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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ビーチクバーチクうるせぇなぁ…と呟こうと思ったがバーチクって竹馬の友とか博打とかよくわからない隠語になったので止めておいた。33歳初呟き。

ビーチク…

ビーチクマ。

という訳で現在くまちゃんは南半球でバカンス中かな。ビーチで寝そべるくまちゃん…いや、ないか。毛皮暑いもんね。


イーグルスのグレン・フライが亡くなったようで。“ホテル・カリフォルニア”は日本でも結構有名だろうが全米での彼らの人気は、こちらからは想像もつかないレベルのようだ。グレイテスト・ヒッツは長年ベストセラーの代名詞として君臨してきたし、ツアーのギャラが一億ドルとか桁外れなニュースもあった。円じゃない。ドルで一億だ。ドラゴンボールでいえばブルマが死ぬくらいのインパクトだろうか。かえってわかりにくいか。そうか。

困ったのは、これも凄い有名人の訃報なのにこの1ヶ月の訃報ラッシュ(なんだそれは)のせいで「またか」と思われてやしないかという点だ。人一人死ぬのにまたも何もない。その都度、唯一無二の誰かが亡くなっているのである。こう書くと変だけど、追悼の手を緩めてはならない。

そう言っている私は大してイーグルスに思い入れはなかったりする。謹んでお悔やみ申し上げますm(_ _)m

彼らは70年代にその“ホテル・カリフォルニア”を大ヒットさせる訳だが、その歌詞は60年代を懐かしみ現状を悲嘆するものだった。特に深く分析した訳ではないので裏の意味もあったりしても知らない。表層的には大体そんな歌詞である。

もうその時代からして「ロックは終わった」とか言ってた訳だ。それから40年かそこら経つが、ロックはまるで死んではいない。死んでいくのはそのロックの黎明期を形作ったレジェンドたちの方だ。ロックの先行きに不安を覚えるより先に彼らの健康を憂う方が先だわな。これを喜ばしいというのかどうか。

大抵、ロックは死んだとか言う時は宣伝文句であって、それに釣られるのは自分の気に入ったバンドが全盛期を過ぎて最近つまんないなと思ってるケースだ。そのバンドを死んだと言うのは勝手だが、だからって他のロックバンド全部を巻き込むのは何なのやら。でもそれが、売り文句ってヤツなんだろうねぇ。そしてイーグルスはそのノスタルジーだけで(というと語弊がありまくりだが彼らほどそれが似合ってしまうグループも珍しい)、この半世紀近くを乗り切ってきた。死ぬ死ぬ詐欺、みたいなもんかねぇ。ちょっと違うか。

彼らの世代が次々と居なくなっていけば、流石に、死に絶える事はなくとも、ロックがスケールダウンしたジャンルになる可能性はある。今年のテーマは、実はそこらへんなのかもしれない。どうだろね。

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年始からゴシップだ大事故だ訃報だと三面記事に事欠かない日々が続いているが、目下のところ私にいちばんインパクトが強かったのはデヴィッド・ボウイの「★」(ブラック・スター)アルバムだ。

ある意味、彼の訃報よりもインパクトが強い。私は決して彼の大ファンだった事は無いし、テレビでTIN MACHINEのライブを見て「何このつまんないバンド。こういうのがでしゃばってくるから日本で洋楽が敬遠されるんだ。」とかなんとか随分と酷い事を言ったりしてたもんだが、「★」は凄い。こればっかりは、ぐうの音も出ない。

冷たい事を言うが、私からすればボウイが生きていようが引退してようが亡くなっていようが大した違いは無いのだ。勿論20世紀を代表するロックスターだしその影響力は大きいが、極端な話彼の訃報を聴いても特に悲しくはなかった。彼には取り立てて思い入れがなかったし、これからもない。

つまり、はっきり言える。世界中が多分ボウイに対して感傷的になっていて、「★」も涙なくしては聴けない作品になっているだろうから、正直真っ当な評価を下せる人が殆ど居ないんじゃないかと思う中、私なら言えるのだ、「★」は名盤である、と。本当に素晴らしいアルバムだ。

余りにも物語がつきすぎてしまった。死期が近づく中18ヶ月に及ぶ闘病生活の中、最後の力を振り絞って作り上げたラスト・アルバム。発売日の2日後に死去。全英チャート初登場No.1、これで10枚目のNo.1。全米チャート初登場No.1、これが初めての(そして、新作としては最後の)全米チャートNo.1。もう付随する物語が満載だ。誰もが言う。「ボウイは死ぬまでカッコよかった。いや、死んでから後もなおカッコいい。」と。全く異論は無い。正真正銘の超スーパー大スターだ。

っていう話を全部切り捨てても「★」は黒く輝き続ける。ボウイの名前なんか要らない。いやブラック・スターというのはスーパー・スターたる彼自身の事だろうけれど、ボウイの事を1mmも知らなくても「★」は名盤だ。

ただ、Popsとしては聴けたもんじゃない。私にとって「★」は、真性の“プログレッシブ・ロック・アルバム”だ。形骸化したプログレというジャンルにとどまらない、本来の意味での進取的な作品である。いや確かにピーター・ガブリエル的なパフォーマンスをみせる1曲目から始まってデイヴ・ギルモアが書いたみたいな曲で終わるので往年の意味でのプログレらしさも沢山あるのだけれど、どちらかというと、OpethやAnathemaのような「21世紀の今を生きるプログレッシブ・ロック」に近い。こんなサウンドを68歳の老人が完成させていたとは驚異的以外の何ものでもないが、上述の通り、制作者の年齢など知らなくても名盤なのよ。


