無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「ドラえもん」のコンテンツとしての偉大さは、普段のテレビアニメで10分程度のショートストーリーを主軸にして年間52週を埋め尽くす一方で、年に一度劇場版で2時間の大作を披露するという2つの楽しみ方を提供している点にある。それだけなら他のアニメも変わらないが、基本的にショートストーリーが秘密道具一個の紹介となっている為、その蓄積の中から長編映画を作る事が可能なところが特異といえる。アニメの劇場版といえば大概本編との整合性が悩みのタネになるが、ドラえもんの場合元々原作者が長編執筆に乗り出した為そこまでの破綻は無い。剛田君のキャラが違うとかあるけどね。

その短編のよさと長編の魅力をひとつの作品として昇華させたのが「ONE PIECE」で…という話になると長くなるので置いておくとして。

要は、普段の生活の中で楽しめるコンテンツと年に一回とか数年に一回の大イベントをどう連動させるかというのがテーマだ。サッカーでいえばJリーグと代表戦特にW杯とその予選みたいなもんか。普段の生活の中で馴染みがあるからこそ大舞台に対してテンションが上がるといいますか。

ヒカルの場合はその"普段の生活"を託したのがMessage from Hikkiだった。とはいえ更新頻度にはムラがあって、一言で言えば結婚している間は少なかった。ファンとの日常より家庭を優先していたのかたまたまUtadaと重なったから遠慮していたのか或いは両方なのかわからないが、今年中に復帰するとしたらTweetの数はどれ位になるのやら。

ただ、まだドラえもんのように"有機的に連動"という所まではいっていないか。これも、「レコード会社」という単位でみれば宇多田ヒカルもスケジュールの一部を埋めるパーツに過ぎないからだ。もし復帰して情報の荒波に揉まれる展開になったとしても、毎日宇多田的生活を送るのは無理だ。"燃料投下"とよく言うが、ファンの方は盛り上がりたくてもどうしたらいいかわからない日々が続く。

それも、仕方ない。どのシーンにも属さず単体で活動し、ミュージシャンの人脈的な側面を前に出して来ないタイプ。更に制作中な楽曲に関しては一切口を開かないのだから、秘密道具の縦横無尽で短編と長編をリンクさせたりするドラえもんのような「単体でスケジュールを埋め尽くせる」人ではない。まぁ向こうはアニメという事で制作者何百人で、こっちは少ないと4人ですからね。比較する方がおかしいんだけど。

でも、そうこうしているうちにみんな目移りしちゃうよ、なるべく惹き付け続けられるように工夫が必要だね、というのは確実にあると思うので、何らかの対策或いは表面を考えておいた方がいいと思うんだな。まぁ私自身はあんまり関係が無いのですが…。

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ミュージックビデオの話はまた次の機会に触れるとして。

欧米コンプレックスみたいなものは、まだあるだろうか。唐突な問いだが、商業音楽勢は常に海外などないように振る舞う芸能界系の演歌・歌謡曲路線と、ひたすら欧米を追従して(追いかけはするが追いつく気はない)卑屈になってるPops/Rock路線があった。まぁこれは音楽に限った話ではないのだが、EVAQに、違う、オバQに出てくるドロンパのように事ある毎に「アメリカでは」と声に出す人が居た。尊敬する、お手本にできる対象が居るのはいいことなのだが、向こうが自分たちの快適さを追究して作り上げた土俵に上がって「敵わない」と嘆く姿は常に滑稽だった。そら無理やろ。

そういった"コンプレックス"は勿論日本に限ったことではなく、例えば英国人のエリック・クラプトンは「黒人のようなブルーズ・フィーリングを出せない」と常々悩んでいたという。ほんまかいな。あんまり彼のインタビュー読んだことないから知らないのよね。これも、ブルーズは黒人音楽なのだから白人には合わなくても不思議ではなく白人なら白人なりの音楽を追い求めればいいのに、と思ってしまう好例だ。いや、そりゃ本人がそうしたいならいいんだよ。それによって落ち込んだり愚痴ったりやる気を無くしたりするんだったら、もっと得意な事をやればいいじゃないさと。他にもっとうまく出来る事があるのにわざわざ違う土俵に上がろうとするのは寧ろ不遜であるとすら思える。身はひとつなのだから、いちばん生産的な・ポジティブな道を進んだ方がよい。繰り返すが、本人が苦闘したがっているならこの限りではない。寧ろブレイクスルーを目指して欲しいと応援しよう。


Hikaruはそういうコンプレックスとは無縁であるように思える。日本の歌謡曲もPopsも、恐らく演歌も歌えるし、英語の歌もロックやソウルに限らず幅広く歌える。作曲能力に関してもEXODUSとThis Is The Oneの2枚を聴けば明らかだ。幅広い音楽性に取り組む事も出来れば、コレというひとつの決まった得意なスタイルに特化する事も出来る。万能である。

だから、そんな人が欧米で成功しても、当たり前の事で別にどうって事ない(その才能と努力を賞賛する事はあってもそれ以上の物語はない)話なんだけど、Hikaruがビルボード1位をとったら「遂に日本人が」って言われるんだろうか。

時期による気がする。今の20代以下には欧米コンプレックスみたいなものはなく、良くも悪くも内向きで、まぁスポーツの日本代表が活躍したら素晴らしいよねという位だろう。だから、彼らがもっと年齢を重ねる頃には、Hikaruが海外で今まで以上に活躍しても「へ~それは凄いね」みたいなノリになるんじゃないかと。

