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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



歌詞とパブリック・イメージの関係性についても散々触れてきた。桜流しからですらもう3年以上が経過している。ヒカルも距離が測りづらいだろう。

といっても、ヒカルはそんなに計算高いアプローチをする子でもない。計算は出来る。今の自分がこう思われているからこういう曲を書いてこういう歌詞を載せれば喜んで貰えるだろうという計算は立てられるのだ。しかしそれはしてこない。

『嵐の女神』の何が感動的だったかってその勇気である。あんなパーソナルな歌詞の歌を世間に向かって披露をするのは物凄く勇気が要った筈だ。サウンドに新味がある訳でもない、当時の世相や社会情勢を反映している訳でもない、ややもすると「はぁ、だから何だ? 勝手にやってて。」とソッポを向かれるかもしれない、そんな歌を歌った。そんな歌詞を綴った。そんな"リスク"を取れたから私たちの心にまで響いて届いたのだ。

そこはもう、常に際(きわ)で勝負。いや、こんなのを歌ってもという歌をまた書いてくるんじゃないか。ヒカルは誰にでもすぐ共感出来るわかりやすいだけの歌も書かないし、「誰にもわかってもらえなくていい」と開き直った(まぁ、時に負け惜しみの)歌を歌う事もない。個人的な想いを、誰かに響くかもしれない感触を信じて世に出すのだ。

いや、出来によっては自信満々の時も多い。あの、早くみんなに聴いてもらいたいとワクワクしている時のあの感じである。それはそれで、よいものだ。

さて、では具体的にはどんな歌詞を書くのか。書いてくるのか。書くべきなのか。書くべきでないのか。

『桜流し』は「愛する人を喪う慟哭の歌」だ。震災とEVAが影響を与えているのは間違いない。多くの人の心に響いた。そして何より、美しい。

『嵐の女神』は母への想いを歌った歌だ。当時ですら胸を締め付けられる情感が溢れ出す曲だったのに、今歌われたらどうなるか。想像もつかない。

今の2曲は、2013年8月以降、つまり今、歌われたらもう何と言うか何も言えなくなるだろう。もうそれだけで胸が一杯だ。

『Show Me Love』は弱さと向き合い、また立ち向かう力を得る歌だ。一度登った山を一旦降りて、さて今どんな山に登りつつあるのか。それについて綴った続編を期待したい。

『Goodbye Happiness』は今の人生を肯定する歌だ。生まれ変わってもまたここでKissをしたい。今でも同じ思いで歌えるだろうか。歌詞は巧みで、「この人生をやり直したい」という真逆の思いを抱える人も共感できる仕組みになっている。

『愛のアンセム』もまた、生まれ変わってもまたあなたと、という歌で、上記のGBHと共通している。

『Can't Wait 'Til Christmas』もまた巧みな楽曲だ。「クリスマスが楽しみ過ぎて待ち切れない」という人からも「クリスマスなんてただの平日」と興味を持たない人たちからもどちらからも共感を得られる歌詞。これもGBHと共通している。

更に過去に遡って「HEART STATION」アルバムの曲の歌詞も…と思ったがここで止めておくか。

まとめると、ヒカルは真っ向から対立する思考や感情の両方から同時に気に入って貰える曲を書いている。更には『前世(ゼンセ)はきっとチョコレート』に代表される仏教的輪廻転生の世界観をモチーフにして現世を捉えている。ここらへんが5年前のポイントだった訳だ。今、5年以上経ってどんな歌詞を書いてくるのだろうか。

そして、『お母さんに会いたい』から『もう二度と会えないなんて信じられない まだ何も伝えてない まだ何も伝えてない』の流れが絶望的な現実となって二年半、そこからどう立ち直ってきて今の幸せを掴んだのか、これも歌詞のテーマになっていれば或いはと思うがまだまだ癒やしには時間がかかるかもしれない。こればっかりはtime will tellである。

まだまだ御披露目は先だろう。週刊誌には「4月アルバム発売」説が載っていたようだが、ふむ。まぁもういつでもいいよ。社会の都合で無意味に急かされてヒカルが納得のいってない作品を世に出すのを避けてくれさえすれば、いい。

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ベッキーさん騒動凄いな…ニュースサイトやまとめサイトを一回クリックすれば必ず彼女の名前が飛び込んできやがる…。

毎度のように、芸能人の誰さんと誰さんが付き合おうが別れようが「ご自由に」としか言えないのだけれど、今回ばかりはすぐさま彼女のCM出演が中止・キャンセルになるという"実害"が出てきたので流石にそれは気になった。ゴシップの影響力はデカいなぁ。