という感動の仕方を今しているので、今年発売されるヒカルのアルバムも同じように評価する事に決めた。今年のヒカルは沢山の物語を背負える。母を喪った、結婚した、息子が出来た、J-popの復権、邦楽市場の起爆剤、椎名林檎の恋慕や浜崎あゆみの出迎えなど(これについては宇野さんがたっぷり語ってくれてはるので「1998年の宇多田ヒカル」の方をどうぞ)、枚挙に暇がない。更にアジア市場、欧米市場、人種の壁、クール・ジャパン…語れる事は幾らでもある。

だから僕は、だからこそ僕はそれらの事を一切知らない体でアルバムを聴こうと思う。ヒカルに何の思い入れもない人が聴いても、それでも聴いて感動できてこそ真の名盤だろう。そうやって聴いて評価した後で、思い切り物語について語っていく。ハードルをまたぐっと上げさせてもらった。本当に、せいぜいアルバム制作頑張ってくだされお誕生日おめでとう。

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1月19日か~。ファンの間では「119病」というのが流行っている。かれこれ十数年。これは、日常生活の中で119の文字列を見ただけで嬉しくなってニヤニヤしてしまうという奇病で、現在のところ治療方法は確率されていない。時計が1時19分だったりお釣りが119円だったり。しかし一般常識では119は消防・救急の電話番号だからニヤニヤし過ぎるのも注意が必要である。

そういう訳で、今日は本来ヒカルを祝う日であるのだが、実態は我々が嬉しがる日であったりする。皆お祝いを呟きながら、楽しそう。何がそんなに嬉しいのやら。確かに、今日は至る所で119が溢れ返ってはいるんだが。奇病だねぇ。

ヒカルの方はといえば大体この時期はスタジオで過ごすケースが多いらしい。今年も、いや、今年こそはそうなっているだろうか。もうサプライズでお祝いするネタも尽きてないかなぁ。若干フェイントを入れる位の事はしないとだわね。いやでもお祝いするんだったら別にサプライズでなくったっていいんだもんなぁ。スラッとお祝いしちゃえばいいと思うよ。

お祝いといえばケーキ。一日前のツイートの話題は母乳だったが、そういえば大昔、「探偵ナイトスクープ」だったかな、母乳でケーキか何かを作るエピソードがあったような。そんなに美味しくない、みたいなオチだったかな。急に思い出した。別に膨らませない(笑)。

乳飲み子を抱えての誕生日なんてそう気が休まるもんでもないだろうか。「誕生日どころではない」になっちゃうのかな。更に仕事を抱えてたらますますどうしようもない。ヒカルにとっては、もしかしたら「いつもと変わらない一日」なのかもしれない。でもそれがいちばんいいな。そうやって誕生日を過ごして、過ぎてゆく。日々の営みのちょっとした一区切り。誕生日なんて、それだけで、そこはかとなく、いいもんだ。

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出たばかりの本について、どのタイミングでどれくらい語ってもいいものかねぇ。ネタバレが云々といった類いの内容ではないので、早めに積極的に取り上げてもいいのかな。それとも、皆が一通り待つまで少し間をあけた方がいいのかな。ちょっと、悩ましい。

明日はヒカルの33回目の誕生日。生まれた日も数えるなら34回目になるんだけどそれじゃややこしいから大体こう言うよね。そして前に書いた通り、くまちゃんが来て10年になる。贈ったご当人へ宛てた歌からそのまま引用すれば「とうとう知り合って十年」だ。結構なもんだね。

もう少し正確に言えば、彼が彼として喋り始めるのが2006年の5月の事になるので、我々とは知り合ってまだ十年ではないのだが、他に適切な記念日も思い付かないので明日で十年でええやろ。

どこから始めよう。結局ヒカルは自分で自分を救っただけだ、と言い捨ててしまう事も出来るが、それを言って我々が得られるものは何もない。これを真実の欺瞞性だと言い切れるかどうか。途轍もなく難しい。

事あるごとにくまちゃんの毛並み、手触り、肌触りが語られる。それなくしては成り立たない。くまちゃんがぺちゃんこになる夢を見て泣きながら起きてくる…何だろう、それがシリアスでないとはどうしても思えない。くまちゃんは不死身である筈なのに。

いや、それはマズい。くまちゃんは、ヒカルと同時に死ななければならない。初代の宗教家みたいなもので、誰かが代弁し始めるとろくな事になりゃしない。一世一代であるべきだ。

だからヒカル、もしくまちゃんを喪いたくなければ、自らが死なない事だ。死んでも死ぬな。飲んだら乗るな。そういや免許結局どうなったか知らないや。

一方で、ヒカル以外のそれぞれのおうちにくまちゃんの仲間がたくさん居る。皆別人、いや別人熊である。それを抱き締めている人は、あなたが死んだら熊も死ぬと心得よ。

即ち、くまとは「生きること」そのものなのだ。だから、くまちゃんなくしてヒカルは自らを救えなかった。ヒカルが生きていくからだ。単純だが、難しいな、これも。

だから10年では足りないし、一世一代は、あなたにとっても誰にとってもただそうなのだ。そこから先には行けないし、そこまでは行かなくてはならない。世界が心の重ね合わせであるからには孤独は誰の手も届かない所にある。あなたの居る今、ここだ。