40代以上にとっては「こんな日が来るなんて」になるかもしれない。

まぁHikaruには関係ないっちゃ関係ないか。照實さんからすればもしかしたら圭子さんからの"悲願"になるかもしれず、感慨深いものがあるかもしれないが、彼の場合そんなにコンプレックスがあるようにもみえんなぁ。成功したいと思っていた場所で成功する、悲願とか念願というのならしっくりくる。

若い人たちには興味の無い話だったか。

それに、Hikaruの能力が突出し過ぎているというのも問題だわね。野球でいえばイチローみたいなもんだ。今年は昨年一昨年に較べ随分報道量が増えている気がするが、それを見ればわかるように、彼は国籍や人種を超越した、野球というスポーツに永遠に名を残すレジェンド中のレジェンドである。悔しかったら262安打を162試合で打ってみろと。その圧倒的な実績の前には彼が日本人である事など些細な話に過ぎない。アメリカ人だろうが韓国人だろうがキューバ人だろうが今と同じようにレジェンドだ。日本語喋ってくれるお陰で何かと有り難い事はあるけれど。

まぁHikaruはそこまでは行かないかもしれない(行くかもしれない)が、似たような感じである。国籍がどこであろうが、優れた音楽家である事は間違いが無い。ただその仕事を素直に評価するだけで十分である。

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ヒカルのミュージック・ビデオは、他の邦楽アーティストと比較した事は無いが、アルバム・ジャケットがいつも顔のどアップだからか何なのか、本人が歌っているケースが多いように感じられる。特に第一期後期はGoodbye Happiness、Prisoner Of Love、HEART STATION、Flavor Of Lifeと、シンプルに本人が歌っているのをほぼ映すだけに近いものが主流を占めた。一方でアニメーションとのタイアップのあるものはKiss & CryにBeautiful WorldにThis Is Loveにとアニメーションをそのまま使うケースもみられた。両極端に振れたという感じ。

桜流しはそういったコンセプトを受けて、そのどちらでもない所に着地している。本人の歌っている姿は一切無し、アニメーションとのタイアップなのにそれを匂わせるもの一切無し。ある意味アーティスト活動休止期に相応しいコンセプトだったともいえる。

その桜流しは「本人露出禁止」という縛りがあったから例外として、つまり、ヒカルのミュージックビデオが本人が歌ってるかアニソン扱いかの二極に収束していると考えるならば、次の一手もそれを踏襲するかどうかが興味の対象となる。

今はかなりの人が動画から新曲を知るので何らかのミュージックビデオを制作する事は必須のように思える。しかし、リリックビデオや、事によっては動画サイトに音声のみ(withジャケット等の一枚絵)をアップロードするケースもある。ヒカルくらいビッグになってしまうとなかなかそういう"素っ気ない"扱いは出来ない。宇多うたアルバムみたいな企画ものならまだしもね。

特に、次のプロモーションのパターンによっては、初顔出しがミュージックビデオという事も考えられるのだ。逆にいえば、Beautiful WorldやKiss & Cryのようにがっつりアニメーションのミュージックビデオだと、"世間の期待"とやらに応えられない。そりゃあ5年ぶりの「宇多田ヒカルの顔」をみんな観たいだろうに。芸能ニュースとかでも流れるんだろうし。

不可抗力も有り得る。最初がEVAの歌ならミュージックビデオの扱いは難しくなる。桜流しが無関係だった事を考えると、主題歌としては提供しますよ、一方で宇多田ヒカルの新曲としても大々的に扱いますよとなるか。

或いは、もう、本人登場編とアニメーション編の二種類のミュージックビデオを作ってしまってもいい。CDシングル+ミュージックビデオDVDとCDシングル+ミュージックビデオBlurayの二種発売になるのかな。流石に後者は厳しいか。レコード会社の壁もあるし、上映中&映画本編未円盤化の時点だと馬鹿売れしてしまう。ふぅむ。

まぁ、元気な姿がみられるなら何でもいいよ。歌さえよければ少々ミュージックビデオがしょぼくても気にならんし。そこがまぁ、いいところでも、あるんだなぁこれが。

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前回の記述では論点が曖昧なのでもう一度整理してみよう。この話題は、各々の価値観によって出発点も結論も大分変わると思うが。

プロフェッショナルの仕事に限れば、先に映像があってそれに音楽なり音声なりをつけた場合価値が上がる。私はそう思う。一方、音楽が先にあってそれに映像をつける場合は必ずしもこの限りではなく、ミュージック・ビデオの中には「見なきゃよかった」と思うものも少なくない。かなりのケースで「それだったら演奏風景そのままつけてくれよ」と思う。大体が余計なのである。

これは、MV監督が無能だからではない。本質的に、映像に音楽をつけるより音楽に映像をつける方が難しいのだ。

音楽は単独で感情を表現できる。一方、映像(取り敢えず静止画については考えない事にしよう、動画だ)には、何らかの意味付けが必要だ。

例えばホラー映画の怖い場面に怖い音楽をつければ恐怖感は倍増するが、コミカルな音楽をつければ途端にギャグになる。音楽とはそれ程までに人の感情に対して支配的だ。一方、コミカルな音楽が先にあって、そこにコミカルな光景をあてればよりコミカルになるかというとそうでもなく、"落ち着きがいい"というだけである。更にそこにホラーな場面を合わせにかかると、やはりコミカルなままか、或いはシーンが残虐過ぎれば"落ち着きが悪い"と思ってしまう。ここらへんの順序による機微は難しいが、要するに映像は意味付けを必要とするので音楽やナレーションや台詞回しによってその意味を随分と変えられる為、いろんな音楽の付け方が有り得るのだが、音楽が先にあった場合音楽の印象はもうそれ自体で成立している為、"本当にそれに合った映像"をつけないと余計なだけになるのだ。


