博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『百家講壇 孔慶東看武侠小説』その1

2007年09月23日 | TVドキュメンタリー
『百家講壇』は『その時歴史が動いた』と放送大学を足して二で割ったような番組で、各分野の専門家が中国文学や歴史、哲学について講義をするというシリーズ番組です。最近では『論語』や『荘子』、『三国志』、ドルゴン、和珅などを扱ったシリーズがそれぞれ好評を博したとのことですが、金庸小説を扱ったシリーズもあると知り、矢も楯もたまらずにDVDを注文。これが今回鑑賞する『孔慶東看武侠小説』全14集であります。

演者の孔慶東氏は北京大学中文系の副教授ということですが、番組では気合いを入れてカンフースーツで登場です。番組では合間合間に金庸作品のドラマ版の一場面が挿入され、それも見所となっています。以下、第1集から第4集までの要旨と気になった点です。

第1集「金庸小説的情愛世界」
郭清と黄蓉、楊過と小龍女、福康安と馬春花、李文秀の恋愛について取り上げる。『射英雄伝』の黄蓉は男性顔負けの才知を備え、常にその才知でもって男性を圧倒し、男性の審美対象となることを拒絶している。またグズな郭靖を一人前の侠客に育て上げた。このようなヒロイン像は金庸が初めて作り上げたものである。楊過と小龍女の恋愛は礼法が最も厳しかった南宋期の時代背景によって見る必要がある。この二人の恋愛がタブー視されるのは、今で言えば男子生徒が若い女性教師と結婚しようとし、周囲の大人が反発するようなものだ。

……補足すると、師弟の間での結婚を禁じるというタブーは中国人読者にとってもいまいちピンと来ないものであるらしく、金庸には当時ホントにこんな風習があったの?とツッコミが寄せられたこともあるとのこと。金庸は改訂第三版で注釈という形で長々とこの問題に対して論じています。でもこの例えの方がわかりやすいですよね。

第2集「金庸小説的奇情怪恋」
梅超風と陳玄風、李莫愁、裘千尺と公孫止、韋小宝と七人の妻など、小人物や悪人の情愛について論じる。李莫愁が「情痴」であるのに対して裘千尺は「情覇」と言うべきであり、彼女は情愛の覇道を歩もうとしたという表現が面白い。また元好問の詩の一節「問世間、情是何物」はそれほど知られた句ではなかったが、『神雕侠侶』によって一気に有名になったという。

第3集「武侠小説中的侠義」
侠義精神と武侠小説の誕生・発展を歴史的に見ていく。墨家の「侠」と儒家の「文」は古来ともに世を乱すものとされ、似たり寄ったりの概念であると見なされていた。そして「文」を担う文人が武侠小説の書き手となって自らの理想をこめることになる。(この辺りは武侠小説の専家である陳平原氏の見解の引用であるとのこと。)

印象に残ったのは、『水滸伝』を前近代の武侠小説の典型と見なす一方で、『包公案』などの公案小説を、結局包拯ら名裁判官を目立たせるだけで侠客の功績や個性を埋没させるものとして低く評価していることと、譚嗣同・秋瑾・霍元甲らとともに雷鋒を「当代第一大侠」として高く評価していることです。

第4集「金庸小説中的侠義」
金庸小説は武侠の「武」よりも「侠」の部分を重視している。初期の作品に登場する陳家洛・袁承志・郭靖・胡斐は『孟子』にいう「大丈夫」を体現した「儒家の侠」で、彼らは革命精神を持ち、熱烈な共産党員のようである。ついで中期の作品には楊過・張無忌・令狐冲ら国のため民のために戦う一方で、個人の生活や自由も重視する「道家の侠」が現れるが、『天龍八部』の三人の主人公は武功や義侠心では解決できない宿命を背負わされており、「仏家の侠」と言うべきである。『天龍八部』は宗教思想の入門書としても有用である。

金庸小説は100%の善人がいないかわりに100%の悪人もいないという前提で書かれており、『連城訣』は特に善人が過酷な状況の中で悪人となるという「侠の弁証」のテーマが課されている。また『鹿鼎記』は「反侠」がテーマとなっており、武功が使えず、悪知恵しか無いような韋小宝が活躍するのは、陳家洛のような文武両道の才子や陳近南のような大侠へのアンチテーゼである。

第1集・第2集あたりでは講義のつまらなさにDVDを購入したことを後悔しかけましたが、第3集・第4集で雷鋒を大侠だと言い張ったり、陳家洛らを熱烈な共産党員に例えたりと、ようやく口のエンジンが回り出したようです(^^;)
コメント (4)
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