御存知のように、CM契約は破格である。その分、出演者は相応の犠牲を強いられる。特にその発言は強く規制され、たとえ冗談でもその社や商品に対するネガティブな発言は許されない。我らがヒカルでさえ「ペプシNEXに決まってんだろがごるぁ」的な発言をしなければならない。100人が聞いたら100人が冗談だとわかってくれる文脈であっても「やっぱりコカ・コーラだよね(笑)」とは口に出せないのだ。契約破棄や違約金やという話になってくる。

特にTVCMに出演する場合はイメージが大切になる。発言の自由だけでなく、ゴシップメディアの存在のお陰で、私生活にも気を遣わなくてはいけなくなり、プライバシーまで奪われる。CM契約の破格とは、形式上、基本的人権の一部を売り渡して得られるもので、買売春とかより圧倒的に豪快なんだな。

今回もベッキーさんが悪童キャラや魔性の女キャラとしてCMに出ている分には特に影響はなかったが、元気で明るく、時に潔癖なまでに清潔なイメージで売っていたから始末が悪い。TVCMの差し替えは経済的な影響も大きく洒落では済まされない。

イメージ、というとあやふやだが、つまりその人の顔や声や名前を見聞きした時に"自動的に連想されるものの集合体"を指す。CMとはその作用に直接訴えかけるもので、王貞治を見たらナボナやボンカレーを即座に連想して貰えるようになれば、CMの放映時間だけでなく、王貞治がテレビに出るたびにナボナやボンカレーを思い出して貰える。露出の多いタレントであればあるほど有利だ。

その作用に、今度から「不倫略奪愛」(事実関係は兎も角、そういう文脈で認識され始めている…)の五文字を人は連想するようになる。ベッキーさんの出演しているCMの商品と同時に。で商品に不倫のイメージが付着するのはマズい、と。困った三段論法だが、こうやって数千万数億単位の経済が動くのだ。

だから地上波TVへの露出というのは細心の注意を払わなければならない。どんな作品や商品を携えていっても、顔を出して出演している以上、自分のイメージと結びつけられて捉えられてしまう。丹精を込めるなら、作品をどこにどうやって提供するかまで気をつけねばならない。

果たして、そこまで考えて作品を創っているのか、特に、自分の顔を出して歌うシンガーソングライターの書く詞への影響は、という話から又次回のお楽しみ。

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さて詞の話なのだが。

作詞家宇多田ヒカルのファンは多い筈だ。ただ、その大きな理由は「共感」であった。そして、詞への共感を価値と感じるのは常により若い世代だ。年寄りは何を言われても今更だったりするから。もっと言えば大体現実に追われていて、人生を考え直す暇など無いから。若ければ逡巡と苦悩と葛藤に心を費やし身を窶す事も出来る。歌詞への共感はその世代に大きな意味を持つ。

これから初めて、30代のヒカルが書いた歌詞を我々は耳にする。その昔ヒカルは「私は今10代だから同世代から共感を得られる歌詞が書ける」という旨の発言をした事がある。おっさんの書く歌詞より説得力がある、と。今はもう10代ではない。

年齢や世代以外のところで共感を得ればよいというのは正論だ。とらわれない、地球愛に満ちた歌詞でも歌うがいい。しかし普遍的な事柄を歌えば歌う程共感は薄れていく。普通の人の心は普遍を求めたりしないからな。大体、自分だけの特別が欲しい。

ここのややこしさを潜り抜けた作詞家が価値を得る。誰しも、独りになりたくはない。自分と同じ感覚を共有できる他者が欲しい一方で、自分が取り柄の何もない、自分の名すら意味を持たない者にもなりたくはない。その間の葛藤の中に仮初めの答を夢見つつ人は生きる。そこの機微を掬い上げた歌詞に輝きは宿る。なるほど、こういう事を考えるヤツは感覚が青いさ。

「私だけの特別」を何万人という人々に与えたのがヒカルの歌詞だった。それは、彼女たちがヒカルと同世代だったからなのか、彼女たちもヒカルも若く青かったからなのか。それがこれからわかる。同世代のファンは特権である。どちらなのか、どちらでもないのか、どちらでもあったのか。言葉は裏切る。時は過(よ)ぎる。寸での所で人は言葉を掬い上げるのだ。救いの言葉を求めて。