実際、音声をオフにしてミュージックビデオを見てみよう。余程の名作でない限り、何が言いたいか全くわからない。いや、演奏風景が見れるものは別だが。ミュージックビデオの映像とは、それ単体では成立しない上に、音楽に物凄く合わせづらい代物なのだ。

殆どの視聴者はそこまで考えていない。「MTVで見掛けたあのエロいねーちゃんが映ってる時に流れてた曲だ」みたいな感じで歌が人々の間に浸透し、それが80年代成功したのだ。日本で成功しなかったのは、勿論そういう番組や放送局がなかったからだが、それと供に、日本語の歌というのがメッセージ性が強すぎるのも大きい。

歌において言葉の占める割合が多い為、歌手のパーソナリティが大きく重視される。ここからは私の価値観ではなく一般的な話だが、テレビで人が歌っている姿を見る&器楽演奏風景が殆ど映らない、という組み合わせは、歌をバックグラウンドにしてエロいねーちゃんを見せるMTVに対して、器楽演奏をバックグラウンドにして歌で言葉を伝える人が画面の真ん中に居るという(米国でもずっと伝統的だっただろう)歌に対する日本人の認識構造を決定づけてそのまま変わらなかった事を意味するのではないか。つまりその為にミュージックビデオ文化が定着しなかった可能性がある、という説だ。

まぁそれはひとつの仮説としておくとしても、私の趣味も含めて、「果たして日本語の歌にそんなにミュージックビデオは必要か?」という問いは立てる事が出来ると思う。特に、アイドル文化とアニソン文化とYoutubeが主役になりつつあるこの国で音楽の動画の在り方をどう考えるかは重要だろう。

何だか話が大きく迂回してしまったが、まぁいいや。取り敢えずここまでは「問題意識の提示」という事で、次回に続く……、気がします。

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今週は誕生日ウィークなので、いつどこで誰が誰の誕生日を祝ったかを並べ立てる事で、レコーディング作業等の進捗状況を推し量る作業が捗る…んだと思うんだけどそれは皆さんに任せると致しまして。

これだけ毎日(でもなかったりするが)ヒカルのサウンドに何らかの形で触れている私だが、ミュージック・ビデオを見返す機会は驚く程少ない。理由は簡単で、元々ミュージック・ビデオがそんなに好きではないからだ。気が散る、んだろうな。

音楽と相乗効果で更に大きな作品になるケースは殆ど無い。逆ならある。サウンド・トラックだ。或いは標題音楽か。映像に合わせて音楽を作るとなると成功率がぐっと上がる。久石譲の音楽無しで風の谷のナウシカや天空の城ラピュタを観ても何と味気ない事か。あの"絵の向こうに広がる世界の広さ"を感じさせる音楽の数々は宮崎アニメに欠かせなかった。

ミュージック・ビデオでは、「そういうのあったかなぁ…?」と考え込んでしまう。まず大体、音楽単体で聴いていた方がいい。MTV方式といおうか、どうという事の無いストーリーを細切れにしてちりばめ思わせぶりに引きつけておいて結局何にもない、というものばかりで、しかも曲と無関係。なかなか面白いショート・ストーリーを展開してやっぱりハリウッドはプロフェッショナルだ、と思わせておいてやっぱり曲と無関係。そんな感じ。結局お互いがお互いを間借りし合って一緒に作品を宣伝し合ってますという感じ。まぁそれで80年代は爆発的にアメリカでレコードが売れたんだからそこは文句無いんだけれど、だから楽しめというのも無茶な話で。

シビアに見れば、ヒカルのPVだって似たようなものが多い。基本的に、本人が歌っている姿をフィーチャーしたものは文句が無い。いやまぁ私はミュージックビデオはまず演奏風景を映しておいたらいいんじゃないのと思ってる方なので当然なんだが。それ以外、例えば"Can You Keep A Secret?"は名MVとして知られているが、音楽と合致しているかというとどうか。"Secret"というキーワードを共通としている、くらいの緩い繋がりだろう。勿論歌詞とところどころリンクしているのだが、それはやっぱり間借り同士であって相乗効果ではない。

ヒカルのMVで相乗効果のある、即ち"音楽単体で聴くよりも魅力的な"作品はあっただろうかなぁという話からまた次回。

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モチベーションという意味では、稼ぎすぎてしまった事に少々恨みを感じる。「息子食わせてく為にも母ちゃん頑張んねぇと」モードに入ってくれるなら有り難いんだが、いや多分そんな必要無いよねぇ。浪費家だったらよかったのに…というのも違うんだけども。

プロフェッショナル過ぎるとニーズが無くなればモチベーションが低下する、という考え方は何度か述べてきた。芸術家は自らの衝動に正直で居ればいいが職人は依頼無しに腕をふるったりしない、と。つまり、よく「これは芸術か否か」みたいな問題設定を見掛けるが、私に言わせればそれは本人のモチベーションの違いの話であり結果として出てきた作品の話ではない。他者に認められようという時点でそれはもう商売である。そして、それがメインかどうかだ。それが無くても衝動が残るのならそれは芸術、artと呼べるのではないか。自律した創造だ。

