博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

ドキュメンタリー『故宮』 その3(完)

2006年07月02日 | TVドキュメンタリー
(前回:その2

後半の第九~十二集のあらましです。

第九集「宮廷西洋風」
明の万暦年間に中国に到来したマテオ・リッチをはじめとするイエズス会の宣教師によって、西洋の科学技術や文物が宮廷にもたらされることとなった。康熙帝は宣教師を欽天監監正に任命し、西洋の暦法に取り入れる一方で、西洋音楽や数学、医学を愛好した。雍正期を経て乾隆期には時計や西洋風の建築などを愛好する西洋ブームが起こったが、かたやフランスやドイツでも中国ブームが起こっていた。しかし西洋の時計や機械仕掛け、あるいは清末に導入された電灯や電話などは王侯の玩具として愛好されたにすぎなかった。

第十集「従皇宮到博物院」
溥儀が退位してから紫禁城が故宮博物院となるまで。1912年に清朝は滅亡したが、民国政府の提示した清室優待条件により、溥儀はこれまでと同様に皇帝の称号を保持し、紫禁城に住まうことを許された。しかし1924年に北京に入城した馮玉祥は溥儀を紫禁城から追放してしまう。そして清室善後委員会による故宮の所蔵品の調査・点検を経て、1925年10月10日に紫禁城は故宮博物院と改められ、内部が一般に公開されるようになった。その後、太和殿等三殿を洋式の国民議会議事堂に建て替える案や、故宮自体の取り壊しも提案されたが、それらはいずれも反対にあって却下され、1928年に成立した蒋介石の南京国民政府によって故宮の保持がなされることとなった。

第十一集「国宝大流遷」
1900年の八カ国連合軍進駐や、宦官など宮廷関係者による盗難・持ち出しによって、1924年に溥儀が紫禁城を追放されるまでには既に相当数の宝物が国内外に流出していた。溥儀は紫禁城から持ち出した宝物を天津、そして満州国の首都・新京(長春)へと遷した。一方、故宮博物院に残された文物は満州事変以後、日本軍の侵略から保護するために南京へと遷し、日中戦争が始まると、陝西・四川省など更に西南方の奥地へと文物を避難させた。第二次大戦後、溥儀の持っていた宝物は東北博物館(現遼寧博物館)などに接収された。奥地に避難させていた宝物は一旦南京に戻されたが、国共内戦中にそのうちの4分の1ほどの精品を蒋介石が台湾に持ち去ってしまい、台北故宮博物院に収蔵されることとなった。残りの宝物は北京の故宮博物院に戻されたが、更に国内外に流出した宝物の徴収や買い戻しが現在まで進められることとなる。

第十二集「永遠的故宮」
1949年、解放軍によって接収された当時の故宮は瓦礫や雑草に埋まって荒れ放題の状態だったが、そこから修繕が進められ、面貌を一新した。そして2004年6月、故宮では国外の技術者の協力も仰いで全面修築を開始した。その修築の様子や、修築作業によって新たに発見された文物を紹介。

前回「その2」で触れた、溥儀が賞賜の名目で溥傑に紫禁城内の宝物を持ち出させていたことについては、第十集・第十一集でも言及されてます。やはりこの行為を宝物の盗難行為だと非難していますが……

個人的に面白かったのは第十集ですね。故宮が一般に開放された当時の様子を数人の識者にインタビューしているのですが、現在の故宮関係者や当時の関係者の子孫だけでなく、当時実際に見学した90歳前後のご老人にもインタビューをしております(^^;) 例えば書家の啓功氏(インタビュー当時93歳。この人は清朝皇帝の血をひいているようですが。)は、一緒に見学した師匠から「あれは良い物だ。あれは良くない」とか、「あれは本物だ、あれは偽物だ」とか、色々教えを受けたとのこと。この辺の昔語りがなかなか面白いです。また婉容の弟とか溥儀の弟・溥任が出演していたのも驚きです。婉容の弟なんてまだ生きていたんですねえ。
コメント
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