伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

気持ちだよ

2020年09月05日 | エッセー

   〽重たい荷物は背負ってしまえば
    両手が自由になるだろう
    その手で誰かを支えられたら
    それはどんなに素敵なんだろう〽
 康珍化作詞、吉田拓郎作曲の「気持ちだよ」はこう始まる。なんと伸びやかで広やか、寛(クツロ)かな歌か。続くのは何度も何度もリフレインされるフレーズ「気持ちだよ 気持ちだよ ぼくの気持ちだよ」である。
 「両手が自由になる」とは? 歌意を辱めることを怖れつつ勝手で突飛な連想をする。
 人類が熱帯雨林からサバンナへ居を移した時、直面したのは食糧不足だった。遠方から食物を掻き集めねばならない。先般引用した山極壽一氏の洞見を再び徴したい。
 〈直立二足歩行は、歩行速度を速めるのに役立つわけでも、俊敏性に優れているわけでもありません。ただ、長距離を歩くのにはエネルギー効率がよく、なおかつ自由になった手で物を運ぶのにも便利です。だから、栄養価の高い食物を手に持って帰ってくることで、自分だけでなく弱い仲間にも食べさせることができました。食べ物を通じて仲間の信頼が高まったわけです。これが、ゴリラやチンパンジーにない、人間の信頼関係の最初の構築です。人間の社会力の強さはここから始まったといっていいでしょう。〉(「スマホを捨てたい子どもたち」から抄録)
 翻って、「重たい荷物」とはなんだろう? 前稿で触れた『残酷な進化』の現実ではなかろうか。二足歩行と引き換えに、例えば心臓病という宿痾を抱えた深刻な現実。その覚悟。それは自由になった両手で誰かを支えるためだった。それが「素敵」だという。素敵を幸福とパラフレーズしよう。心理学者アドラーは「幸福とは、貢献感である」と定義する。しかも要求は厳しい。
 〈貢献感を得るための手近な手段として、他者からの承認を求めている。承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。承認欲求にとらわれている人は、いまだ共同体感覚を持てておらず、自己受容や他者信頼、他者貢献ができていないのです。共同体感覚さえあれば、承認欲求は消えます。他者からの承認は、いりません。〉(「嫌われる勇気」から抄録)
 「承認欲求を通じて得られた貢献感」は、次の承認を求めて常に自らを下位に呪縛し続ける。「自由がない」。しかし「共同体感覚さえあれば、承認欲求は消え」る。共同体感覚は直立二足歩行によって誘起された。具体的には「自由になった手」である。
 そして「心」と大上段に構えず、「ぼくの気持ち」にとどめるあたりが憎くはないか。「気持ち、右に寄せて」という。ほんの少しなのだが、気を向ける程度。距離にもならない距離感。上手い物言いだ。
 刻下の無菌指向が暴走すれば「誰かを支え」る「両手」まで邪魔だと言い出しかねない。そんな逆立(ギャクリツ)の萌芽を嗅ぎ取るのは奇怪な感覚障害であろうか。気持ち、視点をずらせば……案外世界は違って見えてくる。 □