人は生きる。人を生む。人は育つ。今のヒカルのリアリティが10代の頃のヒカルのリアリティと同じではありえない。誰をどう巻き込むか、具に眺めていなければならない。

私? ヒカルの書く歌詞は美しい。それで十分だ。というか、詩としての機能を期待している。

20世紀は、音楽のお陰で伝統的な“詩人”という立場が大きく変容した世紀だった。それまでは書籍による伝承が主だったろうに、放送と歌によって言葉が世界中に広がったのだ。20世紀には沢山の詩人がノーベル賞を獲得したが、20世紀の"詩人"と呼べる人で最も「有名」な人物は誰あろうジョン・レノンとボブ・ディランであろう。

確かに詞と詩は異なる。だが詞に詩の機能がある事もまた事実で、レノンの書く歌詞もディランの呟く言葉もいずれも詩として評価されているようにも思う。

「有名である」事にどれほどの意味があるかはわからない。しかし、それだけ多くの人々に言葉を伝えれる技術ができたのは僥倖で、かなりの詩人としての才能が作詞家に流れた感は否定しづらい。

即ち、ヒカルには、作詞を通して「現代の詩人」としての地位を確立できるように、何だったらその詞でノーベル文学賞をとれるまでに作品としてのクォリティーを上げてほしい。あれ、作詞家でノーベル文学賞とった人居たかな? ヒカルが初代になれれば面白い。


さてとっちらかったが、これが本音である。世代毎の共感の担い手、21世紀の詩人、どう表現しても過不足しかない。実際の詞を耳にすれば種々の蟠りは溶解するだろう。その快感を枕にして眠れば疲れもとれそうなのだが、シンプルに言ってしまえばヒカルは今誰に聴かせたくて歌詞を書いているかだ。親友に対して書くと腹を括ればMaking Loveのような歌が出来る。まずはそこからだな。

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京アニの冬クールの新作アニメが凄い。当代随一の技術力を駆使して30分間何をするかといえばひたすら乳を揺らす。それだけだ。設定もストーリーもキャラクターも今のところ何の新味も無く、ただ作画力が高い乳が揺れ続けている。こんなんで売れるんだろうか。いや、秋クールはおそ松さんが大ヒットしたのだから世の中何が起こるかわからない。ただ、今やもう各アニメスタジオの実力が拮抗してきていて如何に京アニといえど作画だけで圧倒できる情勢ではない。もう一押し何かあればよいのだが、たぶんこのまま3ヶ月間乳を揺らして終わる気がする。

馬鹿々々しいって麗しい。意義がない。意味もない。本当にそれだけ。勿論意義や意味を見いだせるならそれはそれでよいのだけれど、馬鹿々々しいだけのもので人を惹き付けられてこそ真のエンターテインメントだ。

「それが何の役に立つの?」「何の意味があるの?」「で、何なの?」と訊かれる場面は多い。これらは別にそういった観点について本当に興味があるのではなく、「つまらなかった」の婉曲表現である。膝を叩いて楽しめたならば、人間、それが役に立とうが立つまいが気にしない。

毎度言っている事だが、歌をヒットさせる為には何らかのストーリーが付随している方がいいし、歌詞にもそういったメッセージ性があった方がいい。しかし、そういうのから離れて作品としてただただ魅力的たりえるかというのがまず最初に訊かなければならない事柄である。ストーリーは後からくっつけて売上の足しにするものであってそれがメインだと錯覚し始めるのはまずい。

毎度のように、周囲はヒカルの復帰にあたって様々な物語を付与し始めるだろう。年中それやってる私がそれを言うのもおかしな話だが。やれ藤圭子の死から何年だのママになっての再出発だの国際結婚の経緯だの本格的歌手の復権だの邦楽市場の活性化だの言える事は幾らでもある。更にEVAのタイアップまで抱えているせいで他所様の物語にまで介入して一端を担う始末。ヒカルの活動は意義と意味に満ち溢れている。

こうなると、いよいよ「馬鹿々々しい事」で人を楽しませるのは難しくなる。ヒカルが歌う度に幾らかの人たちが難しそうな顔をして語り始めるのだ。辛気くさい事この上ない。…悪かったな。

そういった枷から全部逃れて、接した人が「くだらねー」と言いながら皆笑顔になるような作品を作れるかどうか。ヒカルは誰よりもシリアスな作風で知られているが、なんだかんだで音楽はただのエンターテインメントである。それで誰かを励まして色々な人たちの人生を変える力があっても、それはあクマで嬉しいオマケであって目的をそれにするとろくなことがない。ただ聴いた人を楽しませる。それだけの事がいちばん難しい。ヒカルならやってくれると信じていますよ。

