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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

(浮遊)霊の宗教的根拠

2023年02月10日 | パワー・スピリチュアル

”霊”という概念は、肉体的生命に対立する存在、という基本はあるものの、例えば現代スピリチュアリティ(霊性)論と日本の通俗的霊概念とではかなり隔たりがある。
このため、霊を学術的に扱う場合、概念定義を明確にする必要がある。
私は本来は霊性(スピリチュアリティ)の問題として接近したいのだが、当面対象とするのは「霊が視える」という現象なので、こちらの通俗的霊概念についてまずは整理しておく。

「霊が見える」という場合の見える対象の霊は、死霊でも生き霊でも、いずれも元の生体から遊離した”浮遊霊”を意味する(本体から浮遊している意味のため、地縛霊も含まれる)。
見えた対象としての”幽霊”は、死霊の浮遊霊に他ならない。

そもそも人は死ぬと上の意味での霊(浮遊霊)になるという考えはどこから来ているのか。
実は、既存のメジャーな宗教は上の意味での”霊”を否定している。
メジャーな宗教は、現世以外の別世界(他界)を想定していて、人は死ぬとこの世から離れてその他界に行くものとみなしている。
宗教としては素朴な神道でさえ、死者は”黄泉(よみ)の国”に行くし、民俗信仰レベルでは”山”が他界だった。→山は異界である
キリスト教では、審判の後、天国か地獄のどちらかに行き先が決まる。
仏教(本来は自我さえ否定するので死後の霊などありえないのだが)では、宗教(=物語)化された教理としては、人は六道という(人間界を含む)6種類の世界※への輪廻転生をしていて、仏道修行によってその輪廻の苦しみから抜け出られる(成仏)という。
※:天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄
これが通俗化されると、キリスト教と類似して、閻魔大王(道教の十王と習合)の裁きによって大抵は(誰でも何がしか悪いことをしたことがあるから)地獄行きとなるのだが、一部、阿弥陀如来の誓願によって、悪人ですら極楽往生が約束されているとみなす宗派(浄土真宗)もある。
※:極楽は天国ではなく、快適な環境で仏道修行ができる天界の1つ

要するに、宗教では本来は、人は死ぬと”他界”に行くと理論づけられているので、浮遊霊を認める余地がない。

もっとも、身の回りの現実の宗教・宗派では、この後示す霊を認める思想と習合するのだが、浄土真宗だけは今でもキッパリと浮遊霊の存在を認めない(なので浄土真宗の葬儀では「御霊前」は使わない)。

では、浮遊霊を思想的に認める宗教を紹介する。
儒教だ。
ここでいう儒教は、孔子を開祖として人倫思想的に発展したいわゆる儒学ではなく、孔子の生家が営んでいた当時の葬儀にまつわる民間信仰的な宗教(=儒)をさす(孔子自身はこの話題を意識的に避けて語ろうとしなかった)
この宗教は、日本の神道を含む東北アジアに共通する宗教メンタリティを持っているため、南アジア由来の仏教よりも、日本人に素直に受容された(仏教は儒教化されて受容された)。
ただし、仏教などに比べると、あの世に対する想像力が貧弱で、その後の儒学と同様、子孫の儀式という現世ばかりに目がいっているため(生き方の指針のための儒学ならそれでいいとしても)、死後の問題については浅さを禁じ得ない。
だが、その浅さゆえに、深遠な宗教思想よりは、庶民には理解しやすかったのも事実。
ではその霊思想を示そう。

生きている人間は、(こん)(はく)とから成り、魂・魄が一体となっているのが生きている状態である。
そして死とは、魂・魄が分離することであり、魄は遺体として残り(朽ち果て)、魂は魄(肉体)から離れて浮遊する。
浮遊して天に行きたいのだが(天の内実についての言及がない)、天に届かず、浮遊したままの魂もある。
その魂に対応する魄の名残があれば、再び合体して再生できるので、遺族は魄としての依代(位牌)を保管しておく(位牌・祖先崇拝は仏教ではなく儒教の風習)。
そして依代がなく、浮遊したまま行き場を失った魂を”(き)”という。

この鬼こそが、(浮遊)霊に相当する。
ただし鬼は日本ではご存知の通り、特定の形態をもった下等霊(妖怪)に限定され、形態のない状態は霊(御霊:ごりょう)と表現する。

御霊は、菅原道真のそれが有名なように、生前の怨念などがエネルギーとなって、落雷や疫病など人間業(わざ)を超えたパワーを発揮するとされる。
パワーを備えた形態のない存在は日本でいえば”神”に相当する。
なので神道では御霊を神として持ち上げ、その怒りを鎮める儀式が必要となった。
※菅原道真は天神様として祀られ、今では学問神(善神)となっている。平将門も怨霊ではなく神となって神田明神に祀られている。

また仏教においても霊を位置づけせざるを得なくなり、たとえば死から審判(結審)までの49日間は、霊(死後の仏になる前の状態)の行き先が決まらずに浮遊するとか、あるいは横死など葬儀・供養されなかった場合は、あの世に行けずに霊として浮遊するという考えも広まった。
そして仏教の法力によって、これらの霊を”成仏”させる(正しくは霊が本来行くべきの六道のいずれかに導く)という論理が成立する。
※:この安直な解決法が、死者=ホトケという仏教の論理に反する図式を蔓延させてしまう。

かように、浮遊霊の概念は儒教の”鬼”概念に由来するといえる。

ただ逆に言えば、なぜ”死者は(必ず)あの世に行く”という真っ当な宗教思想がほころんでしまったのか。
これは西洋においても同様で、キリスト教でも本来は幽霊(ゴースト)は存在しえないのだが、幽霊という概念がキリスト教徒の間にも存在している。
日本と違って、儒教の影響とは言えない。

高度に理論化された宗教の合間を縫って、その論理に反してでも湧き出てしまう幽霊。
その強固な基盤は、頭で考えられただけの”他界”とは違って、一部の人には確実に、否定しがたく”霊”が見えたからではないか。
というのも、霊視者はもともと浮遊霊の存在を信じていたわけではなく、外界に見えるから信じざるを得なくなったからである(逆に浮遊霊の存在を信じれば誰でも霊が視える、とはならない)。
ただ、浮遊霊の概念を理論化し、広めたのは、少数の霊視者ではなく、霊は見えないけど信じた人たち(流言の拡散と同じ社会心理メカニズム。人は物語を好む)。

ということもあって、私にとっても霊を頭で考える観念としてよりも、リアルな知覚対象としてまずはとらえてみようと思うわけである。

参考文献:加地伸行『沈黙の宗教−儒教』筑摩書房


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