示唆に富んでいる。くまちゃんから学ぶ事は余りにも多い。誇張でも何でもなく、くまの向こうに宇宙が見える。WILD LIFEのオープニングをあんな風にしたかったのはよくわかる。果てしなく、親しみやすく、そして身近だ。総てはそこから生まれて、永遠を憧れながら、また還る。たくさんのイメージが湧き出てくる。生きる勇気なんだと思う。


くま崇拝、というのは本音だったのだろう。確かにこれは宗教の真髄だ。だからこそヒカルはこれを一世一代で終わらせなければいけない。それぞれが、それぞれのくまを手にして生きていき死んでいくべきだ。



くまちゃんの前世もまたくまちゃんであったなら、とは考えなかったのだろうか。きっとチョコレートだというのだから、チョコなのだろう。

…なんか輪廻転生の核に掠った気がする。まだもうちっと遠いけれど。


しからば。この後日付が変わった後。ヒカル33歳を祝いつつ、くまちゃん10年も祝おうじゃないの。そして、あなたのところにくまが来た記念日も、思い出せるだけ思い出してあげて。思い出せないなら、覚えているいちばん最初の思い出の日が記念日だ。祝ったら、どうやって喜んでくれたか、しっかと胸に刻んでまた一日を生きていきましょう。

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宇野さんの「1998年の宇多田ヒカル」、もう読んだ人も居ればまだな人も居るだろうか。新書サイズでページ数も少なめだし720円だかのお手頃価格なのでさらっと買って読んでしまえる感じだ。

プロの書く文章だけあって読み易さが半端ではない。普段この日記の時にまわりくどく時に読者を放置する(そういうのの方が評判よかったりするんだけど)文体に慣れている人なら難なく読みこなせるだろう。

ヒカルに対して何か新しい事実が発覚する、というタイプの書物ではなく、過去の事実を踏まえた上で著者なりの論考・考察を展開しよう、という趣旨の書物なので、ここの読者だと「何だ、知っている事ばかりじゃないのさ。」となるのは必須なのでそれは注意かもわからない。

しかし、その点でいえば、個人的には結構興味深く読ませてもらえた。なぜなら、ヒカルだけでなく、椎名林檎やaikoや浜崎あゆみの話もふんだんに(大体均等に)盛り込まれているからだ。違う方向から見れば、椎名林檎のファンからすれば大した新事実は載っていないし、aikoについてもあゆについてもそうだろう。しかし、私は別に彼女たちのファンでも何でもないので知らない事を沢山知れてとてもよかった。椎名林檎の(バック・)バンドの名前を年代順に羅列せよって言われたって出来ないものね。

そういう点で読み直せば、ここを読むような事のやい人たちにとっては、ヒカルについても「へぇ、そうなんだ、知らなかった」となる事実が満載なのだろうと想像する。読者は読者としての立ち位置を把握すれば楽しい読者ライフを満喫できるというものだ。

既知な事実が主であるとはいえ資料価値も高い。無責任なWebとは違い、どれもこれもしっかりと情報の出典・出所を明記してある為信憑性などに猜疑心を抱く必要もない。こちらも手軽に開いてヒカルの言葉や歴史などを引用する事が出来そうで大変麗しい。書籍化の大きな利点であろう。

という訳で基本的な印象としては、金銭的に余裕がないというのでもなければファンとしては「買い」じゃないだろうか。持っていて損はない、と言い換えてもいい。根も葉もない噂で彩られたゴシップ本でもないし、何より、元ロッキンオンの人だけあって音楽業界の事はよく御存知だ。ただ、先程少し触れたように内容としてはタイトルに偽りとまでは言わないがヒカルの話は書籍の中でも4分の1、5分の1といった感じなのでその点はしっかりと踏まえてうただきたい。

で。著者が力を入れている論考と考察の部分についてだがそこらへんはまた機会があれば取り上げる事に致しますよっという事でひとつ。

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そういやブラックマヨネーズは今でも「でもなぁ」のネタをやってるのね。お正月のザッピング中に通り過ぎた気がする。漫才で自ら開発した「型」があると強い。笑い飯の「俺がやる」やハマカーンの「ゲスの極み鬼畜の所行」なんかもいいねぇ。

しかし、そうね、例えばM1グランプリで3組による決定戦に進出した時、もう1つ違うネタの漫才をやる訳だが、1本目と同じ「型」を用いながら、思い切りウケて優勝するケースと、何故か全然ウケなくてダダ滑りするケースと、二つある。何故だろう。

答は結構単純で、それは一回目のネタのウケ方の違いである。新味のある「型」に出会った驚きでウケた場合は二回目はウケない。その「型」はさっき見たばかりだから。「型」に嵌めてはあるものの、結局は言ってる事が面白くてウケた場合は二回目もウケる。それだけの違いである。

それだけなのだが、その違いの自覚を持続するのは大変に難しい。やっているうちに「型」だけが残る場合もある。それはそれで現象としては面白いのだが、理想を言えば、「型」はあクマで面白い会話を導き出す為のキッカケ、下地、踏み台に過ぎず、便利だから使っているだけ、という態度に終始できればいい。しかし、人は往々にして周囲の言説に惑わされ、その有名になった「型」の死守に向かう。一言でいえば形骸化である。死だ。


