伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

前稿捕捉

2020年09月15日 | エッセー

 「またやったね! なおみ」で、3. 日本的ソリューションについての言及を忘れていた。
 試合後のインタビューで7枚のマスクに込めたメッセージを問われ、なおみは「あなたがどんなメッセージを受け取ったのか。それの方が大事です」と応じた。
 内田 樹氏はこう述べている。
 〈「審問する」を究極の動詞とする言説は、私にはどうしても息苦しく感じられてならない。誰かを告発し、断罪し、弾劾するということは、そんなに素晴らしいことなのだろうか。そんなに崇高な行為なのだろうか。それによってしか私たちの未来は開かれないのだろうか。私にはどうしてもそうは思えない。正義への希求は「不義によって苦しむ人々」の痛みを想像的に共感するところから始まる。だから、「審問」という攻撃的なふるまいを動機づけたのは、ほんらいは「憐憫」や「同情」という柔弱な感情であったはずだ。〉(「ためらいの倫理学」から)
 あなたがどう受け取るかとのなおみの返しは、「痛みを想像的に共感する」ところから正義が希求されるとするこの日本人思想家の琴線に触れるのではないか。また、こうも語る。
 〈私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんにむずかしいということである。争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。(「邪悪なものの鎮め方」から)
 質問に声高に「正しい主張」を捲し立てるのではなく、「正しい主張」を自制する。この日本人思想家の深層は「日本的ソリューション」に通底しているのではなかろうか。
 続いて、2. で日本が「人権後進国」である実態をなぜマスコミは省みないのかと苦言を呈した。遠吠えが届いたのではあるまいが、今日(9月15日)の朝日は社説で「大坂なおみ選手 ボールは私たちの側に」と題し、
 〈私たちが住む日本にも様々な場面で差別は厳としてある。無自覚のうちに手を貸していないか。異議申し立てを抑圧する側に回ってはいないか。大坂選手が提起した問題を受け止め、足元を見つめ直す契機としたい。〉
 と記した。テレビメディアでは聞いたことがない言説である。テレビの劣化に比し、文字メディアの健全性に少し安堵を覚える。
 前稿では「官邸の巣ごもり君」にも言及した。十八番の「美しい日本」の他に「国民の負託に応える」も常套句だ。選挙によって国民から支持を受け国政を担うと執拗に言挙げする。しかし、忘れないでほしい。直近の昨年参院選挙での自民党の絶対得票率はいかほどであったか。比例代表が16.7%、選挙区が18.9%。国民の2割に満たない支持しかない。これで「国民の負託」と言えるのか。フェイクデータは巣ごもり君の専売特許だが、8割のサイレントマジョリティを捨象した挙句が今のざまだ。次のスッカスカ君にも“2VS.8”の構図はそのまま継続される。では投票率を上げるか。それは自分の首を絞める。自死に近い。超低投票率に“支え”られた政権という自覚と自制。それを夢寐にも失念せぬよう願いたい。
 以上、凡下の後知恵でした。 □