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昨年のNHK紅白歌合戦がキッカケでiTunesStoreのソングチャートは(例年通り)大きく動いた。私が見た時には3位がSuperfly、2位が西野カナ、1位が星野源だった。

3位の越智さんには驚きはない。出た歌手の中でいちばん声が出ていたのが彼女だからそりゃ気になるだろうて。

2位の西野カナには少々吃驚
。というのも、歌った“トリセツ”は昨年のiTunesStoreソングチャートでさんざん上位に居座り続けた楽曲で、およそ普段配信で購入する習慣のある人はこの曲が配信で売れていた事を知らない筈はない、といつのまにか(私が)思い込んでいたからだ。紅白で歌ったからって改めて買う人なんて在るだろうかと。山ほど居た。曲のアイデアが秀逸なのは勿論だが、やはりプロモーションて大事だわ。相変わらず西野カナの配信の強さは異常だが、今回もそれを見せつける形となった。

星野源についてはよくわからない。正直、Top10位には来るだろう、彼が歌っているのを知らない人も居るかもだし、くらいに思っていたのだが、越智さんや西野さんを超えるインパクトがあったとは。いやはや、やっぱり私は邦楽市場を理解していないなぁと痛感した。

ヒカルが次に曲を配信販売した時には、上記のアーティストたちとぶつからないかなぁと期待してしまう。2005年からiTunesStoreに進出し着うたで世界記録目前に迫ったいわば「元祖ダウンロードクイーン」なのだから、それが今をときめくアーティストたちと真っ向勝負になった時にどうなるかという野次馬的興味がある。特に目下配信で鬼強い(CDも結構売れている)西野カナ嬢と発売日が被ったらどう取り上げられるかな~なんて考えてしまう。冗談でいいからヒカル、「小娘がっ」とか「青二才がっ」とか言ってみてくれないかなぁ。いひひ。

今やオリコンチャートでのCDのカウントが参考にならなくなっているのでヒット曲のひとつの目安は配信チャートである。特にiTunesStore等は一アカウントにつき一回しか同じ曲を購入出来ないので不正は難しい。出来れば実数を出してうただきたいが多分やらないだろうなぁ。

そういや私まだどの定額聴き放題やってみてないんだけど、チャートってあるんかいな。実数の出るチャートなら利用してみたくもあるが、何というか未だに乗り気になっていないので無意識日記ではあんまり取り上げていかないかもしれない。大きな潮流になるかもしれないのにねぇ。困ったもんだ。

まぁいいや、Utadaの方はiTunes Store全米チャートで18位だかの実績がある。もし地球規模のiTunesStoreチャートがあったらどうなるかも興味がある。日本語アルバムがリリースされるとして、世界の皆は買うのかな。見てみたいもんだ。

ここは思い切って新曲を配信限定で売ってみて貰ってチャートアクションをチェックしたい所なんだが、さて現実はどうなるか。桜流しはDVDシングルのみだった。次回も同様な手法となるか。まだまだ全然わからないが、CDの方が配信よりも利益率が非常に高いので、レコード会社としては出せたら出したい筈なのだ。それに、今でも配信は味気ない、フィジカルを買いたいという層は一定数存在する。特にヒカルのファンには割合が高い気がする。

今でも演歌の新曲はカセットテープでリリースされる。慣れ親しんだメディアから離れ難い人たちは沢山居るのだ。ヒカルがそういう人たちに対してどう出るか。「見捨てる筈がない」というのが読者と私の統一見解だろうけれど、うーん、もうちょっと様子を見てみようじゃないか。それからでも遅くない。何が効果的で、何が我々を幸せにしてくれるか、それが大きく揺らぐのが今年な気がするんだわ。

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でシングルカットの話か。もうFlavor Of Lifeから数えて9年になる。Prisoner Of Loveからも7年半だ。そりゃまぁ御威光というか、シングルヒットを連発するミュージシャン、というイメージではないだろう。誰のイメージかによるけれど。

つい先程@hikki_staffからツイートがあって、moraのハイレゾランキングでSCv1が1位だったらしい。ハイレゾなんて売上実数を見れば「何だそんなもんか」と言われかねないマニアックなランキングだと思うが、BookOffのようなライト層向けランキングでもハイレゾのようなコア層向けランキングでも上位に来てしまう所がこのアルバムの幅広いスタンダード感を表している。みんな持ってるんだわね。(ハイレゾを買う時に自分が"聴き比べできる音源"を持っているのは大きな購入動機たりえる)

