今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

私にとっての「刹那滅」

2017年08月02日 | お仕事

現在、私の研究上の関心対象は「刹那滅」(セツナメツ)である。
刹那滅とは、刹那(瞬間)に生じて刹那に滅するというのが存在の在り方であるという仏教哲学上の説で、仏教の根本テーゼである「諸行無常」の論拠として唱えられた。

その刹那滅に向かった直接の理由は、ハイデガーの存在論で、
といっても私が彼の著作集に目を通すには(そして理解するには)限度があるので、彼の存在論を研究している古東哲明氏の著作※を通して、ハイデガーの存在論が「刹那」に行き着いたことを知ったためである。
※たとえば『ハイデガー:存在神秘の哲学』(講談社現代新書)。…この本、内容はいいのだが、いい歳した哲人ハイデガーに「ぼく」と自称させる言語感覚は読んでいてつらかった(東京男にとっては「ぼく」と自称するのは半ズボンの小学生まで。他の地域の人は大人になってから使うようだが…)

では何でハイデガーの存在論に向かったかといえば、人間存在を生き生きと理解するには、現象学的視点が必要だと思い、フッサールからの流れでハイデガーの『存在と時間』を読んだら、存在と存在者の区別に目からウロコが落ちて(たいていの人は両者を同一視)、現象学的存在論にハマったのだった。

その現象学に向かわせた元は(フッサールと同じく)心理学で、人間の在り方を科学的・実証的に探究しようと思ったからで、
その心理学をやろうと思ったのは、大学2年で直面したサークルでの集団運営の悩みがきっかけ。

言い換えれば、大学に入った当初の目的は心理学ではなかった。
何かといえば、漠然と仏教をやりたいと思っていた。
ただ、学問的にというより、日々の生き方としてその教えを求めていた。
それでも、 仏教思想を専攻できる所に入ったので、1-2年次は仏教関係の授業をとった。
その中で、私から仏教を専攻することを諦めさせた授業があった。
「サンスクリット語」の授業である。

仏教をきちんと学ぶには必須の授業だが、サンスクリット語は名詞の格変化だけで8つもあり、しかも日本語に対応した辞書がないため、梵独辞典と独和辞典の2つを使って、サンスクリット語→ドイツ語→日本語で単語を調べるため、授業についていくために休日返上での勉強を余儀なくされた。

当時は、山岳部にも入っており、休日は山に行きたい私は、サンスクリット語の自習がなにより苦痛だった。
しかも、上述したように別のサークル活動によって学問的関心が心理学にシフトし始めていた。
結局、私は「サンスクリット語」の授業を放棄し、その延長上の仏教も専攻から外した。

実は、そのサンスクリット語の授業で、テキストに使っていたのが「刹那滅の論証」(ダルマキールティ)だったのだ※。
ああ、あの時放棄しなければ、刹那滅について原語のテキストをとっくの昔に読めていたはずなのに。

なんて壮大な人生の回り道をしてきたのか。
もちろん、単なる回り道でないのは確かだが、回り道であることも否定できない。
ただ、少なくとも確かに言えることは、私があのまま刹那滅を勉強していたら、大学への就職の道は実質的に無かったろう。 
※:刹那滅を論理的に理解するのではなく実感するには、瞑想で”時の流れ”に集中していくといい。時の流れをミクロ的に拡大していくと、「流れ」という動態は、刹那という瞬間が消滅する連続態であることが実感できる。まさにアニメという動画が実はセル画という静止画の連続であるように。すなわち時の”流れ”は、錯覚現象なのだ。