ヒカルが真にエキセントリックな面があるとすれば、自己と他者の区別をつけない場合が有り得る点だ。今私が展開した論法はこれにより論破される。自己と他者の区別がつかなければそれは芸術と商業の区別も生まない。音楽家として、他者の音楽も自己の音楽も区別をしない心境というのはどういうものだろう。そしてその心境においては、自己という存在は何百万分の一でしかなかったりする。そんな"ちっぽけ"なモチベーションが"他者の音楽"以上のものを生み出せるだろうか。

ここにもうひとつからくりをつけたしたのが宇多田ヒカルだ。自己と他者の区別の無い世界にあっても、1人々々の個体にとって自己という現象は普遍であり且つ総てである。そして、1人々々にとって何十億という他者が存在し得、その自己の存在の矮小さを痛感している。その心細さを歌えたのだ。儚く切なくなる筈である。

宇多田ヒカルを幾何学的に考えてはならない。ホログラフのように部分に全体を封じ込め、全体が部分を参照する。どちらかといえばこれは言葉の世界である。だから歌なんだと力強く言えるならいいのだが、その為にはヒカルの歌唱力が絶対的に不足している。

今まで以上にヒカルの歌唱力が上がる事はあるのだろうか。ヒカルより技術的に優れたシンガーを参照し模倣できるかといえばいやもうかなり難しい。声域や声量やスタミナは衰えてもいい。如何に声を制御できるかである。

言葉の世界の話の筈なのに声という幾何学の話になっている。何故か。それが"動機"だからだ。今はずっと、モチベーションの話をしている。

言葉の世界はそこから幾何学の話を導き出す。ユークリッドの言論には図だけでなく文があった。文の為に図があった。我々が幾何を知るには言葉が必要だった。ならば言葉を生む幾何とは、となった時文字か声となるのは必然である。ここから物語も生まれる。解釈はいつだって後付けだ。


ダヌパが最初の言葉を話すのはいつだろう。恐らくそれは、ヒカルの人生にとって最も強烈な学びの一撃のひとつになる。先に歌われたら…というのは次に長女が生まれた時に期待したくなるのが厚かましいファンのサガだが、それは男であっても女であっても差が無いような、あるような。無意味な理屈を捜すべきではないのかもしれない。生んだ人は、分身という気分が強いのだろうか。

とどのつまり、ダジャレとは奇跡であって動機である。それが出会いだからだ。それが約束されているとは限らないが、約束の存在は保証・保障・補償される。韻を踏んでいる間に自分の影も踏みつけてしまわないように。

わかりやすくいえば、次のヒカルのツイートに嬉しそうなダジャレがあったのなら、モチベーションの心配は無いという事だ。くだらない事を言って笑っていられるうちは、気持ちが坂を下る事もない。登り坂を登る楽しさをそこから要求できるのなら、きっと楽しいものに仕上がっている筈である。

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話を詰めていくと結局、私はヒカルのモチベーションに興味があるのであって、他はどうなろうが大した違いはない、と思っているようだ。初心の確認ですわね。

「やる気」と言ってもあのレベルになると常識的な価値判断だけでは捉え切れない側面も出てくるから難しい。例えば、史上最高のエレクトリック・ギタリストであるジミ・ヘンドリクス。彼のプレーを聴く度に思うのは、「ギター弾いてて楽しかったのかなぁ」という点だ。あそこまで鬼気迫るプレイだと、もう“ギターに弾かされている”ようにしか見えないのだ。ギターに呪われているというか、彼の肉体が音楽を奏でる為の道具のように見えてくる。あそこに彼の意志や願望や希望を汲み取る余地はあったのだろうかと思う。勿論本人に訊いてみないとわからないし、訊いてもわからないかもしれないし、そもそももう訊く事も出来ないのだが。

ヒカルはプロデューサーという役職を担っているだけあって、事態をコントロールする術には長けているだろう。それだけに、撤退という判断を下す自由も持ち合わせている。ある意味今がそうだとも言えるし。その自由に対して「続けて欲しい」と訴える為には、プロデューサーとしてプロジェクトに何らかの"勝算"が見えていて貰わないと難しい。

そういう意味では、それぞれのペルソナのモチベーションという考え方が必要かもしれない。作詞者としてのモチベーション、作曲者としての、編曲者としての、歌手、ライブ・パフォーマー、プロデューサー、映像監督、編集長、ピアニスト、ギタリストとしてのモチベーション…それぞれに違うだろう。ここに将来は作家としてのモチベーションも加わる予定。それぞれが上がったり下がったり色を変えたりしながら、ヒカルの未来の行動を変えていく。何がどうなるかはわからない。

ペルソナが多いというのも良し悪しだろう。歌手宇多田ヒカルが「もうダメだ~歌えない~」と折れそうになった時にプロデューサー宇多田ヒカルが「まだまだいける!もう1回。」と叱咤する様は容易に想像できる。一方で、やる事が多ければ多いほど「躰が1つしかない」不自由さを痛感する事になる。

ジミ・ヘンドリクスにもしプロデューサーとしてのペルソナがあったのなら、ギタリストとしての自分のプレイを抑制させてでも"延命"を図ったりしたのだろうか。今更知る由も無いが、人格分裂の由来が精神の保全にあるのなら、それはある種の"希望"たりえるかもしれない。人は弱いのだ。

