今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

茶臼山高原で瞑想

2015年06月01日 | 茶臼山カエル館計測

茶臼山高原で迎えた朝、今日は一日中ここにいる。
高原の宿をチェックアウトして、空身で宿の裏手にある丘(茶臼山の斜面)に登る。
草原状の丘の上に一本の木があり、その下の平たい石に腰を下ろす。
半跏趺坐になり、半眼でヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)を始める。
意識を集中するのではなく、気づきながら流す瞑想だ。

まずは自分の自然な呼吸に気づく。
これが結構むずかしい。
なぜなら、気づかれた途端、呼吸はこの普段の存在感のない呼吸を恥じるかのように、改まって深呼吸を始めようとするからだ。
なにも”健康的な”深呼吸などしなくていいのに。

目の前は雑草なので、視線を集中してしまう対象がない点もいい。
さわやかな風が草々を揺らし、私の頬をなでる。
小さい虫が首元に止ったのが触覚でわかる。
それらすべてが存在(有ること)を実感させている。
草が有ること、虫が有ること、私が有ること。
これら生命との一体感を味わう。

思考は連想と論理によって勝手に進行していくが、それをあえて止めることなく、その流れを見つめる。
すべてが雲のように流れて行く。

流れる雲が自分でないように、流れていく思考も自分自身ではない。
ただそれを見つめているのが自分だ。
思考を眺めることで、それを見ている自分がいることを実感する。
あれ?、これってまるでデカルトの「我れ思う、ゆえに我れあり」だ。
もちろんデカルトは方法的懐疑という思考実験をしたのであるが、
我れという存在をハナから自明視しなかった点は同じだ(その後我れを実体視するが)。

 かように、思考は流れて行く。
そして、その思考に集中して(乗って)しまっている自分に気づいたら、そこから降りる。

なんて気持ちいいんだろう。
自分の部屋でこの瞑想をすると、すぐに脚が痛くなり、やる気も続かず退屈してしまう。
ところが、ここで坐っていると、ずっとこのままこうしていられるし、ずっとこのままこうしていたい。
最高に気持ちいいからだ。
あ、この気持ちよさにふけって(乗って)しまってはいけない。
そこから降りる。

なんとはなしに、腕時計を見たら、丁度目安にした15分経過した。
もっと続けたかったが、見切りをつけて瞑想をやめた。
ここでこうしていることに執着してしまいそうだから。 

日頃の生活を一生懸命こなすことは、生産活動や消費活動として有意味であっても、ハイデガーに言わせれば”存在忘却”していることになる。

経験の感度を上げるヴィパッサナー瞑想は、存在に立ち返る貴重なひとときを与えてくれる。

ただし、これだけをしているわけにはいかないのが在家(普通の社会人)のつらいところだ。


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