伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

別姓問題 愚案

2021年05月08日 | エッセー

 どうにも、あの“意識高い系”の臭いが嫌だ。夫婦別姓を言挙げする女性、あるいは男性に共通するスメルである。と、このような物言いはセクハラだと槍玉にあげられよう。串刺しは覚悟の前で、以下愚案を労したい。
 先ずは内田家の話から。
 意外にも、本木雅弘は内田家の婿養子である。
〈母が、あんな常識にとらわれない人なんだけれども実はものすごく古風な考え方をしていたから、自分が内田家に嫁いだ以上、内田姓を絶やすのは嫁として申し訳ないと考えていたの。父の姉妹はみんな嫁いじゃって、裕也しか内田を継いだ者が残ってなかったから、それでやたらと母が使命感を持ってしまったのね。母が本木にお願いしたんですよ。本木は三兄弟の真ん中で当時既に兄が本木姓を継いでいて、そんなに深く考えることもなく、「それが親の望みなんだったら、それでもいいんじゃない?」ぐらいな感覚で内田になってくれたんですよ。でも、実際は本木の両親がすごく悲しんだのね。私も本木もそれを知って初めて、姓というのはこんなに重いものなんだと気がついた。〉(文春新書「なんで家族を続けるの?」本年3月刊)
 母とはもちろん樹木希林、戸籍名・内田 啓子である。娘・内田也哉子と中野信子女史との対談集から抄録した。
 「本木の両親がすごく悲しんだ」を受けて、中野氏は姓への拘りは土地への切るに切れない深い愛着と関連すると語る。事実、本木家は埼玉県桶川市で15代続く農家である。
 ここで本邦における姓の歴史を大掴みに振り返ってみる。──
▼古代では「氏(うじ)」は血縁集団の呼び名であり、職掌を意味した。
     「姓(かばね)」は天皇が与えた身分を表した。
▼平安期に貴族の「氏」が増えすぎたため区別するため住所から「家名」が生まれた。
▼武士の世になり、自らの支配地を明確にするため「名字」を名乗るようになった。
▼やがて貴族の「家名」と武士の「名字」は「名字」に統合され、農民層にまで拡大した。
▼豊臣秀吉が兵農分離を進めたため農民層が名字を自粛するようになったが、庶民も私的には名字を持ち名乗っていた。
▼江戸時代、「名字帯刀」により武士と特権階級を除きご法度となったが、庶民でも非公式に苗字を持ち、私的に名乗っていた。
▼公的な戸籍に当たる宗門人別改帳には庶民の苗字は書かれなかったが私的な寺の過去帳や墓碑には庶民の苗字が記載されることもあった。
▼明治8年、「苗字必称義務令」により国民全員に名字が義務づけられた。※このころは夫婦別姓であった。
▼明治31年、明治民法により夫婦同氏の原則が定められた。──
 室町時代の一部を除き庶民には名字はなかった。とすれば、夫婦同姓もへったくれもあったもんじゃない。第一、女性に姓が公認されたのは明治以降である。
  清少納言は『清・少納言』である。宮中勤めの折に付けられた女房名(にょうぼうな)である。父か夫の官職名から作られた。彼女の場合、歌人であった父・清原元輔から「清」の一字を、「少納言」は父の官職名だとされるが該当せず異説がある。ともあれストレートに女性を表する呼び名はなかったのである。
 面白いのは、平安の御代では男女とも両親、配偶者以外に本名を名乗ることはなかったという。言霊信仰があり人格を操られたり、呪いを掛けられる恐れがあったからだ。言わばセンシティブ情報だったわけである。
 と、概観したところで別姓について無い頭を絞る。
 別姓云々は社会的利便性の問題ではなく、さらには人権マターでもないのではないか。冒頭に記した人たちは二言目には人権という。異論には人権感覚の欠如を突く。でもそうだろうか。姓に執した樹木希林には人権意識がなかったのだろうか。そうではなく、彼女には人権を超えた家族愛があったというべきであろう。家族の絆はヒトの属性である。となれば別姓問題は人権ではなく、「人間」マター、あるいは文化マターといって外れてはいまい。
 “意識高い系”の人たちの十八番である「人権」は思考停止を迫る錦の御旗になりかねない。勘違いされては困るが、決して「ニッポン万歳!」という能天気なナショナリズムから提起しているのではない。永くて深い文化的背景を捨象しては片手落ちではないかとの寸志からだ。
 紫式部が、清少納言が、和泉式部が女房名で通したからといって人権を貶められたとはいえまい。世界に冠たる女流文学は人権を超えたところに爛漫たる開花があった。同性と人権を直結するのはなんだかどこかで思考が端折られている気がしてならない。 □