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いつもいつも「もしこういう考え方に立つならこういう帰結が考えられる」とか「もしあなたがこう感じたなら、こうしてみてはどうだろうか、こう解釈してみるのは如何かな」とか「こうしたいならこうすべきだ」とかそんなタイプの文章ばかり書いていてあんまり自分(i_さん)の気持ちについて書かないのは、話が一瞬で終わってしまうからだ。

「ヒカルが好き。次の歌が楽しみだ。」

これだけなんだもん。これだけシンプルだと、我ながら(老けたおっさんに対して)「純粋だなぁ」と感嘆せざるを得ない。いやホント。もう他に言う事ないや。

だから、私個人はヒカルを信頼していて特に不安も心配も無いし、市場がどうなろうが基本的にどうでもいいし、世間の評判に一喜一憂する事もない。いずれも「分析する対象として興味深い」という見方をする。

例えば、AKB48がヒカルのシングルCD売上の記録を抜いたというニュースをきいた時も「へぇ、凄いな。どうやったんだろう」という興味はわいても、それが不愉快だとかましてや悔しいなどと思った事がない。思いようがない。音を聴けばヒカルのアーティストシップにAKBが敵う筈もないし、全く勝負にならない事はすぐわかるだろう。そこを勘違いする人が居たとしたら、正直もうどうする手だてもない。聴いてわからないなら説得のしようもないし、聴かずにそんな事を言う人が居たらただの妄想狂なので専門医に任せるしかなく、それはその人の問題であってAKBやヒカルの問題では最早無い。それに、AKBにもよい曲が幾つかある。そちらをヒカルより気に入ったという人が居ればめでたい事だ。この国は自由に、自分の好きなものを愛でられる。誰に強いられる事もなく。素晴らしい事だ。

繰り返しになるが、売上枚数の多寡は現象として興味深く、その理由やからくりを知りたいという気持ちはあるが、それによって優劣や勝敗が決まるようなものではない。いや、勿論それを勝敗の基準と"みなす"事も出来るし、それに従ってチャートを眺めて楽しむ事も出来る。そういう娯楽としての優劣や勝敗だというのならまだわかる。それに乗っかって悔しがったり喜んだりするのも楽しいだろうな。

問題なのは、ヒカル自身がそういう"みなし"に乗っかりたいのかどうかだろう。レコード会社の皆さんは毎日苦悩している。枚数だけ伸びてもいいものか、それが俺の本当にやりたいことなのか、と。完全に梶さんを想定して書いてしまったが、その苦悩こそ彼の仕事でありやりがいなんだという風に私は(無責任に、残酷に)捉えているので、ヒカルはその苦悩は彼に任せて、好きなように曲を作ればいい。売れたいと思ったら売れる曲を書けばいいし誰にもわかってもらえなくてもいいからと突拍子もない曲が書けてしまったらそれでもいい。特に何が書きたかった訳でもないけどできちゃったという曲があってもそれでもいい。ヒカルが何か自由を故意に奪われたり騙されたりしないでいれればそれで。

売上に関しては、そうだな、私自身、ヒカルの初期の爆発に対して「バブルだったから」という風に見ているというのもあるかもしれない。握手券や投票券を封入してあるから売れたというのと、メディアバブルで売れたというのにさほど良し悪しや優劣を感じないのだ。ヒカルの音楽が優れていたから売れたのだ、と言われてもそれは1要因に過ぎず、従って十分条件ではないし、売れる為の必要条件ですらない。優れた曲を作りながら売れなかったアーティストなんてやまほど在る。それを見てきた以上、売上や順位は現象であり、また、それを勝敗の基準と"みなして"ゲームに興じる人たちにとっての土俵である。そして私はその土俵に乗っていないので、高みの見物で楽しませてもらうだけだ。


なんでこんな気楽で居られるかというと、そう、ここがいちばんの矛盾なのだが、ヒカルが物凄い売上を過去に記録したからである。「何枚売らないと今後の生活が危うい」、という全世界のほぼ総てのプロミュージシャンが抱えている悩みがヒカルには無いのだ。これが理由なのである。

もしヒカルが「次のCDが1万枚売れなければ契約を切られて引退する」という条件下にあれば、私はきっと売上アップの為に東奔西走するだろう…と書こうとしたが、ごめん、しないわ。今のご時世、ヒカルがインターネット料金を払えて、マイク(まぁ、もうiphoneので十分だ)を売り払う必要がない程度の生活費があるならば、Youtubeに新曲を歌った動画をアップロードしてくれれば満足なので、それでいいんじゃないか。なので、契約とか生活費とか大した問題じゃあない。やっぱり結局、私が唯一気にしているのは「ヒカルが新しい歌を歌う気がなくなること」なのだ。

その気持ちと"信頼"のバランスは…という話からまた次回ね。

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「母親であること」を今後前面に押し出してくるかというと、そんなこともないかもしれない。前の結婚の時は取り立てて人妻感を出したりしなかったし、最初に出したCOLORSは別れの曲だった。歌はそれ独自の物語を語るのだから現実を反映するとは限らない。

そこはまぁ、プロフェッショナルと言いますか。言いたいことがあっても、売る以上、ニーズの無いものはやらないかもしれない。それはタイプの問題であって、いや、生き方の問題であって、外野があーすべきだこーすべきだと言ってもそれはそれ、だ。言うのは自由だけど実効性は薄いということ。

そういう視点から嵐の女神のリレコーディング案を出したのだが、ヒカルのパーソナリティにどこまでニーズがあるかというのは確かに、えぇっと、面倒臭い論点である。ゴシップ的興味にどこまで付き合うかの話だからだ。

