今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

ウェストン神

2008年05月11日 | 
雨が止んだ翌朝、「中津川」という川の奥、恵那山麓のウェストン公園で開催される「ウェストン祭」を見に行った。
”日本アルプス”を世界に紹介し(命名者ではない)、日本には近代登山を紹介したウォルター・ウェストンは、私を含めた日本の登山者にとっては父なる存在。
その父なるウェストンは明治26年5月11日に、中津川から残雪の中、恵那山に登頂した。
その紀行が彼が著した『日本アルプス:登山と探検』(岡村精一訳、平凡社)に載っている。
その行跡を記念して、彼のたどったルート上の恵那山の登り口にウェストン公園が造られ、登頂した5月11日に記念祭が行われる(彼の登山道も復活した)。

公園につくと、市の役職者らしい背広を着た人やスタッフ用の上着を着た運営者たちが、それぞれ談笑している。
なんかみんな互いに知り合いみたいで、内輪の行事っていう感じ。
なので、純粋な見学者=部外者の私だけが、ポツンと一人でいる。

”祭”は本当に神社的な祭りで、腕組みして恵那山方向を見ているウェストンの半身像は、竹竿で囲まれ、四手が飾られ、背後に依り代が立てられ、像の前には祭壇が設けられ、神饌(供え物)が置かれている(写真)。
そして、恵那山神社の神主がウェストン像に向って祝詞を唱え、お祓いをする。
われわれ参列者もウェストン像に向かって拝礼し、柏手を打つ。
ちゃんと「降神の儀」や「昇神の儀」などをやって、英国国教会の宣教師(牧師)W.ウェストンの御霊(みたま)をご神体とした、祭事となっている。

見ていてつくづく、神道って面白いなぁと思った。
だって異教の外国人をも自分たちの”神”として礼拝の対象にできるんだから。
たとえば、数年前に行った青森の新郷村でも、我が祖母が世に出した「キリストの墓」の前で神事をして、キリストを神道の神の一員としてしまう。
そういえばその新郷村もウェストンとかかわりがあり、ウェストン祭が行なわれる。
ウェストン祭は日本で数ヶ所行われ、いずれも神道式の儀式が行われるようだ。
これを知ったら宣教師ウェストンは苦笑するだろうか。

実は、かのウェストンは、宣教師でありながら、キリスト教的価値観に固執した目で日本を見ていなかった。
日本の民間信仰を無知な邪教とはみなさず、木曽の御嶽信仰に学術的に興味をもち、冷静かつ詳細に観察している(逆にいえば、御嶽信者たちは異教の外人に自分たちの宗教儀式を堂々と披露した)。
彼は古代ギリシャ人とともに日本人を非キリスト教徒の偉大な民族としてリスペクトしている。

そして神道を奉じる日本人側も、この異教の外人に寛大であった。
確かに、飛騨の笠ケ岳に外国人として最初に登ろうとした時は、山を信仰する地元から妨害に逢った。
ところが、彼が山梨の鳳凰山地蔵岳の岩峰に初登頂した時は、麓の人々はその壮挙に驚き(”役行者(えんのぎょうじゃ)”に匹敵すると思ったのか)、
日本語もろくに話せない白い肌の英国人に神主になってくれと頼んだ(もちろん宣教師の職にあるウェストンはその申し出を丁重に断った)。
”寛大な心”(これこそ宗教に必要)によって、異国のキリスト者とわが国の神道の民は互いに敬意を払うことができたのだ。

さてこう考えている間も、ウェストン祭は進む。
私は一人ぽっちながら、神事に参加できたので満足。
神事って厳粛な気持ちになれるから。
地酒「恵那山」によるお神酒が参加者全員に振舞われ(猪口半分だから無問題ね。それしにてもこういうシーンで飲む日本酒ってどうして旨いんだろ)、
最後に、山を愛したウェストンにちなんで、公園内の植物に対して、年に一度の御褒美として、皆で紙コップに入った肥料をまく。
伝統的神事だけで終わらせない、なかなかいい趣向だ。

厳粛な神事が終わると、次は「直会(なおらい)」ということで、目の前で焼かれた五平餅と入れ立てのココア(ウェストンが恵那山頂で作って飲んだ)それに漬物がふんだんに供される。
私も、五平餅を幾本も食べ、漬物は手にのせて食べ、ちゃんとクリームの入ったココアもお代わりして、思わぬ昼食にありつけた。
しかもウェストンのイラストの入ったカップはプレゼントされる。

何しろ「神事」だから、市の税金ではなく、賛同者たちのボランティアでまかなわれているようだ。
私は単なる見学者なので、一銭も払わずに、こんなゴチになってしまって申し訳ない気持ち。
その代わり、中津川市には観光客としてお金を落としていくからね。

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