音楽も同じ事がいえる。特に、ある一定の音楽性で名を成したアーティストであればあるほどファンはその「型」を求める。既に誤謬なのだがこれをすれば期待に応えられるとわかりきっているのにそれに抗うのはプレッシャー化では非常に、大変に難しい。永遠のジレンマかもしれない。さっきからいろいろと具体名を出したくなっているがじっとガマン、ガマン。

ヒカルの場合その「型」が無いからもうずっと中身だけで勝負している。よくもつなぁ、というのが正直な感想だ。人間そこまで強くない。「型」がないと、はてさてどこから始めればよいのかすらわからない。ただひたすらメロディーが天から降ってくるのを待ち続けるだけなのか。〆切に間に合わないよ。

これからもずっと、型に嵌る事なく、それでいて魅力的なメロディーを生み続けてくれるのだろうか。いやはや。

「型」というのとは少し違う(本質的には同じだが)かもしれないが、ライブでFirst Love歌っときゃウケるだろとわかりきっているのもまた心理的には重圧だ。新しい境地にチャレンジしたってウケるかどうかわからない、でもFirst Loveを歌っておけば私は安泰なんだ、という誘惑にヒカルは、勝てちゃうんだな。寧ろ誇らしい、みんなが喜んでくれるなら歌うよ!とアッサリ言えてしまう。それに寄りかかるようなタイプの心の弱さを持っていないからだ。悪くない。嗚呼、悪くないさ。



でもなぁ、と思う。それはそれで、何か音楽的な「型」をひとつ持っていてくれても面白いなとも思うのさ。型に嵌らない名曲を生み出す一方で型に嵌った名曲も生み出す。テイク5も書けばPrisoner Of Loveも書くよなスタンスだ。あらもう既に実行出来ているか。しかし、それを継続できたらまたカッコいい。定番の宇多田ヒカルと非定番の宇多田ヒカル、どちらも新しいメロディーを生み出す。最高である。いちばんの高望みかもしれないが、ヒカルならやってくれるんじゃないかとついつい思ってしまう。少しずつ期待を積み重ねていく事にしよう。

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レコーディングは順調かな~、とかついつい呟いてしまいそうになる毎日だが、私としては、だからといってヒカルの周りに居る関係者の皆さんに何か話して欲しいとは思わない。寧ろ、余計な事は喋ってくれるな、と言いたい。

これだけ有名になると、「忘れ去られる」事が如何に貴重かという事だ。「人が死ぬのは忘れられた時だ」というのはDr.ヒルルクの名言だが、今のヒカルは社会的には「死んだふり」くらいでちょうどいい。中途半端な情報が出回って対応に苦慮する、みたいな事態は避けたいところ。

虫がいい、とは思う。いざリリースになったら「注目してくれ」って言うんだから。しかし現状は、情報の淘汰圧が弱い時代・地域だ。無闇な漏洩は悪い方にしかはたらかないと思って老いた方がいい。「へがくさい」で振り切ったヒカルのセンスは凄い。これもう広げようがないもんね。

それでもゴシップは謎の関係者を連れてきて証言させる。中には中の人なんじゃないのこれという内容もある。となるとこちらとしてもそれは耳に入れておきたくなるのだけれど、こうなると悩ましい。際(きわ)を突いてくるのはプロならではのノウハウだわな。

こういう時、有料メルマガなんかは便利かもしれない。前も触れたように、法律上は私文書にあたるのかな?詳しくは知らないが、メルマガを公開するのは人の手紙を勝手に開封するようなものだからそれだけで咎められる。こういう"情報障壁"が便利かもしれない。

でもなぁ、とブラック・マヨネーズのように思う。そういう事をし始めるとインターネットの良さがどんどん失われていくわな。気軽さや開かれた感を自ら削って。なんというか、20年近くも接してるとこうやって「昔はよかった。」という感情が表れてくるものなのね。この20年の中で新しく生まれた価値や便利の数々には目もくれずにその中で失っていったものばかり見て。ふーん、という感じ。そんなもんなんだな。

今は今。現状に適した行動を取らねばならない。ヒカルはずーっと黙っている。大体正しい。毎日でも呟いて欲しいというこちらの願いに応えていてはすぐにややこしい事になる。でもまぁ、ややこしくなってもよいよと言うのなら、それはそれでという気もしてきた。そろそろくまちゃん10周年。

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「ポピュラー・ミュージックを書く為には市場への信頼が必要だ。」という話はしつこくしてきた。その反例が椎名林檎で、彼女は市場を怖がっている。若い頃は向こう見ずに反抗的になればよかったが、成熟し、担い手となった今はそうはいかない。その人がすかさずヒカルを恋しがる所が味噌なのだ。

つまり、林檎嬢からみてヒカルは「市場を味方につけられる人」「市場を信頼できる人」「市場から信頼されている人」なのだ。疑心暗鬼に陥らず、相思相愛。なのに、新宿系の私とも波長が合うという希有。手離さないよねぇこの絆。

