伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

忠臣蔵

2011年12月12日 | エッセー

 時は元禄十五年、師走半ばの十四日──日本史上、際立って高名な日付である。その日が今年も巡ってくるといえば歳時記めくが、「忠臣蔵」である。となると、わたしにはどうしても二人の名が浮かんでくる。一人は、小林秀雄氏。「考へるヒント」に収録された「忠臣蔵」だ。(◇部分、同書より引用)

◇通念の力は強いものだ。人間を、そのまとった歴史的衣装から、どうあっても説明しようとする考えが、私達は、日常、全く逆な知恵で生活している事を忘れさせる。
 過去をふり返れば、こちらを向いて歩いて来る過去の人々に出会うのが、歴史の真相である。後向きなどになってはいない。内匠頭は、刃傷しようと決心しているのだし、これから辞世を詠もうとしている。歴史家の客観主義は、歴史を振り向くとともに、歴史上の人々にも歴史を振向かす。◇
 もう40年も前のことだ。「歴史家の客観主義は、歴史を振り向くとともに、歴史上の人々にも歴史を振向かす」の一節に触れた時、痺れるような感動を覚えた。「歴史家の客観主義」の盲点を突いた一撃であった。そうなのだ。「内匠頭は、刃傷しようと決心しているのだし、これから辞世を詠もうとしている」。「後向きなどになってはいない」のだ。「歴史的衣装」を無理やり纏わせ、背中だけを見る。だから顔のない、生気が失せた年表の羅列になってしまう。先達たちの営みの、なにかとてつもなく大事なものが抜け落ちていく。
 司馬遼太郎氏の「歴史とは、人間がいっぱいつまっている倉庫だが、かびくさくはない。人間で、賑やかすぎるほどの世界である」(「歴史と小説」から)の一文に通底する眼であろう。
 次の有名な一段も、隼の滑空のような筆致とともに痛快この上もなかった。今もってそうだ。

◇今日では、法が復讐を否認しなければ、社会は保てぬという事になったが、どこの国の人々も、復讐の掟を認めなければ、社会は保てなかった長い歴史の重荷を負っている。
 私達が、めいめいの復讐心を、税金のように、政府に納入するのはいいが、そう取極めたからと言って、復讐の念を、たかが古ぼけた性悪な不安定な一感情と高をくくる理由は一つもないわけだ。キリストが、山上の垂訓で、「右の頬には、左の頬を」という飛んでもないパラドックスを断乎として主張したのは、「目には目を、歯には歯を」という人間的な余りに人間的な悲しい掟について考えあぐんだ上であった。◇
 そして括りへと続く。

◇徒党を組織し、血盟し、充分な地下運動を行い、実行の方法についても、実行後の進退についても、細目に至るまで計画し規定し、見事に成功したものである。感情の爆発というようなものでは決してなく、確信された一思想の実践であった。◇
 これはカルチャーショックであった。といって、暗くはない。「通念」が打ち砕かれる際(キワ)の爽快感だ。言われてみれば当たり前なのだが、激情に駆られただけであれほどの企みが成るわけはないのだ。
 さらに奥深い歴史観が語られる。

◇武士道とは、武士が自らの思い出を賭した平和時の新しい発明品なのであって、戦国の遺物ではない。自己を遺物と観じて誰も生きられたわけがない。彼等は、実在の敵との戦いを止めて、自己との観念上の戦いを始めた。彼等はかつての自然児が知らなかった苦しみ、思想を経験してみるという不自然な苦しみを知ったのである。◇
 「平和時の新しい発明品」、「自己との観念上の戦い」、「不自然な苦しみ」。なんという言葉の舞であろう。能舞台で演じられるそれを観ているような、静謐で深遠な言霊の群れに酔ったものだ。

 もう一人は、丸谷才一氏だ。「忠臣蔵とは何か」。85年に野間文芸賞をとった作品である。討ち入りは仇討ちではなく、鎮魂の祭祀であったとする刮目すべき見解が語られた。これにも脳天を痛撃された。(◇部分、同書より引用)

