今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

閉園を惜しむのはなぜか

2020年09月01日 | 時事

東京民には感慨深い「豊島園の閉園」。
私も子どもの頃は、行った頻度は近場の後楽園遊園地が多かったが、好きだったのは豊島園だった。
ただ大きくなって、とりわけ TDLがオープンしてからは、選択肢から外れて久しい。
そんな自分でも、昨日の豊島園閉園のニュースに心痛めた。

実はこの”終焉”に対する哀惜は、豊島園に限った話ではない。
こういう終わり事(廃線、取り壊し)が起きるといつも哀惜の情が湧き上がる。
格別思い入れがない対象に対しても。

なぜそうなるのか。
希少性が増すほど(終了は希少性が無限大)主観的価値が上がるという行動経済学的説明も可能だが、
ここではあえて存在論的説明をしたい。

存在とは、存在し続けることなので、在ることが当たり前(デフォルト)になっていく。
永遠に存在するかのように。

ハイデガーによると、われわれ"現存在 "という存在者(存在するモノ)は、同じ存在者でも机やゾウリムシと違って、
存在を了解する能力があるのに、その存在についてきちんと対応しないで、「存在忘却」してしまうという。
"それが存在すること"の驚異や唯一性が忘却される。
その結果、あふれるほどの存在するモノに囲まれながら、われわれはそれらの存在を忘却している
(存在をデフォルト化し、なんとも思わない)。

それが存在の終焉を迎えてはじめて、
遅まきながら、その存在を、慌てて実感、いや痛感する。
存在忘却していたことの後悔を伴って。

日頃は存在忘却しているから、失わないと気づけない。
私も「豊島園」を存在忘却していた。

失って気づく、それが在ることの”有り難さ”。
「ありがとう」の語源である”有り難し”とは、存在論的用語なのだ。

もっと日頃から存在を実感していたらよかったのに。
誰しもがそう後悔する。
ハイデガーによれば、存在忘却せず、存在に直面し実感することが、われわれ”現存在”の本来的在り方だという。
だから後悔は、自分が非本来的な生き方をしてきたことをも後悔しているのだ。

ただ、”忙しさ”と”暇つぶし”で埋めてしまう日常生活は、われわれを非本来性に頽落させてしまう
(このブログの読者にはお分かりのように、だから「瞑想のスゝメ」につながる)

すべての存在は、永遠ではなく、”無くなること”から免れえない。
だから存在は本質的に”有り難い”。
無くなる前に、普段、在るうちに、感謝できたらいいのに。