勿論その空気は藤圭子も持っていた。新宿の女まで歌った女性(ひと)だ、あの少しアングラな危なっかしい空気をよくよく御存知なのだろう。歌舞伎町とかゴールデン街とかが似合うと言われていた。娘はそこで猫鳴きしていた。まだ10代の頃の話である。

血は強い。そして半身はNYで育った。小学校の6年間は多くの人にとって永遠とも呼べる長い時間だったかと思うが、ヒカルはそのうちの5年間をNYで過ごしたのだ。その代償として1年間で6年分の漢字を覚えなくてはならなかったが、やはり土地勘は持っている。

とすると、だ。私の仮説が正しければ、今のヒカルは日本に向けてPopsを書くより、全米に向けてPopsを書く方がいい曲が書けるかもしれない。ここが微妙なのである。

培ってきた信頼、というものがある。自ら耕した市場に対する信頼はある筈だ。今は市場にヒット曲はないけれど、それは私が居ないせいだと言い切る自信。それがあればいい曲が書ける。

NY、或いは全米(この2つはまるで違うんだろうなぁ…)に対しては、自らが耕した庭はほんの僅か。しかし、ヒット曲がたんまりある。たった今ヒットしている曲たちとの距離感で自分の作品を評価する事が出来る。これは案外心強い。この市場があって、こういう曲を書いたらここに嵌る筈だという期待こそがPopsである。

今の日本には、それが言えるのは「宇多田ヒカルファン」に対してだけだ。例えば、ヒカルはその気になれば私なんか容易に喜ばせる事が出来るだろう。それだけの技量は常にある。しかし、ポピュラーミュージックというのは「外へ」。誰だかわかんない人たちにウケてこそのヒット曲。発売から1年経っても買う人が何万人も居る(アデルやテイラー・スウィフトはまさにそうだ)という現実。その何万人の顔が見えるかというと無理だろう。それでも買ってもらえる買わせてみせる。そういう強さを、今の日本市場に対して持つのはいかなヒカルでも難しい。

しかし、林檎嬢にそこを期待されて折れるヒカルではなかろうて。そういった種々の悩みを乗り越えて、たまには回り込んで、時には穴を掘って、様々な方法で解決しながら聞こえてくるわあの麗しい歌声か、とな。いつになるやら。そろそろ誕生日だぞあと5日だぃ。

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一応芸能ニュースも大きいのは目にしてるので、SMAP解散騒動も知ってる。日記と銘打ってる以上、読み返した時に「そういえばこの頃はこんな事があったな」とわかるように、記すだけ記しておく。えぇっと、特にコメントはないかな…。

ウォッチングをしてれば面白いんだろうなぁ、とは思う。種々の思惑や事情を斟酌して、記事やリリースの出どころ、タイミングなどから実際の事情を紐解いていく。まぁ楽しいかな。それに伴って溢れるデマに釣られたり釣ったり。愉快犯多いぞぉ。

インターネットのお陰で様々な視点に触れられるようになった為、それまで寡占状態が続いていた大手メディアの"偏向"が露わになった、という歓迎の仕方は間違いではないが、昨日も触れたように、その結果別の方向により著しく偏ったオピニオンが増えただけで、事態が改善されているかといえばそうでもない。総体で見ればマイナスなのではないかとすら思えてくる。

特にスマートフォン時代になって、インプットアウトプット共に素人の割合がぐんと増えた。衆愚とはよく言ったもので、参加する人数が増えれば増える程質は下がる。必ずしもそれは論理的帰結ではないようだが、昨年の今頃話題にしたように、今の日本語圏では情報の淘汰圧が正常に機能していない為、放っておいたら大体デマの方が定着する。麻酔銃乱射癖メガネっ子小学生の言う通り「真実はいつもひとつ」だがデマや嘘は何通りでも思いつく。残った情報が真実である可能性は低い。

本来なら、専門家に任せるべきだ。その中で衆愚は「これはやってはいけない」とモラルやルールを監視するに留めるべきで、あれをやってみようとかこれをやってみようとか言い出したら大体ダメだ。大衆の参加は消極的なのがいちばんである。語弊があるかな。無関心と積極的のちょうど間くらいという意味で。

これも昨日触れたように、衆愚とは大衆についての概念だから相対的なものだ。テーマの設定によっては、あなたも私も衆愚になったりならなかったりする。その時々で入れ替わる。「弁える」。それが必要だ。


となると、"大衆"にウケる歌詞を書くにはその相対性を反映してより抽象的な物言いが必要になる。ある特定の政治的立場を表明するような歌詞を書くのは大衆へのウケが悪い。幸いにも日本語圏ではそのような慣習は下火だから構わなくてよさそうだが、アメリカ人のポップソングにはそういった傾向が局所的にではあるが存在する。くれぐれも巻き込まれないようにご注意下さい。

ただ、日本語圏においても、音楽活動以外で音楽家が政治的立場を表明する事がある。音楽家とて一人の社会人、己の政治的立場を公にするのは大いに結構、どころかそれこそが「表現の自由」なのだから命懸けで奨励すべき話なのだが、出来れば音楽とは切り離しておいて欲しい。こちらは娯楽のつもりで接しているので。少なくとも私は。どんなエンターテインメント作品でも、作者の政治的主張が紛れ込んでくると興醒めする。名義を変えて、或いは本名でブログかフェイスブックでも立ち上げてそちらでやって下さいな。18禁?ではないけれど、そういうゾーニングもあったらいいなと思う次第でありまする。

