似ぬ京物語、ド素人の揣摩憶測である。
ここにきて、ワクチンに耳目が集中してきた。ところが、これがうまく行きそうにない。ネックは国内で賄えないからだ。経済・技術大国で医療先進国であるはずの日本で国産のコロナワクチンがないのは、薬害エイズ事件の影響ではないか。羮に懲りて膾を吹く、である。
1970年代以降、天然痘ワクチンやジフテリア・百日咳・破傷風三種混合ワクチン接種後の重篤な副作用、さらに予防接種禍集団訴訟など薬害問題が相次いだ。その中で典型的な薬害訴訟事件が「薬害エイズ事件」であった。血友病患者に加熱処理しウイルスを不活性化しないままの血液凝固因子製剤を投与し、約2000人のHIV──免疫不全ウイルスで免疫機能を低下させ、最終的にはエイズ(後天性免疫不全症候群)へと至る──感染者(内、約400人が死亡)やエイズ患者を多数発生させた事件だ(エイズの患者、死亡者数はプライベートな事情もあるため正確には掴めない)。
80年代後半に表面化し、民事、刑事裁判が続き、厚生省(当時)は責任を認め和解。00年に製薬会社の3人に実刑判決、帝京大学医学部附属病院第一内科の責任者だった安部英(あべたけし)は01年に一審無罪、その後認知症を患ううち控訴中の05年に死去した。
膾を吹き、薬品メーカーも厚労省も腰が引け始めたのはこれからではないか。何度か挑戦はあったものの、メーカーは膨大な開発費とリスクを天秤に掛け、厚労省も予算を絞り始めた。それが今、通常のインフルエンザワクチンの接種率50%に帰結している。
本来ワクチン開発や備蓄、供給体制は国家の安全保障に属する。18年度で37%の食料自給率を巡って「食料安全保障」が深刻に論じられることと同等である。未知のウイルスの襲来に備えるのは安全保障なのだ。それが刻下日本では単なる薬品行政にレベルダウンしている。ワクチン貧国はそこに強い誘引があったといって外れてはいまい。
世界に目を転ずると、途上国支援のためアメリカはワクチンの特許を開放しようとし、EUは輸出拡大が大事だと反対している。EUの本音は開発のモチベーションが下がる懸念であろうし、米欧とも中国のワクチン外交への対抗もある。人命か経済か、生命か政治か。国家間の連帯が求められる中、国内での対立項がそのままグローバルに拡大しているように見える。そこに斬り込んでいるのが社会学者大澤真幸氏だ。
〈連帯の単位が国民国家にある限りは問題に対応できない、という構造は、新型コロナウイルスのパンデミックに限られたことではない。今後100年単位の人類の幸福や繁栄を左右するような重要な課題は、ことごとく国民国家のレベルでは解決できない。地球環境問題も、核問題も、経済的な不平等の問題も、あるいはインターネット上の知的所有権や個人情報の保護の問題も、さらにはヒトゲノムの管理などの生命倫理の問題もすべて、国民国家の力では解決できない。〉(「新世紀のコミュニズムへ」から抄録、NHK出版新書、先月刊)
と述べ、ところがそれら問題群の解決にとって
〈国民国家こそが、最大の障害である。つまり「国民国家の内部には強い連帯があるが、国民国家の間には競争かあるいは暫定的な利害の一致しかないという状況のもとでは、国民国家の存在が問題を深刻にするばかりだ」ということには、強い論理的な必然性がある。〉(同上)〉
とする。国家を超えねばならぬのに国家が超えられぬ壁となる。国家内の連帯と国家間の離間。このアポリアは国民国家である限りいつまでも行く手を塞ぐ。さて処方箋は? というのが本著のテーマであるが、中身は直に当たっていただきたい。
羮に懲りて膾を吹くのは愚かだが、実は羹は今もなお熱い。これが悩ましい。 □