伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

むかしむかしあるところに、死体がありました。

2020年09月23日 | エッセー

 余りに無体なタイトルに吸い寄せられた。パロディーではない。換骨奪胎でも、ましてやコメディーでも更更ない。かといって怪奇譚でもない。雑多なメタファーのアンソロジーともいえない。ミステリーが一番相応しかろう。
 そのはずだ。作者は推理小説『浜村渚の計算ノート』シリーズで60万部超を売り上げた青柳碧人氏である。この作品は今年の「本屋大賞」第10位に選ばれた。同賞は書店員が「面白かった」、「お客様にも薦めたい」本を投票で決める。芥川賞や直木賞のようにプロが選定するのではなく、現場からの声を集約したオマージュだ。
 以下、紹介サイトから抄録。
 〈【「本屋大賞2020」候補作紹介】『むかしむかしあるところに、死体がありました。』――昔話×ミステリーを楽しめる本格推理小説
 「桃太郎」「浦島太郎」「一寸法師」――。日本人なら一度は読んだことがあるだろう昔ばなしをミステリーにアレンジしたユニークな作品です。 
 代表的な昔ばなし5作を「一寸法師の不在証明」「花咲か死者伝言」「つるの倒叙がえし」「密室龍宮城」「絶海の鬼ヶ島」に改題。
 例えば「つるの倒叙がえし」。しんしんと雪が降る日、両親を亡くした弥兵衛の家に、父親に金を貸していた庄屋が訪れます。両親の悪口を言われたうえに、借金を返さないなら村から追放すると脅された弥兵衛は、庄屋を鍬で殺しています。死体を機織り機が置いてある部屋の奥にある襖で閉ざされた部屋に隠した弥兵衛。直後、「つう」と名乗る女性の姿が......。罠にかかった鶴のつうを助けてくれた弥兵衛のもとへ、恩返しのためにやってきたのです。つうは弥兵衛に「機織りをしているときは決して中を覗かないでください」と忠告。弥兵衛もまた「何があっても、あの襖を開けて中を覗くことはなんねえぞ」と警告したのです。村人たちは懸命に庄屋を捜索しましたが発見できずにいました。弥兵衛の家の襖で閉ざされた奥の部屋でさえも......。あるはずの遺体はこつ然と消えていたのです。一体、どんなトリックを使ったのでしょうか? 
 ヒントはタイトルにある「倒叙」という言葉。ドラマ『古畑任三郎』のように、ストーリーの最初から犯人や犯行の様子が描写されることを意味します。最後まで読むと、タイトルの意味はもちろん、伏線や誤解に気づくことになり、もう一度初めから読み返したくなるほどの面白さ。驚愕のラストは必見です。 
 「一寸法師の不在証明」はアリバイ崩し、「花咲か死者伝言」はダイイングメッセージ、「密室龍宮城」は密室殺人、「絶海の鬼ヶ島」はクローズド・サークル(外界と連絡手段がつかない場所に閉じ込められた状況)というように、ミステリー要素が満載。ファン垂涎の1冊といえるでしょう。 
 よく知っているはずの昔ばなしが、新たな解釈で現代によみがえる新鮮な驚きと感動を味わえること間違いなしです。〉
 「驚愕のラスト」は「つるの倒叙がえし」だけではない。全作がそうだ。「花咲か死者伝言」は、まさかそんな、である。しかし、古典エッセイスト・大塚ひかり女史はこう語る。 
 〈老いによる精神的なマイナス面を表すポピュラーなことばが、“老いのひがみ”です。“ひがみ”とは、心がねじける、ひねくれる、歪む、といった意で、“老いのひがみ”というのは、老人ならではの頑固さや認識の誤りを表すことばとして、とくに平安文学に実にたくさん出てきます。こうした冷ややかな老人観のせいか、平安・鎌倉時代の文学では、老人は悪役にされることもしばしばです。〉(草思社「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」から抄録)
 となると、あの結末に頷ける。単なる謎解きを超えた老いのアポリアといえなくもない。
 「密室龍宮城」はタイムトラベルに目を奪われがちだが、城内の愛憎劇が濃密に描写される。そのはずだ。女史の洞察が裏書きしている。   
 〈千年以上ものあいだ形を変えて書き継がれてきた「浦島太郎」の主眼=今の「昔話」(や童話)では、その主眼……浦島太郎は結婚のために竜宮城へ行った……がすっぽり抜け落ちているのです。〉(同上)
 「絶海の鬼ヶ島」はコロナ以前の執筆とはいえ、クルーズ船DPやロックダウンを連想させる。今日的イシューの先取りといえるかもしれない。
 全体に年寄りが下手人となる話が多い。女史は古典文学にも高齢者の犯罪があるとして、昨今の状況をこう述べる。
 〈高齢者の人口が増えているのだから犯罪者が増えるのは当たり前とも思うのですが、実は、高齢者の検挙率の上昇は、高齢者人口の増加だけでは説明できないのです。平成十九年の高齢者人口が二十年間で約二倍に増加しているのに対し、高齢者の一般刑法犯検挙人員は約五倍に増加しているのです。高齢者の貧困化と孤独化がこうした結果を招いているのです。〉(同上)
 好々爺、優しい媼。そんな定型句が空語に近似する今を本書は「むかしむかし」の書割に投影している。そう捉えて飛躍はないだろう。他人事ではない。われら団塊の世代はすでにそっくり高齢者にカテゴライズされている。
 昨年5月には、瀬尾まいこ本屋大賞受賞作 「そして、バトンは渡された」を取り上げた。
 〈「そして、バトンは渡された」は父親が三人、家族の形態は、十七年間で七回も変わった。それは橋本 治最後の指南「代表者が複数」へのアンサーだ。〉
 と記した。比して本書は遜色ない。10位が不思議なぐらいだ。ミステリーではあるが、それを凌ぐアレゴリーに満ちている。歪んだ現代社会の写し絵といえなくはない。
 「昔話はなぜ語られるのか?」大塚女史の問い掛けである。
 〈それはつき詰めると、「コミュニケーション」の問題に行きつきます。子孫や共同体の人々に自分たちの国や家族の歴史を伝えたい、知恵や知識や感動を伝えたい……そうした目的もさることながら、昔話を語ることによって、聞き手との交流をはかる。退屈な夜のひととき、あるいは、いろりを囲んで夜なべをする子や孫に、老人がそれまでの経験から得た話、近所の噂話から得た話、自分が子供時代にやはり老人から聞かされた話を、伝える。〉
 「子孫や共同体」が消え、「退屈な夜」が「眠らない夜」に変わった当今、昔話の継承も途絶えた。こんな寂しい夜なべはない。同様、「死体」という究極の非日常も現実から追い遣られた。「むかしむかしあるところに、死体がありました。」ではなく、本当は「いまのいまいたるところに、死体があります。」なのに……。人工が死を覆い隠しても、生と死は渾然として今もある。そんなダイイングメッセージを青柳氏は寄こしたのではないだろうか。読後感は決して軽くはなかった。 □