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インターネットのお陰で、情報はほぼタダで手に入るようになったが、今度はその取捨選択が大変になった。これが悩みという人も多かろう。私も悩んでいる。解決策は無い。

昔は、字を読むといえば読書だったり新聞雑誌だったり、お金がかかったものだ。図書館だけが例外だった。ここらへんおかしなもので、映像はテレビから、音楽はラジオからタダで幾らでも流れてきていたのに、字は違った訳だ、昔は。

テレビもラジオも、多くても十もない位のチャンネルしかなかったからチャラチャラザッピングする程度だった。新聞だって二紙以上定期購読する人は少なかった。情報を得るのにそんな取捨選択は悩まなかった。

今、そうだな、例えばTwitterでフォローしてる人のツイートを全部チェックしている人はどれくらい居るだろう。私は読んでない。まぁ無理。兎に角、「読む」という行為は破綻している。読書もままならない。

ネットで何かを読もうとしたら99%の無意味なノイズを如何に除去するかに神経をすり減らす。これも無駄あれも無駄。読んで損する情報ばかりである。よくもまぁこれだけ文字が氾濫しているものだ。

大抵、皆疲れて、固定化された人の文章しか読まなくなり、思考が偏ってくる。確かに、昔は一紙しか新聞をとってなかったから思想的な話はその社のものしか知らなかったが、今は各紙を比較出来るようになった、というポジティブな見方も出来るが、私から見れば毛色の違う偏った考え方があっちこっちに増えただけで、その中でバランスをとってもただ新しい偏りを生むだけにしか見えない。全く違う場所に立つ必要がある。


ヒカルは沢山の情報の中から最もバランスのとれた場所を即座に見つける天才である。そして、その位置からそれぞれの偏りに対して好ましい射影を与える術に長けている。毎度取り上げているGoodbye HappinessやCan't Wait 'Til Christmasの歌詞なんかがそうだ。出会えば喧嘩になりそうな同士がそれぞれ全く反対の理由で同じ歌を好きになれる。奇跡というのは容易いが、これが技巧の妙というものだろう。

嗚呼、昔NHKでやっていた「クイズ面白ゼミナール」という番組を思い出した。ハテナ・マークをあしらったトロフィーが用意されていたのだが、いちばん大きなサイズのヤツは「どこから見てもハテナ・マーク」という技巧的なデザインだったな。閑話休題。

ヒカルのSC2D2からもう5年以上が経つ。世の中は益々新しい偏りが生まれ、極端に走り、不安はいっこうに消えない。たとえヒカルが「本当にバランスのとれた態度」を見せられたとしても、誰にも響かない可能性がある。それでも歌ってくれるのだろうか。今回の復帰でいちばんのチャレンジはそこなんじゃないかと思うのだがどうだろうか。情報の海から岸辺に上がった事のある人の強みを、見てみたいものである。

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ポピュラー・ミュージック・アーティストを取り上げている都合上、当欄では大衆とか民衆とかいった用語を安易に用いているが、これが何を意味するのかは少々注意が必要だ。

大衆とは相対的な意味でしかない。特定の人間の集合を指してそれが大衆の総てだと言う事は出来ない。

誰もが何かの専門家である。その道に卓越しているかどうかという前に、毎日の生活の中で、何かについて偏っているのが人間だ。それは興味に応じてかもしれないし必要に応じてかもしれないけれど、熱心に取り組んでいるうちに否が応でも詳しくなる。思い入れも出来る。具体的な対象は個々に異なるがそういった状況にあるという点では皆同じだ。

大衆は無責任である。大衆とは、普段そういう風に入れ込んで詳しくなっているひとつのテーマに普段関心の無い人間の集合だ。即ち、ほぼ総ての人、圧倒的大多数の"無関心な人々"が大衆である。

即ち、大衆とはテーマ毎に対象となる集合が微妙に変化する概念であって、その都度、その時取り上げているテーマにそってチェックし直さなければならない。

こんな日記を書いている私は、一生「大衆として宇多田ヒカルに接する」事は出来そうもない。テーマによっては、そんなに大衆の事を気にせずに生きていく事も可能なのだが、何しろヒカルの(それなりに消極的に、或いは結果として積極的に)標榜するポピュラーミュージックというのは大衆に対して向けられたコンテンツなのだからどうしたって気にせざるを得ない。

勿論、大衆の殆どはヒカルに興味がないから無関係なのだが、その中で僅かだけ「今度の新曲いいね」と言ってくれる人々が存在する。そして、その僅かな人々の総数は、それでさえ我々「普段から熱心な人々」の数を大幅に上回る。

一方で、彼らは彼らで、普段は何かのマニアであって、それに関しては大衆ではなく、彼らからみれば私たちの方が大衆であったりする。常に相対的なのだ。

今は、二極化が進んで、大衆の無責任さは膨張し、マニアの熱心さは度を越すようになった。この二極化の中でポピュラーミュージックが居場所を見つけるのは大変な事だろう。そういう時は、普段関心を持たない何かを見つけてきてぼーっと眺めてみるのもいいかもしれない。くだらない、退屈だと自分もまたそのテーマに関しては大衆の一部だと納得する筈だ。そして、その後ろ体重を前のめりにするのが如何に難しいかを実感する事になる。いやまったく本当に、ポピュラー・ミュージック・アーティストとは因果な商売に手を染めてしまったものだなぁ。

