今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

物語を超えて

2020年07月22日 | 心理学

心理現象はできるだけ、自分の多重過程モデルで論じたい。

前回の半沢直樹の記事、すなわち人は物語を求めている、というのは日常的なシステム1・システム2による社会心理現象。

人間の心の可能性を追求する多重過程モデルに立つと、そういう通俗レベルで満足したくはない。

空の雲が何かの形に見えたり、左右対称のインクの染みで作られたロールシャッハテストの図版がいろいろなものの形態に見えたりするのが人間で、不確かな形態を完全な形態に補う(意味を付加する)知覚作用は、生存的に意味がある(薮に隠れた猛獣をきちん見分ける)。

ただ、過剰な意味づけは、主観の投影であり、対象の真の認識から遠のいてしまう。

この世には、過剰な意味付けで成立している妄想体系が、さも神秘思想の顔をして、人々をその意味地獄に招こうとしている(時間と財産が吸い取られる)。
物語を求める人ほど、その欲求ゆえに、この陥穽にはまりやすい。

これらは、システム2の言語体系(論理的辻褄合わせ)で作り上げられたものにすぎないことは、一段上に立てば見えてくる。

現代芸術が、人々に求めているのは、既存のパターン化された意味づけの慣習から、対象を解き放つことにある(だから、あえてワケのわからぬようにしてある)。

キュービズム絵画や無調性音楽のように、ゲシュタルト崩壊をあえて経験させることで、対象との先入観のない出合い直しの機会が与えられる。

強迫的な意味づけ習慣からの脱却、それによる意味付与以前の純粋経験への立ち戻り。

無意味をおそれないこと。

ロールシャッハの図版が何かおどろおどろしいものの姿ではなく、「ただの込み入ったインクの染み」に見えること。

この段階が、システム3(現象学、マインドフルネス)である。

娯楽としての物語は、感動を経験できるからそれでいい。
だが、あらゆることに物語性(意味)を貼り付けないこと。

通俗レベルの意味の解体によって、今まで無視されてきた新しい意味が開示される(付与するのではない)。
そこから再出発することがシステム3だ。

そして人知を超えた新しい意味世界の扉が開かれる。
それがシステム4(トランスパーソナル)だ。

先走ってしまった。

まずは、日常で作動している直感のシステム1や思考のシステム2から、それらを停止するシステム3の作動を可能にするといい。
半沢直樹を観ていない時に、とりあえずは10分でもいいから、瞑想すること(作動し続けているシステム1とシステム2を停止すること)をお勧めする。