3年前からの日中戦争が響いて1938年(昭和13年)7月実施を返上した。国難による返上である。コロナ禍が国難というなら、先例である。元は安倍晋三が大嘘を吐いて自らのレジェンドづくりに誘致したものだ。国難ならば返上に躊躇は要るまい。 □