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プロデューサーとしての知名度を上げるには、ヒカル自身以外の誰かをプロデュースして売り出すのが得策だろうが、どうだろう、やはり大半の人が「どうせ働くんなら自分で歌ってくんないかな」と思っているのではないか。

特にヒカルの歌に飽き飽きしているとか行き詰まりを感じているとかはない。復帰前の今のタイミングでは寧ろ飢えている。暫くは他者をプロデュースする機会は無いだろう。早よ歌えやと皆に大合唱されるだろうな。

例えば男性ヴォーカルをプロデュースするとなったら興味もわく。ヒカルには歌えないような曲を歌ってもらう。ヒカルにもこんな曲が書けたのかという新鮮な驚き。ワクワクするが、今ではない。

ではどうすれば、セルフ・プロデュースでありながらプロデューサーとしての知名度を上げる事が出来るだろうか。

「名義を変える」というのが直接的な方法だ。加山雄三が作曲クレジットだと弾厚作になるように(前もこの例で説明したなぁ)ヒカルがプロデュースした場合に歌手の名義と違うのにすればちょっと目立つ。

普通なら、歌手の名義を宇多田ヒカルにして、プロデューサーの方を、例えば映像監督時に倣って「宇多田光」表記にしたりする。インタビューなんかでも突っ込まれて取り上げられ認知度が上がる。いいんじゃないかとなる。

しかしもっと思い切った手もある。プロデューサーの名義を宇多田ヒカルにしたまま、歌手の名義の方を変えるのだ。それこそ、宇多田光とか宇多田ひかるとか、HM Revolution(Hikaru Makes Revolution)とか何でもよい。そうすれば話題沸騰である。この、プロデューサー名義にだけ元の宇多田ヒカル表記を残すのがポイントだ。こっちはそのままなのに何故…間違いなく総てのインタビューはこの話題から入るだろう。そして、ヒカルが優れたプロデューサーである事を皆胸に刻み込む事になるのだ…


…勿論、そんな事は実際に起こらないし、私もそんな事は望んではない。ただ、現実的な方法論はありますよという事を言いたかっただけだ。もっと言えば、こうやって思考実験上で比較すれば、ヒカルがプロデューサーとしてあまり認知されていないのは、名義/表記が一緒のままだからというのが如実にわかるだろう。

総てのクレジットが同じ名義だと、「へぇ、全部自分でやってんだ、凄ぇな。」と感心はしてもらえるのだけれど、その時限りだ。結局、テレビに出て歌を歌った時点で「あぁこの人は歌手なんだ」と合点がいかれてそのままになる。目で見える何か、耳を捉える何かで直接訴えられるのは果てしなく大きい。結局それに尽きるのだ。

それこそ、ヒカルが分身の術を使ってステージ上で歌う以外の事も同時にやる(弾き語りもやるけれどな)のを目にすれば、うわぁこの人となるんだけど。もち、むり。


そして、結論よりも前提として。ヒカルは別にプロデューサーとしての名声なんて欲してないだろうからこんな話は興味ないだろうなという事。身も蓋もないが真実だ。自分が作詞作編曲プロデュースを手掛けている事をアピールする気なんてサラサラ無いだろう。歌を聴いて貰って気に入って貰えればそれでいい、となる。

しかし、ファンとしては、目で見え耳で聞こえる仕事以外にもやまほど仕事してるんだ、というのをアピールしたくなる気持ちがある。なんかたまに出てきて曲出してるけどさ、なんて言われるのが気に食わない。だからこんな思考実験をして自分の気持ちを落ち着かせているのだった。ヒカルはてめーらが考えているのの5倍は忙しいんだよこんちくしょーっ! …嗚呼、ガラにもなく取り乱したりして申し訳なかったでござる。

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知名度と後世への音楽的影響はそう簡単には比例しない。20世紀でいえば、The Beatlesが奇跡的に超有名且つ影響特大という"超例外"として存在した為、ちょっとそこの所を誤解しているが。

やはり、テレビの画面に映るかどうかなのだろう。80年代に歌謡曲・流行歌を聴いていた人にとって、最もよく触れた馴染み深い人物は松田聖子でも中森明菜でもなく、筒美京平や松本隆だったりするのだが、彼らの顔なんて皆知らないし名前すらわからない人が大半だ。裏方というのは、大体そういう扱いを受ける。

日本の場合、ちょっと風向きが変わったのが90年代で、バンドブームからヴィジュアル系への流れで自作自演が主流になったし、数は多くないが小室哲哉を筆頭とするプロデューサーブームでプロデューサー買いなんかも行われた。裏方が前面に出てきたのだ。

勿論、シンガーソングライター系は昔から一定数存在して、裏方と表舞台を同時にこなしてきた。ヒカルもそのうちの1人、となるのだけれどあまりにも表舞台への初登場が強力だった(出る番組の最高視聴率を軒並み更新していった)為、裏方としての評価との落差が大きくなり過ぎたきらいがある。

いや、確かに、受け手の最大多数派は、「クレジットなんて気にしない、歌手の顔と名前まで」なんだから、それこそ気にしていても仕方がないのだけれど、それこそ小室哲哉の100分の1でいいからプロデューサーとして評価されていたら、色んな状況は変わっていたかもしれないなぁ、と思う。

