今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

開眼夢というものを見た

2020年07月25日 | 心理学

 ここ連日、読書中に、覚醒していながら、夢を見て、その夢が非現実でヘンなので、
読書している意識で、今のはなんだったのか、と思うことを体験している。

その内容は読書とは無関係で、知らない人物が登場して、音声を伴っている。
覚醒して開眼しているので、読書中の居眠りとも違うし、意識コントロールできない内容なので能動的イメージ化(空想)とも違う。

読書中に眠りに陥って夢を見ることは珍しくない。
ただ、それ自体が意識(システム2)の質的変性現象なので、
少なくとも目覚めた後は、睡眠に陥って夢を見ていたと判明する。
なので、これとは違う。

今回の覚醒中の夢体験は、今までにはなかった。
これはいわば、覚醒時の幻覚体験なので、いよいよ脳に異常がきたかと心配したが、
「白昼夢」(Day Dream)っていう単語があるくらいメジャーなのだから、
自分がたまたま経験しなかっただけで、世間的には珍しいことではないのかもしれない。

ただ国語辞典での「白昼夢」は、能動的表象も含まれていて、この項目の執筆者自身が体験してそうにない記述なので、心理現象の説明とはなっていない(国語辞典はそれで仕方ない)。
また、この名称だと、論理的に昼寝や午睡中の夢も含まれてしまう。
言い換えれば、この文学的名称しかないということは、心理学ではまともに扱われてこなかった証拠だ。

ならば、まずは心理学的名称が必要だ。
覚醒夢、これだと覚醒の定義が問題になる。
開眼夢、こちらの方が行動的説明ですっきりしているので、これにしよう
(文学的余韻に欠けるが、それをそぎ落としたいのだから仕方ない)。

さてこの開眼夢は、まさに開眼しているので、開眼中の視野(私の場合は本の書面)と夢の映像が二重写しになる。
これが読書中に眠った夢と異なり、それと明確に区別できるポイントでもある。

たとえば、この記事を読んでいる読者は、今”モナリザ”の絵を思い浮かべてほしい。
すると、この画面(視覚像)とモナリザのイメージ(表象)が二重写しになっているはず。
映像体験的にはこれに近い。
ただ、開眼夢の鮮明度は、イメージ表象(想像)よりも鮮明で視覚像に近い。

異なるのは、夢の一種なので自我にとっては現実の世界体験と同じく、受動的で制御不能な点だ。
一方、睡眠中(レム睡眠)の夢と異なるのは、ストーリー展開がなく、動画にして数シーンで終ってしまうこと(入眠時の浅いノンレム睡眠の夢だから)。
すなわち、この開眼夢自体が短時間の気まぐれな現象といえる。

今まで、私にとって、「夢見」は、睡眠を前提にしていた。
ところが覚醒中でも夢見が可能なことを経験してしまうと、夢見という現象の捉え直しが必要となる。
夢見は睡眠だけでなく、覚醒とも両立可能だから。
すなわち夢見は、覚醒・睡眠に付属しない、それらと並立できる第3の意識状態ということになろうか。
ちなみに、夢見は無意識現象ではなく、覚醒時とは異なる意識現象(システム2)とするのが私の立場。

さらにこの開眼夢と能動的表象との中間といえる現象として、小説を読んでいて、そのシーンが表象像として書面の文字よりも前面に出てきて、まるで映画を観ているようなリアリティに満ちた体験をすることがある。
文字を視覚処理しているはずなのに、意識はそれを飛ばして(文字の視覚像が消えて)、文字に基づいて変換された表象像の方がありありと体験している。
考えてみれば、これも不思議な現象だ。

こう考えると、能動的表象から睡眠中の夢に至る、脳内イメージ化現象は、
意識制御の度合いに幅広いバリエーションがありそうだ。

なぜなら、視覚経験の現場は、目ではなく、脳だから、
目(網膜)に映っていないものを見ることができるのだ。
しかもそれが現実と見まがうくらいリアリティをもって体験することがある。

これを極端に推し進めていくと、覚醒して体験していることも、もしかしたら開眼夢であって、夢と同じ脳内再生の表象かもしれない。
と、話が”唯識”っぽくなっていくが、
私は決して荘子の”胡蝶の夢”方向に先走ることはしない。
実際には、夢とリアルな世界体験の区別はできているから。
※:夢の中で蝶になっていたというこの話はいかにも作り話。なぜなら夢の世界側はファンタジックであっても、夢見の主体は覚醒時と連続した自我(システム2)であって、自己同一性は保たれているから。私も空を飛ぶ夢は見るが、あくまでこの自分のままで空を飛ぶ。ちなみに『荘子』自体、作り話に満ちている。