今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

心理現象としての宗教:システム4

2024年02月03日 | パワー・スピリチュアル

瞑想でシステム3を作動し、自我の束縛から離脱した釈尊自身は、さらに次のシステム4を作動したか。

少なくとも仏教の理論は、釈尊個人の事績を超えてさらに発展し、システム4を射程に入れている。

このシステム4は、私自身のリアルな体験ではなく、その入り口に立っただけの私が、はるかに見渡せる未知の心の風景なので、以下、不確定性を含意して説明する。
※:システム3までは脳波(大脳皮質の活動電位)でその活動状態を特定できるが、システム4は確認されていない。尤も「心の多重過程モデル」は、心を大脳活動に還元するものではない。基底層のシステム0が身体の免疫系・消化器系などを含んでいるように。


自我から離れたシステム3の自極が、自我ではないより超越的な存在と出会う心的空間がシステム4だ。

そして、システム3によって一旦は否定されたシステム2の諸能力、すなわち思考や想像の力が、自我という束縛(我執)を離れることで、新たなパワーをもつ。
それは念の力(心的エネルギー)と言っていい。
その実践法は→サイキック・パワー講座1

この力によって、システム0〜2が対処する知覚可能な物理世界とは異なる次元の世界との交流が可能となる。

システム2における心的パワーは思考や想像として発揮されるだけだが、システム4に至ってリアルなパワーとなる。
釈尊やイエスが、神通力(今でいう超能力的パワー)を発揮したと言われているのも、彼らがシステム4に達した証しかもしれない。
ただし、このパワーを手品師のように人前で披露することがシステム4の目的ではない。
このパワーで利益・名声を上げようと思う欲心(システム2)はすでに超克されている。

システム4に達した人は我執がなく、そのパワーはヒーラーとして他者へのヒーリング(癒し)に使われる(このレベルの超能力的ヒーラーは世界中に存在する)。

心はすでに個体存在(自己)を超えている。
自己を超越してさらに心の階梯を上げることこそが目的となっている。


ところで、心的エネルギーは、エネルギーの一種として、エネルギー保存の法則に従う。
なので、それは他のエネルギーに転換、あるいは他のエネルギーから転換される関係にある。
システム4は心のエネルギー化であり、それをスピリチュアリティ(霊性)ともいう。

霊性の発現によって、システム0(システム4の元のシステム3の元のシステム2の元のシステム1の元)における物質代謝の束縛から離れる(生命エネルギーから心的エネルギーへの転換)。

このエネルギー転換過程を最もわかりやすく表現しているのはインドの仏教ではなく、古代中国の気の理論である。
気功はこの力を使って”気”を出す。
気は本来、宇宙を構成するエネルギー体であり、それが人体にとっては”外気”として存在するが、その一部(酸素、栄養素)を摂取して人体は生命エネルギーを得る。
人体化された気は”内気”として、身体と心を動かす(気は心身一元論的概念)。
その中で、気を”心的エネルギー”化するのが気功で、念の力によって気は体の内外を移動する。


実は気の存在は、科学(物理)的には確認されていない(磁気あるいは温度として間接的に測定されることもある)。
その意味では神話の域を出ていないが、
ただ気功をはじめとして、気の理論に基づく鍼灸・漢方、さらには易などの実効性は認められているので、実効的パワーのある”神話”といえる。
念の力は実在する物理力ではなく、心の力、想像の力であり、物語の力とも言える(システム4段階においては、神話か否かの論議は無意味)。

カロリー(熱量)換算可能な生命エネルギーが心的エネルギー(波動)化することで、物質(粒子)的制約を超越できる。
なので己れを心的エネルギー体にすることで、身体的死の超克が可能となるかもしれない
※:現代スピリチュアリティでは、物質的身体の外側にエーテル体、アストラル体などを想定しているが、実証されたものではない。

そのためには、日常的なシステム2で生きることに終始せず(この世で適応的に生きるにはそれで充分だが)、システム3を作動させて、自己をシステム2(自我)の桎梏から解放し、さらにシステム3からシステム4を創発させることで、自己の心的エネルギー化を推進し、物質的存在としての制約から脱する。


多分その先の状態は心の究極段階としての涅槃(ニルヴァーナ)に相当し、
その段階を”システム5”を呼びたい。

心を構成する多重のサブシステムとして、システム0は生物一般、
システム1は動物レベル、システム2は人間(サピエンス)のレベルである。
ほとんどの人間はこれらの作動だけで一生を終えるが、
人間(サピエンス)にはさらに上のシステムを作動させて心的にハイレベルなる能力があることが、2500年前からわかっている(もちろん釈尊のこと)。

人間は本来的に自己超越できるのだ。
それを既存の仏教的神話で表現すると、
システム3は阿羅漢の境地、システム4は菩薩の境地、
そしてシステム5は仏(如来)の境地といえる。

このような心の多重的発展モデルは、既存の仏教との関係では、心を単層かつ細分的にみるアビダルマ(倶舎論)とは大いに異なり、むしろ空海の「十住心論」に近い。
※:単層モデルでは、欲界に対応した心が自らそれを超克(自己否定)して色界以上に達するという難行を前提とするが、多層(重)モデルでは欲界に対応した心はそのままで、それとは別の心を創発するというもので、自分の心を一切否定しないのが特徴(この点が大乗的)。


以上、宗教的メンタリティを(神話的要素の少ない仏教を題材として)私の「心の多重過程モデル」で足早に説明してきた。
これで説明可能なら、神話的要素に満ちた既存の宗教教義は私には不要となる。
※:例えば仏教は心の高次化モデルとして参考にするが、非科学的な要素もあるため、準拠はしない。仏教以外の宗教の教義は、神話的部分をその本質としているため、参考にもしない。ただしこれら宗教における純粋な宗教的メンタリティは尊重したい。神道の本質は教義ではなくこのメンタリティにある。

機会があれば、より具体的・現実的なメンタリティ(主にシステム2)での問題を扱ってみたい。



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