思うに、リアリティがなかったのではないか。プロデューサーというとどうしても上司~ある程度年齢のいっている人、というイメージが先行し、二十歳そこそこ、しかも女子とあってはプロデューサーという冠が言葉として馴染まなかったんじゃあなかろうか。

歳を取る、というと女性は特にネガティヴに捉えがちだが、ことヒカルに関していえば、今や主要な仕事のひとつになったプロデューサー業について、少しずつではあるが外面的に"サマになる"年齢に差し掛かり始めているんじゃないかと。25歳を越して現れ始めた「宇多田ヒカル姐さん」という呼び方もその前兆なんではないか。

15歳の頃から見ている者にとっては姐さん呼ばわりは抵抗があるかもしれないが、悪い事ではない。仕事に見合った評価に徐々に近づいていくとしたら、この上無い。少しずつ、収まりのいい所に近づいていってるんじゃないかな。

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デヴィッド・ボウイが亡くなったのか。つい先日ニュー・アルバムが発売になったばかり。私は決して彼のファンだった事は無いが、新譜の曲に関してはいつもと異なる"尋常ならざる何か"を感じ取った為、当日にはツイートをして取り上げた。しかしまさかその"何か"が"死への予兆"だったとは。相変わらず自分は鈍いなぁと呆れている所だ。後でそのつもりになってもう一度新譜の曲を聴いてみたいと思う。

しかし、そのアルバム発売当日に69歳になったばかりの彼がそこから僅か2日でね。昨年末、これもクリスマス・イヴに70歳の誕生日を迎えたMOTORHEADのレミー・キルミスターがその2日後に亡くなったのと重なる。

彼らは間違い無くロック・レジェンドである。2人とも、音楽のひとつのジャンル、つまり、レコード・ショップに行ったらブックエンドで仕切られている一区画の創発に多大な責任を負っている。スラッシュメタルやデスメタル、ハードコアといったジャンルはレミー抜きでは有り得なかっただろうし、ボウイが居なくては初期のグラムロックや後のニューウェイヴは全く異なった形態になっていただろう。その影響力は凄まじい。歴史上の人物と呼んで差し支えないだろう。


MOTORHEADの曲もボウイの曲もKuma Power Hourではかかった事はない。ただ、トレビアン・ボヘミアンでブライアン・メイのインタビューが流れた時にボウイをフィーチャーしたリミックス曲を流しているので、当然ながらヒカルも彼の存在は知っているだろうから、今回の訃報に関しては思う所もあるだろう。寧ろ三宅さんや照實さん、沖田さんたちの方が非常に大きなショックを受けているのではないか。特に照實さんは、一度位なら会った事があるかもしれないし。

彼らのようなレジェンドが、生命の尽きる直前まで第一線で活躍してくれた事には非常に感謝している。どのような生き方がよかったかなんてわからない。ただ、この50年近い歳月の中でこちらに与えてくれたものに感謝したい。ただただそれだけである。

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乳幼児はそれはそれは凄いスピードで物事を覚えていくもので、それは案外、言葉を喋らないからこそ大人の方がわかってあげないといけないものも含まれているかもしれない。

たとえそれが0歳児であっても、言葉は喋らなくとも、その子の性格というのは現れてくるもので、既に気遣いや我慢といった思考を獲得しているかもわからない。そんな言葉を覚えるのは随分と先だが、周囲との相互作用や反応によって窺い知れる場合もある。

ヒカルの子育てがどんな形態になっているかは知る由もないが、やっぱりお母さんの居ない間は寂しがっているのかもしれないし、あんまり気にしていないかもしれない。どんな反応があるか、意識がハッキリしているかすら定かではないのだけれど、記憶として後に浮上する事が一切無い経験の数々が人生に与える影響というのも考慮しておいていいかもしれない。屁理屈は兎も角、現実にはただ頑張るだけなのだが。

ただ、ダヌパは、このニックネームに相応しいのやら何やら、ヒカルの書き方から、泰然自若な性格を想像させている。ただ受け入れ、すやすや眠っているような。図太いというかスケールがデカいというか。まぁもし本当にそうだったらヒカルもそれなりに安心してレコーディング・スタジオに出掛けられる。

作業の形態としては、しかし、かなりの部分を自宅で賄えるものも想像できる。ほぼそのままレコーディングスタジオで再現するだけ、というクォリティーの高いデモを自宅で作成してから短い期間でレコーディング、という。それなら子育てとの両立は途端に(比較的、ではあるが)容易になるだろう。スタジオ代もケチる事が出来る。一挙両得。

しかし、スタジオで生まれるものも多い。特に、複数プロデューサー体制をとっている以上、合議で進んでいく中で新しいものが生まれるプロセスは捨て難い。それをどれだけ確保したがるか。これはちょっと、想像もつかない。

また、レコーディングスタジオにダヌパを連れてきている事も考えられる。近隣や直接に託児所があればなおのこと。自宅での作業と変わらない距離感だ。

いずれにせよ、様々な方法論がある。一概に、子育て中だから制作は難しい、と決めてしまう前に、個々の仕事内容や乳幼児の成長具合など、場合に応じた対策に知恵を絞るのが適切だろう。果たしてヒカルの両立術は如何に。ここでも二足の草鞋クイーンらしさを見せて欲しいものだ。

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