そして同時に、ヒカルが「シングルヒット曲のアーティスト」だと認識されている事も明らかになった、かな。配信販売だとバラ売りの扱いが難しいから即断は出来ないのだけれど。少なくとも、オリジナルアルバムが名盤と言われているよりは、「あのヒット曲が入ったアルバム」という認識のされ方をしているようだというのは何となくわかる。元々日本市場はそんな感じで、ヒカルに限った事ではないのだけれど。

なので、幾らヒカルが「アルバムを制作中」と言っても、皆それには興味が無い。ヒット曲が出るか出ないかだ。それだけだ。なので、シングルヒットでタッチアップ、いやちゃうがな、シングルカット&ヒットとタイアップはいつものように重要である。

アルバム制作中といっても、先述の通り一曲ずつ仕上げていくスタイル(といってもミキシングとマスタリングはこの限りではないようだが)なので、途中でシングル曲が発売される可能性も高い。しかし、これはちょっと珍しいパターンかもしれない。

というのも、今までのヒカルは、最初はアルバムを作っているとは言わずに曲単位でリリースを繰り返していき、ある程度貯まったらアルバム曲にも取りかかっていく、というスタイルだったからだ。中毒もBe My Lastもぼくはくまも、アルバム制作宣言は無いままのシングル曲のリリースだった。

今回は違う。まず「アルバム作ってます」とメッセージを書いてからの展開である。つまり、ここからはどのシングル曲をリリースしても「アルバムからのシングルカット」と言われる事になる。どちらかというとUtadaの2枚のアルバムに近い。メッセもツイートも最近は日本語ばかりなので可能性は低いが、グローバル市場向けのアルバムを作っている可能性も否定できないかもね。

後は、3rdアルバム「DEEP RIVER」だろうか。FINAL DISTANCEを経て、travelingの時点で既にアルバム制作に言及していた。つまり、あの作品の殆どの楽曲はアルバムの為の曲という認識が他の時期よりも強い。作風に統一感があるのもその為だ。イントロがよく似た曲が3曲もあったりするしな。


それらのケースのどれに今回が当てはまるかはまだわかったもんじゃあないけれど、取り敢えず今のうちは、過去のリリース感覚を復習しながらこれからのスケジュールを夢想しておけばいいんじゃないかと思います。やれやれ、長い一年になりそうだぜ。

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いきなりだがやや前言撤回。前回今年中にアルバム出る旨ほぼ断言してしまったが、アクシデンタルでない理由で今年中にアルバムが出ないケースがひとつあるのを見落としていた。ダブル・アルバムがリリースされるケースだ。即ち、二枚組のオリジナル・アルバムである。

20世紀最も有名なダブル・アルバムはザ・ビートルズの「ザ・ビートルズ」、通称“ホワイト・アルバム”であろうか。或いはピンク・フロイドの「ザ・ウォール」か。個人的にはジェネシスの「~ブロードウェイ」を推したいが知名度は今三つかな。あとは、復活の狼煙を上げるガンズ&ローゼズの「ユーズ・ユア・イリュージョン」が二枚組ではなく二枚同時発売で話題になった。そういうケースもある。例がロック・アルバムばかりでスマン。

ただ、確かに、ダブル・アルバムというとバンド、グループで出すのが通例なようにも思える。大概の場合、バンドのメンバーひとりひとりが俺の曲を入れろ入れろと主張し合った挙げ句に“民主的に解決しよう”という事で皆の曲を入れる為に一枚では足りなくなって、という感じなのだ。もう一方はコンセプト・アルバムやストーリー・アルバムで、これは表現したい事に時間が必要な場合だな。まぁオペラをフルサイズで入れるなら二枚でも足りないケースが幾らでも出てくるがそもそもオペラはレコードやCDに収録する事を想定していないのだから別問題か。

そんな感じなので、基本的に独りで曲を書き上げるシンガーソングライターはあんまりダブル・アルバムを出さない。今パッと思いついたのはケイト・ブッシュの「エアリアル」位かな。あれくらいに「独自の音世界」を持っていればダブル・アルバムも様になる。

ヒカルの場合、コンセプト・アルバムを作っている様子はない。一曲ずつ作り上げていくいつものスタイルであるようにみえる。だとすると、ダブル・アルバムになる可能性は低い。

