田中克彦『漢字が日本語をほろぼす』(角川SSC新書、2011年5月)
漢字と日本語との組み合わせは必然のものではなく、それどころかやっかいな重荷ですらあるという本書の主張には同意します。また、漢字が読み書きできないからといって充分な能力のある東南アジアの看護師・介護士が排除されているという状況は私も不毛だと思います。しかしだからと言って日本語の表記から漢字を取っ払ったところで、それまで漢語で表記されていた言葉がカタカナ語に置き換わるだけではないかと思うのですが……
ふと思いついて高島俊男『漢字と日本人』(文春新書)をパラパラ見返してみたら、やはり本書と同様に漢字と日本語の関係はいびつなものであるというようなことが書いてありました。ただ結論としては、かと言って今更漢字を使わずに日本語を表記するというのも色々ムリがあるし、それを承知で漢字と付き合っていかなきゃしょうがないよね(´・ω・`) という感じでしたが……
本村俊二『古代ポンペイの日常生活』(講談社学術文庫、2010年3月)
ほぼポンペイの遺跡の壁や柱に残された落書き類だけをネタにして書かれた本ですが、なかなか面白いです。特にローマ人の識字率や識字の質について論じた部分はこれからの研究の可能性さえ感じさせます。
ただ、ネタとして面白いのは第6章の「愛欲の街角」。「愛する者は誰でも死んでしまえ」という落書きは、超訳すると「リア充爆発しろ!」になるわけですね。わかりますw また、カエサルの「来た、見た、勝った」のパロディで、「来た、やった、帰った」という落書きがあるということですが、ローマ人、自重しろ!とツッコミたくなります。ついでにこれを「教養すら感じる」と評した著者にも自重していただきたい(^^;)
漢字と日本語との組み合わせは必然のものではなく、それどころかやっかいな重荷ですらあるという本書の主張には同意します。また、漢字が読み書きできないからといって充分な能力のある東南アジアの看護師・介護士が排除されているという状況は私も不毛だと思います。しかしだからと言って日本語の表記から漢字を取っ払ったところで、それまで漢語で表記されていた言葉がカタカナ語に置き換わるだけではないかと思うのですが……
ふと思いついて高島俊男『漢字と日本人』(文春新書)をパラパラ見返してみたら、やはり本書と同様に漢字と日本語の関係はいびつなものであるというようなことが書いてありました。ただ結論としては、かと言って今更漢字を使わずに日本語を表記するというのも色々ムリがあるし、それを承知で漢字と付き合っていかなきゃしょうがないよね(´・ω・`) という感じでしたが……
本村俊二『古代ポンペイの日常生活』(講談社学術文庫、2010年3月)
ほぼポンペイの遺跡の壁や柱に残された落書き類だけをネタにして書かれた本ですが、なかなか面白いです。特にローマ人の識字率や識字の質について論じた部分はこれからの研究の可能性さえ感じさせます。
ただ、ネタとして面白いのは第6章の「愛欲の街角」。「愛する者は誰でも死んでしまえ」という落書きは、超訳すると「リア充爆発しろ!」になるわけですね。わかりますw また、カエサルの「来た、見た、勝った」のパロディで、「来た、やった、帰った」という落書きがあるということですが、ローマ人、自重しろ!とツッコミたくなります。ついでにこれを「教養すら感じる」と評した著者にも自重していただきたい(^^;)
*香港から帰ってきました。
街歩きの他、山科さまからもご教示いただいた美術館・博物館もいろいろ廻りましたが、故宮を除いては、文物の質も高く、教育効果の研究も進んでいるようでした。
文物、とくに陶磁器では、
故宮で見た事もない、少なくとも故宮視点からは珍しい、
そういう品々もあり、レベルも高く、勉強になりましたよw
そういや香港、行ったことないですねえ。香港の博物館とかあんまり期待してなかったんですが、色々といい所があるんですか!
合格したのはインドネシア人2人とフィリピン人1人で、受け入れ事業が始まってから初の合格者となった。しかし残りの251人は不合格となった。全員が母国ですでに看護師の資格を持っているので、日本語が壁になったとみられる。同じ試験を受けた日本人受験者の合格率は約90%だった。
我々日本人は、英語を通して世界中の人々に理解されている。
かな・漢字を通して理解を得ているわけではない。
我が国の開国は、英語を通して日本人が世界の人々から理解してもらえるかの努力に他ならない。
我が国民のメンタリティを変えることなく、ただ、法律だけを変えて交流したのでは、実質的な開国の効果は得られない。
鎖国日本に開かれた唯一の窓ともいうべき英語を無視すると、我が国の開国も国際交流もはかばかしくは進展しない。
この基本方針にしたがって、我々は耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで、万世のために太平を開く必要がある。
英米人は、「我々は、どこから来たか」「我々は、何者であるか」「我々は、どこに行くか」といった考え方をする。
我々日本人にしてみれば、奇妙な考え方であるが、彼らにしてみれば当然の考え方になる。
それは、英語には時制というものがあって、構文は、過去時制、現在時制、未来時制に分かれているからである。
3時制の構文は考えの枠組みのようなものとなっていて、その内容は白紙の状態にある。
その穴埋め作業に相当するものが、思索の過程である。
ところが、日本語には時制というものがない。
時制のない脳裏には、刹那は永遠のように見えている。
だから、構文の内容は、「今、ここ」オンリーになる。新天地に移住する意思はない。
思索の過程がなく能天気であるので、未来には筋道がなく不安ばかりが存在する。
TPPの内容に、行き着く先の理想と希望が見出せないので改革の力が出ない。
必要なものは自分で手に入れるのが大人の態度である。
だのに日本人には意思がない。それで、意思決定はできない。無為無策でいる。
常に子供じみた他力本願・神頼みとなる。
意思がなければ、意思疎通もはかどらない。それで、察しを遣う。
だから、日本人の独りよがり・勝手な解釈は避けられない。
問題を解決する能力はないが、事態を台無しにする力を持っている。
だから、我々日本人は、自重に自重を重ねて、常に事態を静観する必要に迫られていた。
我々は、変わらなくてはならない。
http://koshin.blog.ocn.ne.jp/koshinblog/2011/02/nago_7890.html