◇日本人は古来、死者、殊に政治的敗者の霊にどういふ態度で臨んできたかといふ知識によつて補はなければならない。さういふ読み方で二つの文書、とりわけ『口上書』を読んだとき、浮びあがつて来るものは、呪術的=宗教的祭祀としての吉良邸討入りで、それ以外の何かではない。この御霊信仰こそは忠臣藏の本質であつた。◇
 梅原猛氏の「隠された十字架」や「水底の歌」を髣髴させる論考である。討ち入りは儒教的な美意識や武士道の発露ではなかった。浅野内匠頭の怨霊が祟ることを恐れ、その霊を鎮めるためだった。つまり御霊信仰、古代信仰の表出であった、というのだ。隙のない論旨の展開は圧巻だった。氏は今年、文化勲章を受賞した。

◇吉良へ賄賂を贈らなかつたので意地悪をされたため怒つたといふのは、合理主義的な浅い解釈にすぎない。江戸中期の人々の心は、古代的=呪術的な層の上を近代的=合理主義的な層が浅く覆つてゐて、その層では、こんなふうに善悪の次元へ話を持つてゆくことで何とか辻褄を合せたい、納得したいと努めてゐたわけである。そして彼らの合理主義のあとには現代人の合理主義があつて、塩田の技術のせいなどと推測するが、これも事件の核心をつく考へ方ではない。その点、小林秀雄が「人の心はわからぬもの」とつぶやくことで切り抜けようとしてゐるのは、解釈とは言ひがたいにしても、何かを予感してゐたのかもしれない。すなはち忠臣藏のいちばん大事なところには、ただ媚び仕へるしかない恐しいものがあつた。その呪術的=宗教的祭祀を、従来われわれは何となく倫理的行為としてあつかつてきた。讃美する側もさういふ論法で賞揚し、否定する側もその枠組のなかで非難してきた。しかしこれは、鯨を魚に入れるやうな、あるいは蝙蝠を鳥と見るやうな、誤りである。あれは道徳の問題ではなかつた。◇
 「鯨を魚に入れるやうな、あるいは蝙蝠を鳥と見るやうな、誤り」とは、言い得て妙である。小林氏のいう「通念」「歴史的衣装」だ。
 さらに、「塩田の技術のせいなどと推測する」考え。この類いには要注意だ。ニッチは所詮、ニッチでしかない。何々事件は何々人の謀略だ、などの陰謀史観の陥穽と踵を接するからだ。
 丸谷氏は畳み掛ける。

◇君主の敵を討つたから忠義であり、そして忠義は武士の徳目の最たるものだからあれは武士道といふわけらしい。だが、四十六人がどんなに忠節の士であつても、怨魂が猛威をふるふことをもし彼らが信じてゐなかつたならば、あの敵討は起り得なかつたらう。それゆゑ、武家の道徳をもつてこの事件をとらへようとするのは、現象の末にこだはつて本質を見のがす態度である。忠臣藏の核心のところにあるのは武士道ではなく、土俗信仰であつた。
 元禄の事件の真の原動力となつたものは、武士道でも朱子学でもなく、わが古代以来の信仰であつた。それは一方で赤穂の浪士の心にひそんでゐたし、他方、当時の日本人全体、殊に江戸の市民が奉じてゐるものだつた。◇
 この下りに至った時のカタルシスは、今も記憶に新しい。両手に抱えた本を高々と差し上げ、おおーっと雄叫びを挙げた。唸るぐらいでは料簡ならぬ。叫ばねば収まらぬ感銘もある。
 炯眼はさらに抉る。剔出したものは、「変革と解放」への焦がれであった。

◇反逆の幻想から世直しの期待に至るまでの多様な渇望は、おそらく当時の日本人全体に共通したものであつた。彼らはみな変革と解放にこがれてゐた。ただし意識の底の暗いところで。そしてこのやうな不逞きはまる危険な夢想のための装置としては、あの三百年間、『仮名手本忠臣藏』にまさるものはなかつたのである。◇
 「不逞きはまる危険な夢想のための装置」としての『仮名手本忠臣藏』。資料を駆使した鮮やかな究明だった。知に飢えた獣のように、なんども噛み拉いたことが懐かしい。加えて火事装束の解明にも興奮し、(反権力の気分からか)なぜか溜飲が下がった。

 310回目のその日に、若き日と壮んな日に受けた二つの知的衝撃について、遅ればせながら読書ノートのつもりで記した。□