というのも、大抵ヒカルは、今までの例だと大体10曲くらい作ってきた所で力尽きるからだ。要するに(こんな言い方はしたくないが)ネタ切れである。今までで最も曲数の多い「EXODUS」には14曲が収録されているが、制作最終盤にはティンバーランドを呼んでサウンドに新風を招き入れた。単純に、アルバムにそれなりのバリエーションをつける、或いは、キャラの被った曲を入れないとなると、独りでは限界があるのだ。

しかしヒカルの場合、そういう常識が通用するかはわからない。例えば5年間のストックを今回一気に吐き出してしまおうというのならダブル・アルバムも吝かではない、かもしれない。時間さえかければ、今のヒカルなら20曲キャラクターの被らない楽曲を用意出来てしまうかもしれない。流石に才能は底無しの天井知らずだろう。寧ろ問題なのはまずは体力、次に精神力だ。そこに今は"家庭の事情"即ち子育てと家族生活が加わる。そうそう、ダブル・アルバムになんてチャレンジ出来ないだろう。

ただ、この機を逃すと次はこどもがある程度大きくなって手のかからなくなった10年後とか20年後とかになるかもしれない。やれるならやれるうちにやっておくのがダブル・アルバムだろう。

ファンとしての意見を述べさせて貰うなら、いきなり20曲どーん!は勿体無いので、間をおいて10曲ずつリリースしてくれた方が嬉しいかな。消化不良起こしちゃうよ。もっとも、ストーリー・アルバムかコンセプト・アルバムであった場合はこの限りではありませんですよ、はい。ババーンと二枚組で発売しちゃって下さいな。

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さてさて今年の展望という話になるんだろうけれど、「新譜の発売」。これに尽きるか。

ヒカルの場合、幾ら制作が遅れても“極端な延期”は有り得ない。というのも、制作に取り掛かった楽曲を放棄しないからだ。年単位でのアルバム発売延期は大抵「まるごと作り直し」である。コンセプトの起点からの見直しである。そうなるとそこまで作っていたトラックを全廃棄していちから制作に臨み直す事になり発売が年単位で延びていく。

ヒカルは、一曲々々を作り上げていくだけ、しかもそれを放置や放棄をしないというのであるから、それぞれの楽曲にかかる制作時間は変動するとしてもそんなに極端な誤差は生じない。せいぜい何ヶ月か単位で延期されるだけだろう。そうすると、ほぼ確実に今年中にニューアルバムはリリースされるとみて間違いない。

もっともそれは、今まで通りの制作態度で臨んでいたとして、という前提付きなのだが、今更変えてくる理由もないようにも思えるし、逆に、変えるなら今しかないともいえる。実際、この5年で「作りかけのトラック」のストックが山のように積み上がっている可能性もある。こういう、「音楽家としては暇な時間」が過去20年近くなかった訳だから、これはどうなっているか、これからどうなるか、本人でもよくわかっていないかもしれない。

ただ、一曲毎に完成を目指すスタイルは、技法というより哲学に近い。これを変えるというのは結構な“人格の変換”が必要に思える。従って私は「変化無し」の方に一票を投じておく。

となると恐らく、ヒカルはある程度めどのたつ時期になってきたら自ら〆切を設定してくる可能性が高い。それに伴ってプロモーション体制が整っていくだろう。いつまでも無期限で制作にあたるのは性に合わないようにみえる。

しかし、ひとつ問題がある。ユニバーサルほど巨大な会社になると、目玉商品は四半期毎に分散させて発売してくる。国際的な商品ともなれば尚更だ。影響力の小さいミュージシャンなら比較的自由かもしれないが、大型プロモーションにはそれだけの人員が割かれる。ユニバーサル全体の中で宇多田ヒカルという商品がどれくらいのプライオリティを持っているかで話が変わってくる。

巨大過ぎれば寧ろレコード会社の方が合わせてくれる。もうユニバーサルのアーティストではないが、例えば往年のBON JOVIがニューアルバムを出すとなると総てがそれに合わせて動き始めていた。ユニバーサルが巨大化していくにつれその傾向は薄まっていったように思うが、或いはそういった事も…ってその話はいいか。

こちらの見立てでは、EMIレーベル、UMG全体ともに「ヒカルの自由にさせよう」という方針で動くように思えている。単純に、市場的なキャラクターからいって、季節感も定番感もない上に動けばそれだけでニュースなので、わざわざクォリティーを犠牲にしてまで発売時期を指定する事はない。余程の大物アーティストとバッティングしない限り、ヒカルのタイミングでアルバムはリリースされるだろう。

ただ、シングル曲は別である。タイアップがあるからね。ではその話はまた次回辺りにでも致しましょうか。

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