伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

またやったね! なおみ

2020年09月14日 | エッセー

 「やったね! なおみ」(8月28日)では、
1. なおみは歴とした日本人。内政干渉に限りなく近似する。ならば、非難するか称賛するか、2つに1つ。なおみの勇断はアンバイ政権を股裂き状態に追い込んだ。それは、分断の安倍政治にNOを突き付けたも同じ。
2. 奇しくも沈黙は、日本が「人権後進国」である実態を炙り出した。返す刀が本邦の喉元に突き付けられた。なぜ、マスコミを筆頭にわが身を省みないのか。
3.  一度決めた棄権を撤回したのは三方一両損に通じる日本的なソリューション。
 と3点にわたって「やったね! なおみ」、届かずとも絶賛の声を上げた。
 今度は全米オープン2度目Vだ。しかもケガを押し劣勢を跳ね返しての快挙である。かつ、7試合ごとに7つの Black Lives Matter の黒マスク。1枚ずつ犠牲者の名前が白抜きされていた。人種差別への糾弾が有無を言わせない勝利で圧倒的に裏打ちされたといえる。「またやったね! なおみ」だ。
 人種とは、骨格・皮膚・毛髪などの遺伝的・形質的特徴によって区分した人の自然的な集団を指すとされる。英語 race の日本語訳語でもある。ヨーロッパ人が世界で植民地化を進めるに際し、征服者の優越性を正当化するために生み出された概念だ。
 ところが、日本には人種という概念がない。明治初期以来 race の訳語としての人種はあっても、日本人を括る概念としては使われなかった。モンゴロイドにカテゴライズされると欧米の蔑視を浴びるからだ。代わって用いられたのが「民族」。
 民族とは、「一定地域に共同の生活を長期間にわたって営むことにより、言語、習俗、宗教、政治、経済などの各種の文化内容の大部分を共有し、集団帰属意識によって結ばれた人間の集団の最大単位をいう。」とブリタニカ国際大百科事典にはある。
 雑に四捨五入すると、身体的特徴で別けると人種で文化的集団で別けると民族であろうか。歴史社会学者・小熊英二氏は朝日新聞のインタビューに応えて、
「日本政府は日本に人種問題や民族問題は存在しないという立場をとってきました。国内の差別を直視しよう、としないという点では、民族という概念の呪縛は続いている」
 と述べる。台湾や朝鮮の領有を正当化し彼の地の独立を弾圧する根拠となったのは民族という概念だった。劣った民族は教化し馴致せねばならない、と。人種差別を回避するために案出した民族が、同一人種内で新たな差別を生む。それが「民族という概念の呪縛」である。さらに小熊氏は
「差別や支配の自覚がないことなどは、日本が発明した民族概念の特徴です」
 とも語る。“アジアの一等国”を僭称した夜郎自大ゆえであろうか。嫌韓、嫌中の瀰漫は裏返った“アジアの一等国”といえまいか。
 インタビューで「民族という概念の影響は残っていますか」との問いかけに小熊氏は、
「残っていると思います。差別をしているという自覚がないこと、『国のお荷物になる』とみなされた者や内部の分裂を起こすとみなされた者が差別されること、などの点においてです。たとえば、生活保護を受ける人々や政府に人権侵害を抗議する人々が不当に非難されるなら、それは差別です。肌の色を基準とする米国型の人種主義とは違うかもしれません。しかし、差別のありようは社会によって違うのです」
 と返した。宜なる哉だ。
 世界の舞台で民族概念をはるかに超えた「日本人」が、黒人差別を高々と人権問題に普遍化した。これは先述の2. を凌駕する壮挙ではないか。だから、「またやったね! なおみ」である。まだ首相官邸に居残っている某前首相は今回も沈黙を守っている。やはり、もうそんなことには興味がないか。「美しい日本」の日本人が世界で輝いているというのに、官邸の巣ごもり君には眩しすぎて直視できぬらしい。 □