ゴシップというのは難しい。「近所の噂話・井戸端会議」を、会った事もない人達が話題にするのだから。この「ピンと来なさ」は相当である。ある人に興味を持ち、その人の事をもっと知りたいから、という順序ではなく、テレビでみた事のある人だからという理由で…あーやっぱり面倒。

うーん、「気にしない」というのはヒカルの性格上無理だし、イタリアに居たって地元の記者が追い掛けてくるのだからもうどうすればいいのやら。

どーでもいいツイートをしても記事を書かれる立場だからなぁ…。

…うん、何も無いな。「マスメディアと付き合わない」という最良の答を放棄する以上、その都度苦しんで傷付いて悩んで恨んで心を傷めていくしかない。悪い事ばかりではないんだし。「食らいついてでも芸能界で生き残ってやる」っていう目的意識のハッキリした人ならゴシップなんて如何様にでも利用のし甲斐のある歯車のひとつに過ぎないんだけどねぇ。そうじゃあないからねぇ。

ま、何があっても、ダヌパくんが力強く生きていってくれるんならそれはそれでになるかもしれない。彼もまた1人の人間なのだから。でも立って歩いて話せるようになるまでは、大人が何とかしとかなくっちゃなんだが、やれやれだぜまったく。

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「ラジオ・ライブ・ライブラリ」という捉え方はつまり音楽との接し方を「未来・現在・過去」の3つに分けるという事だ。未知なる新しい音楽との出会いを与えてくれる存在という意味でのラジオであり、別にそれは本来の意味である"無線"とは直接は関係ない。新しい出会いを演出してくれるなら勿論有線放送でも構わない。ある意味暫くは"インターネット・ラジオ"って皮肉な言い方だったのだがスマート・フォンの普及で本来の意味を取り戻したよね、ラジオが。それはさておき。

ライブラリも同様である。言葉の響きだけで言えば「図書館(library)に行けば新しい本と出会えるではないか」と突っ込まれそうだが、ここではそういう意味ではなく蔵書、既知の音楽という事だ。

ライブは生演奏の事である。それ以上でもそれ以下でも無い。

なので、ラジオに対しては我々はできるだけ翻弄された方がいい。できるだけ選ばず、できるだけ偶然に任せる。一方、ライブラリは"自由"だ。その時々の気分で曲を自分の判断で選んで接する事が出来る。ipodやYoutubeのお陰でここは随分と自由になった。有り難い事である。

そして、ライブラリ、即ち既知の音楽が増えれば増えるほど、ラジオは侵食されていく。過去が増えれば未来が減るのだ。そのカラクリは"期待"である。人は経験を積めば積む程無茶な事、予想のつかない事はしなくなり、「こうなるだろう」という予測の元に動くようになる。わかりやすくいえば、ラジオをつける時に決まった局、決まった番組を選ぶようになり、決まった範囲の音楽を聴くようになる。

これは勿論悪い事ではない。よい事である。いい曲に出会いたいというのが目的であるならば、その確率が高くなると期待される方に収束していくのは最適化の候補として優秀であるのだから。

そういう意味で我々はヒカルに随分と未来を奪われている。ヒカルが曲を作れば聴く。もうそう決まっている事自体が選択肢を狭めている。今までの経験から、ヒカルの新曲は聴くに決まっているのである。

だから、「ラジオ」の部分について語る事は、ここでは余り無いのだ。ストリーミング・サービスで云々というのをはじめとした「ラジオの次時代」を語る時、我々に在るのは「新しい仲間」だ。ヒカルの曲を初めて気に入りファンになりました、という人が今後ここにやって来ないとも限らない。まぁ、わかんないけど、同時に去る人も居るんだろうなぁ。

こうやって、音楽の話の中に急に「人」が出てくるのは偶然ではない。音楽は誰かが奏でるものであり、新しい音楽との出会いは、自分で書いたものでもない限り新しい人との出会いと等価である。自分で書いたものは、新しい自分との出会いでもあるけれど。

だから本来音楽の媒体としては「ラジオ」のような一方通行の"放送"よりもインターネットのような相互性のある"通信"の方が相性がいいように思えるのだが、ここがまたジレンマである。ラジオのような"闇雲な何か"がないと、最初の出会いをどうすればいいかがわからない。

だからそこは工夫が必要。ヒカルのメッセージを読んで面白かったから歌を聴いてみたらファンになってしまった、という人も居るだろうしそれもまた"闇雲"の一例だろうが、やはり、もっと吸引力のある"広場"が必要で、それが本来、日本では"J-Pop市場"と呼ばれていたんだ。

その代わりを今果たしているのは数々開催されているフェスティバルなのだろう。しかし、あんな料金の高いものがそこまで機能しているかというとわからない。我々の興味でいえば、「ヒカルがフェスティバルに参加するのとラジオに出演するのと、どっちがありそう?」という話。そりゃラジオでしょ。

そして最終兵器"テレビ"があって、となるのだが…



…なんだ、今夜の話、平易な言葉しか使ってないのに恐ろしく難しいぞ。肝心の「ライブ」に辿り着く頃には難解至極で誰も、俺すらついていけないんじゃなかろうか。この話の続きを書くのは暫く封印する事にしよう。あー怖かった。

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暑いねぇ。これだけ暑い中二回全国ツアーしただなんてお前冬好きじゃあなかったんかい。TUBEの連中はサイボーグなのだろうか。渡辺美里は宇宙人だったのか。いやまぁそれはさておき。

