伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ほんにお前は屁のような

2021年05月26日 | エッセー

 ド素人のくせに、経済とは何かと本を漁ったことがある。まず竹中平蔵が喉に支え、高橋洋一でなんとか嚥下し、胃もたれがする中、浜 矩子先生でストンと腑に落ちた。
 浜先生は近著「“スカノミクス”に蝕まれる日本経済」で次のように語る。
〈善き政策責任者が保有すべき目は、どんな目か。それは、涙する目だ。善き政策責任者の涙する目がたたえているのは、共痛のもらい泣きの涙だ。自分たちが救済すべき弱者たちは、どんな痛みを抱えているのか。どんな苦しみを苦しんでいるのか。どんな不均衡の是正を欲しているのか。そのことに思いを馳せて、共痛のもらい泣きの涙を流す。それができる目をもつ人でなければ、清く正しい経済政策の善き担い手にはなれない。〉
 実に明解だ。さらに、経済活動とは「人間による人間のための人間だけの営み」とし、以下のように続ける。
〈経済活動は人間を幸せにできなければならないということだ。人間が人間のために行う営みが人間を不幸にするというのは、まったく理屈に合わない。経済活動は常に人間に幸福をもたらさなければいけない。これが大鉄則だ。
 実は経済活動ではない営みが、経済活動の振りをしてまかり通っている。偽の経済活動は、確かに、人間を不幸にする。
 経済合理性に適うための最も本源的な要件は、基本的人権を侵害しないこと、基本的人権の守護神であり得ることだ。なぜなら、経済活動は人間を不幸せにしてはならないからである。そして、基本的人権を侵害されることほど、人間にとって不幸なことはない。だから、経済的観点からみて合理的であるためには、基本的人権を脅かす側面が微塵もあってはならないのである。〉
 したがって、
〈原発には、この人権の基盤部分を突き崩す危険性が内在している。そのようなものに経済合理性はない。「ブラック企業」を企業扱いしてはならない。ブラック組織もまた、人の生存権を脅かす。単に“ブラック”だ。〉
 と、畳み掛ける。
 もう、『惚れてまうやろ!』ではないか。
 「声はすれども姿は見えず、ほんにお前は屁のような」という落語のストックフレーズがある。存在感の希薄を揶揄している。江戸の名歌「声はすれども姿は見えぬ 君は深山(みやま)のきりぎりす」の本歌取りだそうだ。きりぎりすはコオロギの古称、よく鳴く虫の筆頭格だ。草叢で忙しなくすだきはしても一向に存在感がない。官邸の深山に生息する“うっせー”虫によく似てはいまいか。ただこのコオロギ、目眩を催す強烈な悪臭の放屁をする。さざ波どころか大波の襲来。体ごと汚泥の海に呑み込まれてしまう。
 辞任を受けてスッカスカ君は記者にこうコメントした。
「本人から大変申し訳ない、訂正したいとお詫びしている。その中で、これ以上迷惑をかけることはできないということで辞任をされた。大変反省をしておられた。自ら辞職したいということだった。不適切な発言ということをご本人が取り消し、謝罪した中で、責任を感じたということだった」
 これでは事の経緯を述べただけ。まるで他人事。こちらも臭せーっ“スカ”しっペだ。おすがりしたのは君だろうに。
 今更ながら、ほんにお前は屁のような。嗚呼。 □