このくそ暑い中、江東区・深川の寺巡りに行った(もちろん日傘を差して)。
というのも、本日16日にそこで閻魔様が開帳されるから。
今のうちから閻魔様に顔をつないでおきたいって?
まず深川の南側、地下鉄の「門前仲町(ちょう)※」から地上に上がる。
※:江戸府内の「町」は「ちょう」と発音。「まち」は郊外。
ここは富岡八幡(深川八幡)と深川不動の門前町(まち)で、今でも商店街を形成している。
そこでまずは「てんや」に入って、天丼ではなく”天ぷら蕎麦”を食べる。
深川なら「深川めし」だろ!と突っ込まれる所だが、まだ10時台で飯屋は開店前だし、東京の駅弁として18きっぱーの時食べたので、あまりこだわりはない(東京の地元食でこだわるのは調布の「深大寺そば」)。
富岡八幡には故あって※行かず、橋と通りの名として有名な永代寺を軽く参詣して、参道先の深川不動に行く。
※:世間をにぎわした不吉な殺人事件があったので。
境内に入ってすぐ左の深川龍神に参拝し、靴を脱いで本堂に入る。
中では護摩行の最中で、椅子に坐って護摩行を眺める。
1階には大きな不動明王、2階には阿弥陀仏その他、3階は閉まっていて、エレベータで行く4階には大日如来を拝める。
前回、まだ真言宗に違和感があった頃に訪れた時※は、堂内の仏像のオンパレードに違和感があったが、現在はその逆になっているので、2階のカラフルな吉祥天に対しても女神巡りができたと喜んだ。
※2012年8月15日に富岡八幡とともに訪れている。今回、ほぼぴったり10年ぶりの再訪だった。10年前はなぜか記事にしていない。
また境内には吒枳尼天(だきにてん:女神ではなく、恐ろしい女夜叉)を祀った出世稲荷社(神仏習合)があり、祠前で太鼓を叩いて祈る。
吒枳尼天のお札か御影が欲しかったが、願掛けの札と狐の人形しか売ってなかった(私は神仏に対して無心に祈り、個人的な願掛けはしない)。
ここ深川不動は成田山新勝寺の東京別院であり、本尊の御影は成田山のがほしいので買わなかった。
ここから清澄通りに出て北上し、臨済宗の陽岳寺は狭い玄関前の空間しか入れないが、伏見義民※の碑に参拝し、臨済宗には珍しい僧形の石仏(地蔵・達磨大師ではない)の写真を撮った。
※:飢饉の天明年間、京都の伏見奉行の悪政を命を賭して直訴するため、3名の義民が江戸に入り、直訴には成功したが、1名は奉行側の追手に殺され、2名は獄死した。陽岳寺は彼らをかくまい、彼らの墓もある。
ここから北に深川の寺町が始まる。
陽岳寺の北隣が、本日の目的地、法乗院(真言宗)。
ここは「深川えんま堂」とも言われるように大きな閻魔像があるのだが、開帳日が1・16日に限られている。
閻魔堂の扉は開いているが、参拝者が正面のガラス戸を開いて大きな閻魔像を拝む。
実はこの寺の目的はもう1つあって、珍しいことに孔雀明王を拝めるのだ。
孔雀明王は、修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)にパワーを授けた女尊(羽を広げた孔雀の上に座る)ということで、修験道と女神の二重の目的で拝観したかった。
本堂直下の半地下で扉を参拝者が開ける堂内には、左右に地獄絵図があり(こういうのって浄土宗的)、正面に阿弥陀如来、向かって右に千手観音、左に孔雀明王がある(阿弥陀三尊の組合せなら観音と勢至菩薩が普通)。
対面した孔雀明王は、造形は中性的ながらも彩色が美しい(写真)。
私は、毎日自室の尊像に対してやっているように、孔雀明王の印を組み、真言(オン・マユラギランティ・ソワカ)を唱える。
この寺の北隣は深川七福神の福禄寿を祀ってある心行寺(浄土宗)。
江東区南部を縦横に走っている運河の1つ仙台堀川を越え、浄心寺(日蓮宗)の境内を通り抜けて、公園で一休みし、寺町の風情が漂う中をさらに進んで、長専院(浄土宗)で出世不動※を拝み(今回は出世の御利益がありそう)、その正面の正覚院(浄土宗)でガラス越しに本堂の阿弥陀三尊を拝み、深川散策のメインストリートといえる「資料館通り」に出る。
※:浄土宗と不動明王の組合せは宗派的には不整合だが、新宿の太宗寺(浄土宗)にも不動堂があって、それは運搬中の不動様がその寺を選んだためという。
この通りには「深川めし」の店や土産物の店があり、散策者が多い。
正面の霊巖寺(浄土宗)は、江戸六地蔵の1つでもあり、松平定信の立派な墓がある。
寺が経営する幼稚園の園児が作った等身大の「かかし」が通りに飾られている(夏の寺にふさわしく「お化け」かと思った)。
通り沿いに東に進むと、ビルの一角に深川江戸資料館がある。
400円払って、冷房の効いた館内に入ると、そこは江戸深川の町並を再現した空間(写真)。
また深川や木場などの文化財一覧の冊子などを発行していて、ここは深川近辺の情報センターとしての役割も担っている。
この資料館界隈と清澄通りの向こうの清澄庭園を合わせると、江戸情緒が残る深川を堪能できる。
私はもう少し”深川”を堪能するため、さらに北上して、江戸に入った家康(1590年)がさっそく開削させたという立派な運河である小名木川を越え、深川の鎮守たる深川神明宮に足をのばした。
実は今まで、深川って運河の町だから、運河のどれか、たぶん一番深い小名木川の別名を”深川”としたのかと思っていた。
ところが深川神明宮前の説明板を読むと、摂津から来た深川八郎右衛門という人が名主となってここを慶長元年(1596:江戸開府前!)に開拓したので、その名をとって地名になったとのこと。
実は江戸の町を作るに当たって、摂津すなわち今の大阪から人が移住してきた所が深川のほかにもある。
もんじゃ焼きで有名な中央区月島。
江戸の町人文化のルーツは大坂の町人が担ったのかもしれない。
ここから南に戻り、シーラカンス像がある西深川橋の鉄橋(写真)で再び小名木川を越えて、地下鉄の清澄白河駅に着いた(松平定信の白河藩邸があったのだろう)。
このように深川は、浅草や谷中と並んで、”江戸”を味わうのにいい町だ(いずれも寺町)。