さっきチラッとある歌手が子育ての為に一部地区のツアーを計画に入れられなかったみたいな記事を読んだ。細かい事情はわからないが、そりゃあそういうこともあるだろうなと。プロである前に1児の母親なら…っていうのが当たり前じゃあないんだったっけこの国は。たかだか歌手の興行が見られなかったからといって人生に影響ある人どれくらい居るんだか。これが外科医とか軍隊だとかなら違うんだろうけど、歌手が仕事休んだって別にねぇ。しかもさっき読んだ記事によるとただ予定を組めなかっただけで一旦出したものを引っ込めたとかでもない模様。どこに落ち度があるんだか。顧客の需要があるのにそれに応えられないのは双方にとって不利益だがそれは相対的な事でしかなく、実質何も起こっていない。この記事が事実というならば、記事にする必要すら無いかもしれない。こうやって日記のネタとして取り上げてるヤツが言うこっちゃないけどね。

ヒカルの場合ツアーをもしやるとしても一年以上先だろうからそういう話にはならないかな。ヒカルは毎回コンサート中の託児システムを用意している印象だが私個人は利用した事が無いからどんな具合か知らない。一緒にダヌパも預けられていたらそりゃあ信頼のおけるシステムだという事が出来よう。親はみんなライブ観てるんだしこどもらはダヌパが誰かもわからない。まぁ問題無いような気がするが残念ながらヒカルはいち歌手ではなく多分次からも座長なので歌い終わりましたハイ帰りますという訳にもいかないしサウンドチェック立ち会ってたら朝から会場に詰めないといけないのでまだ託児できないな。こりゃ無理か。専属のツアー・ベビー・シッターでも雇うかね。いやまぁツアーに連れて回るの前提かよ。乳児に長距離移動はキツいぞ。

里があるなら数ヶ月間祖父母のところに預けておけばいいのか。なんか余計なお世話な感じがしないでもないが、ぶっちゃけ観る方も「今ダヌパどしてんの!?」と気になる事請け合いなので一言何かあった方がいいだろうな。別に今どこに居るとか具体的な事は言わなくても。まぁヒカルなら大丈夫だろうが、もし周りが育児に協力的な環境なら世の中に「出産育児の為に仕事を休むなんて」と言いたがる人が居るって事を忘れてしまいそうになりかねないから、慎ましく大人しく対処をしておいた方がいいと思うんだ。

あー、ファンの「先輩お母さん」たちからやまのようにアドバイス(と愚痴)が届くのが目に浮かぶわい。これが幸せって事なんだろうな。やれやれだぜ。

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今回のアルバムにもし桜流しを入れるのであれば是非音質の改善を進言したい。歌自体には問題は無い。編曲自体も変える必要は無い。ただもっといい音で聴きたい。それだけだ。

と言っても、難しい。あの音質は多分録音時の問題であってミックスやマスタリングの問題では無さそうだからだ。だからといって全く同じテイクを録音する為にもう一度一連のレコーディング手順をとるのは非現実的である。もう三年も前の曲なんだし。

ヒカルがいちばん"古い"曲を入れたのはULTRA BLUEのCOLORSである。2003年1月発表の曲を2006年6月発売のアルバムに収録したのだ。その間3年5ヶ月である。桜流しが2012年11月の曲だから、このままいけばCOLORS同様3年以上越しのアルバム収録となる。EVAQのサントラ未購入者にとっては、初めてのCD音源ともなる。

これ位間があくとなかなかサウンドを揃えるのが難しいのではないか。特に歌声は年月と共に変化する。

でもCOLORSには手を加えなかった。今聴き比べてみたらシングルとアルバムでマスタリングも殆ど変わってないのかなこれ。SCv1のマスタリングとも違う。

実際、前の誰かの願いが叶うころとも次のワンナイとも全然サウンドの感触が違う。しかし、冷静に考えたらULTRA BLUEの楽曲って全部そうなのだ。似た曲がひとつもないから、全曲サウンド・プロダクションのコンセプトが違う。まさに、そのときそのときのヒカルを撮影したスナップ写真を無造作に貼り付けまくった"アルバム"という感じである。

もしかしたら、それが狙いなのだろうか。"アルバム感"。それを出す為に、敢えてオリジナルのサウンドには手をつけない。今聴いている感じだと、アルバム収録の為に音量を揃えるとか、そういう基本的な改変すら施してないのかも。

だったら、桜流しは、そのくぐもったサウンドのまま新しいアルバムに収録するのがよいかもしれないね。


ただ、それより前、SCv2の楽曲を再収録するとしたら新録音になるだろう。今でもCDで簡単に手に入る(しかもかなりお安くね)んだし、わざわざ入れる必要は無い。というか、そんな事をしたら大抵の人はガッカリするわな。もう持ってる曲をまた、ねぇ。

しかししかし。“嵐の女神”を2015年のヒカルが、いや2016年のヒカルが歌い直すとなったら、全員聴いてみたいんじゃない? いや勿論アルバムに収録する必要は無いが、例えばスタジオライブで歌ったものをシングルのカップリングで入れられたらもう私なんかは飛び付かない訳にはいかない。しかも配信はせずCD限定のカップリングとか阿漕な事をされたら…いかん、CDシングルが売れてしまう。まぁ、数千枚上乗せってところだろうけれど。

あとは、ハヤトチリミックスみたいに全然違うサウンドにして再収録ならまぁアリかな。SCv2が入手困難だというなら、そのまんまあの5曲をボーナスCDとして入れてもいいけれど。あ、海外盤はそうしてもいいかもわからんな。SCv2を売らなかった曲があったとして、だけど。


