伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

圭くん・眞子さん かわいそう

2021年05月28日 | エッセー

 橋本 治氏は遺作「『原っぱ』という社会がほしい」で、天皇制とは「日本人の権力付与制度」であると喝破した。受けて、本年3月の拙稿「メーガンの不覚悟とトヨタの不覚」で次のように呵した。
〈「権力付与」をなす主体は「権威」であろう。それは「記紀神話」によってオーソライズされた。男神イザナギから末娘アマテラスへ。さらに孫のニニギ、その曾孫神武へという神の系譜である。御簾に遮られてあるのは神に素顔はないからだ。戦後皇室に係るマスコミとジャーナリズムが叢生したのは御簾を払った素顔が国民に理想的家族の典型として映じたからだ。といって天皇主義を語っているのではない。「権威」の淵源は天皇が神の系譜にあるという擬制に発するといっているだけだ。言い方を替えると、天皇に上位者はいないということだ。神に上位者がいないように。〉
 婚約内定から4年、三島文学の言葉を借りれば『永すぎた春』。小室圭氏と眞子内親王との婚約が相調わない。今や、芸人風情のコメンテーターなるものを寄せ集めたTVワイドショーの格好のネタに貶められている。「芸人風情」は蔑称のように受け取られるかもしれないが、専門知識も無い連中がいかにも庶民の代表でございという立ち位置で発言することに違和感を感じるからだ。誰も(少なくとも稿者は)君たちに代弁を頼んだ覚えはない。「お前だって門外漢のくせに知ったかぶりのコメントをしているじゃないか!」と叱責を浴びそうだが、こちとらはプライベートな発信。彼らは公共の電波に乗っている。雲泥の違いだ。
 職業選択の自由はもちろんある。ただ、その立ち位置は踏まえなければならぬ。お笑い芸人ならお笑いの道に励むべきだ。二兎を追う者は一兎をも得ずというではないか。放送局も市井の声を拾うなら2・3人の街頭インタビューで済ませるのではなく、広汎な世論調査やきめ細かな取材を展開すべきだ。TV離れで実入りが減り、お笑いをコンビニシステムにデフォルメしたY本興業に頼らざるを得ない実情があるのだろう。がそれにしても、こんなことを繰り返していてはTV離れは余計に加速するばかりだ。
 特にこの件については、ワイドショーは罪深い。皇室という「権威の淵源」を巷の憎愛劇に引きずり下ろしている。稿者は決してナショナリズムから発語しているのではない。日本文化のオリジナリティーに準拠して言い及んでいる。
 私見を述べるなら、婚約相調わない理由は内在的には宮内庁の怠慢、外在的にはアンバイ政権のアパシーだ。
 こんなことはいち早く宮内庁が動いていればとっくに片付いている。まず公になる前に情報を掴んでなければいけない。そうすれば、内々に処理できる案件だ。隠すのではない。次善の策であっても事を進めるための方便だ。大人の知恵だ。それを事もあろうに、先般の小室文書に眞子さんが関与していたと仄めかした宮内庁幹部がいた。もう何をか言わんやである。
 政権中枢も助力すべきだった。しかし、その形跡はない。なぜか。外在的にアンバイ君がアパシーを決め込んだからだ。皇位継承に無関係な婚約なぞ関心が無い。関心があるのは「21世紀の大日本帝国づくり」のみである。因みに、「21世紀版大日本帝国」は浜矩子先生の命名である。実に本質を穿ったネーミングだ。あるいは、「理想的家族の典型」に下手に容喙して保守層の反発を喰らうことを回避したのかも知れない。なにせ「あんな男」でも狡知は働く。天皇明仁の退位表明を2年余も店ざらしにした男である。それぐらいのことはやりかねない。核心的理由はここにある。スッカスカ君だって同じ。本年度予算には結婚一時金は計上されていない。アパシーを超えて早ネグレクションだ。
 ワイドショーはかまびすしく雑音を撒き散らすばかりでいっかな核心を衝かない。解ってそうなのか、解らずなのか。おそらく後者であろう。政権にとっては渡りに船。コロナ失策の目眩ましになる。コロナに倦んでいる時にワイドショーは視聴率を稼げる。浮き草同士のWin-Win関係。結構なことだが、圭くんも眞子さんもなんかかわいそー。大人がもっと何とかしてやれよ、だ。 □