徳川水軍として
2011年6月
三河の幡豆(愛知県幡豆郡幡豆町:今は西尾市)を地盤とする小笠原氏がいた。
一時期惣領職であった伴野系(長清(1)の六男?の時長から信州佐久の伴野に拠点)の分家らしい。
伴野系は、長清の嫡子長経(2)が比企の乱に連座して蟄居したのをきっかけに、惣領職を得ていたが、今度は自分たちが霜月騒動に連座して壊滅的となった。
その時、泰房(時長から6代目?)の代に三河の地に移ったらしいが史実的には不明な点が多く、また同時期に長経系の長直も三河に住んだという(幡豆町史)。
その後、一時期記録が途絶え、室町期になり応永年間に、長房が一色氏の守護代として幡豆に住んでいたらしい。
この時、付近を支配していた足利一門の吉良氏に従属していた(幡豆の西隣が吉良)。
足利幕府の勢力が衰えた戦国期になると、吉良の北の西尾出身の今川氏の支配を受けるようになる。
その後は徳川の触手が伸び、当初は反抗したものの、やがて広重(重広)の代(永禄年間)に従属した。
幡豆小笠原氏は、時長-泰房-長房-安元系の欠城の小笠原氏(摂津守)のほかに、貞朝(15)の次男定政から始まる広重-信元の寺部城の小笠原氏(安芸守)との二系統があったが、安元の娘と広重で縁組みがなされている。
幡豆小笠原氏自体は礼法とは縁がない。
だが、信濃惣領家の貞慶(18)が一時寄寓していたらしく、一緒に家康に会ったりしている(その後貞慶も家康に服属)。
ここの小笠原は、小笠原家の売り物である礼法や弓馬術には縁がなかったが、地の利(いや水の利)を生かして、航海術をマスターし、徳川水軍の一員となった。
それだけではなく、航海術を生かして、とてつもないことをしたらしい(それは貞頼の項で紹介)。
だが、幡豆小笠原氏は、徳川にとっては外様の家臣ということもあり、武田や北条との戦いの最前線に駆り出され、多くの戦死者を出した。
幡豆の図書館のほぼ向かいにある小山が寺部城趾。
本丸跡その他に史跡の看板がある。
ここに立つと目の前に三河湾が広がる(写真)。
伊勢湾の更に内海の波静かな三河湾は、幡豆小笠原氏にとっては縁側のようなものであり、ここからどこまで外海に出て行ったか。
ほかに欠城がある。
安泰寺
安元が創建したという小笠原氏の菩提寺(右写真)。
重広をはじめとする歴代小笠原氏の位牌があるという。
非公開だが、事前に連絡すれば拝観可能だという。
長時(17)の長子(貞慶の兄)長隆の次男という貞頼。
貞頼は、若くして戦死した父長隆に代って惣領家を継いだ叔父貞慶(18)とともに、幡豆に移住し、
幡豆の広重の娘を娶って、この地を拠点にしていた(叔父は他所に移った)。
その貞頼が、『巽無人島記』(享保年間、現存せず)によると、
1593(文禄2)年、今の小笠原島に達し、標柱を立てたというのである(小笠原のどの島かは不明)。
そんな大それたことができたとしたら、貞頼がいたここ幡豆小笠原が、徳川水軍としての航海術を持っていたためだ
(といっても、秀吉の朝鮮出兵に応じて出港して太平洋で難破して黒潮に流された結果とも※)。
※:この話は『紀伊蜜柑船漂流記』(1670(寛文十)年)にあるという:久保田
そして、貞頼の子と称する“小笠原長直”が、江戸幕府にこの島(当時は、“巽(辰巳)無人島”と言われていた)への渡航を申請している(『巽無人島訴状』)。
またその子と称する長啓、さらにその子貞任も同様の訴状を出している(これらの二人は身分詐称と判明)。
結局、貞頼がこの島を発見・上陸したという確証は得られていないのだが、家康公から「小笠原島」の名を賜り、
これを元にこの島は今でも「小笠原(諸)島」が正式名となっている。
ということで、小笠原関係で一番有名なのが、この小笠原諸島である。
貞頼でなく貞任の件を扱った小説に新田次郎の『小笠原始末記』がある。
結果的に、この話が国際的にも公式となり、日本の領土・領海の拡大に貢献した。
すなわち、江戸幕府がここに全く無関心の間、アメリカ人の移民がこの島に住み始めていて、
さらにイギリスが領土的野心を示したのだが、
日本に通商を求めるペリー提督が彼なりに日本の歴史を調べた結果、ここは16世紀末に日本領になったと認め、
イギリスはもとより、自国アメリカの所有権も認めなかった(もちろん、幕府もそれを追認)。
日本における小笠原氏の貢献は、作法だけでなかったわけだ。
幡豆町立図書館
寺部城・大山寺と道路を挟んだ高台にある。
幡豆町史は最新のものが出版中で、地元の史家の本などもある(ネット経由で蔵書を検索できる)。
ついでに、別の機会に訪れた隣町の吉良町図書館には、ネットで事前に確認した『小笠原流諸禮式心得』なる大正時代の小笠原流礼法の手書き文書が所蔵されている(複写させてもらった)。
この地域での唯一の小笠原流礼法書だ。
ここは名古屋からなら日帰り圏だが、せっかくだから三ケ根山上の温泉宿に泊り、翌日は三河地震の痕跡を見学した。
家康の関東移封に伴って、幡豆小笠原氏も関東に移った。
摂津守系の広勝と安芸守系の信元はともに上総の富津(ふっつ)に移り、江戸湾の防御を担当した。
そこでは旗本扱いとなり、城ではなく陣屋住まいであった。
摂津守系は三方ヶ原の戦いで多くの戦死者を出したこともあり、17世紀早々に途絶したが、
寺部城の安芸守系は、明治までその地で続いた。
富津の菩提寺正珊寺には代々の墓があり、富津市の文化財となっている(右写真)。
参考文献
『幡豆町史』
磯貝逸夫『きら はず歴史散歩』三河新報社
田畑道夫『小笠原島ゆかりの人々』(小笠原村教育委員会編) 文献出版
久保田安正 『小笠原屋敷ものがたり』 南信州新聞社