……こんな話が出来るようになるだなんてね。すくすく育てよダヌパ。テメーが元気に過ごせていなければどうしようもないんだからな。という訳で現在(いま)のi_は浮かれています。早よ落ち着かんとやねぇ。

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様々なコンテンツがテレビの資金力・広告力に支えられている中、音楽業界はゲーム業界等と共にテレビの助力がなくても独力で資金調達出来る仕組みを維持し続けてきた。その結果がCDの価格の高止まりで、時代の流れから取り残された。何らかの付加価値をつけて価格を維持する方法論はある意味当然といえる。

前も触れた通り、衰退したのは不特定多数に広く浅く普及するPopsの市場だけであって、音楽業界自体が衰退している訳ではない。テレビに頼らなくてもサイクルを回せていく可能性は幾らでも残されている。問題なのはヒカルが居たのがその衰退した市場だったという点なのだ。

今更、山下達郎とかスターダストレビューみたいに全国津々浦々隅から隅まで(クマからクマまでじゃないぞ)回るのがヒカルに出来るかというと難しい。日本以外の国での売上如何ではスケジュールの取り合いになる。


たぶん、「まだ何も決まっていない」というのが本当のところだろう。新譜を出してみて様子を見てみる。子持ちだし、ツアーの日程をいつ出すかについても慎重でなくてはならない。

普通に考えると、5年ぶり以上のツアー復帰なのであるから(実現するならね)、ウォームアップ・ギグの類いを開催するのが順当だろうが、それをまるきりシークレットにするのかある程度(例えばメディアには)公開するのか、招待客を入れるのかとか、色々考えてしまう。まぁそんな事気にできるようになるにはあと一年くらいかかる気がするけれど、ULTRA BLUEからUTADA UNITED 2006の時のように、アルバム制作終了即ツアーリハーサル、なんて事も有り得るから気が抜けない。

ただ、一枚もシングルを出さないうちからハコを押さえるのは物凄い博打である。大きすぎても小さすぎても、多すぎても少なすぎてもいけない。

何より、先述の通り、ヒカルは不特定多数相手の市場で生きてきたアーティストだ。最新曲の評判が大きく左右する。そして、今の興行の活況をみればわかる通り、少なくともCDを買う層とコンサートに行く層の間にそんなに強い相関は、無い。つまり新しい曲が売れたからってヒカルのコンサートに人が来るかどうかはわからない。全く予測がつかない。

だから、今は、ある程度何も決めずに静観を決め込むのがいいとは思う。先程触れた通り日本国外との兼ね合いもある。一方で、チャンスを逃してしまうのも罪だ。梶さんだったら某かのアドバルーンを既に考えているかもしれない。即ち、ヒカル自身の復帰の前に何かひとつ前哨的な動きがあるかもしれない。となるとまずは秋口かな。ある程度警戒しておいてもいいかもね。

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「ネットがあるから(スマホを見てるから)テレビや新聞を見なくなった。」という台詞を最近よく聞く訳だが前も指摘した通り、ネットを介して接する事の出来る情報の大半は新聞社や通信社、出版社やラジオ・テレビ局が元ネタである。ただ端末が変わっただけで、実際の情報源は変わらない。

勿論複数の情報源を参照出来るようになったのは強力である。同じ事柄に対して各新聞社がどう報道しているかを比較出来るようになっただけで随分な進歩だ。

しかし、今言いたいのは、「情報を作る為の資金をどう調達するか」という点についてである。これについては、インターネットが普及した現在も殆ど変わらない。

出版社は出版物から、新聞は購読料から、テレビはNHKやCSが受信料から、民放が広告収入からそれぞれ次の機会に投資し、取材をして新しい情報を創造して発信する。テレビやラジオや新聞雑誌出版物を介さないで、或いはそういった所からの資金に頼ることなく創られた情報に接する事は非常に少ない。

なかでも、テレビの影響力は物凄いものがある。広告宣伝費ってそんなに巨額なのかと毎回驚くものだ。

例えばアニメの話をしてみよう。ニコニコ生放送で新しいアニメについての特番をたまたま見て気に入り毎週ニコニコ動画で視聴し、終わったらレコード会社から発売されたブルーレイを購入し漫画原作を出版社から購入しライブハウスにイベントに出掛けチケット会社でコンサートチケットを買ってホールにライブを見に行って…みたいなサイクルで生きているアニメファンは結構多い(といっても数万人規模だろうが)。この間、ニコニコ動画やレコード会社や出版社やライブハウスやチケット会社や興業会社やコンサートホール事業者とのやりとりはあってもテレビ局との接点は一切無い。

しかし、今の現実として、幾らニコニコ生放送で全世界最速で視聴できようとも、テレビの放映枠無しで1クールのアニメが作られる事はほぼあり得ない。上記のようにテレビを一切介さずにどんどんと各関連会社にお金を落としてくれる得意顧客が居たとしても、たとえ深夜でもテレビで放送しないと全く宣伝にならない為、テレビ局が噛んでないと資金を集める事が出来ない。

現実、深夜アニメの円盤が売れるのは殆どがテレビ放送のあった地区だ。「放送当時は地元の放送局が放送してくれていなかったから見ていなかったが、完結したあと名作だったとネットの評判が高いから今度ブルーレイも出ることだし買ってみようか。」なんてパターンは極々少数で、殆どが「テレビで見てよかったから円盤も買おう」という人ばかりである。今や配信でもかなりの高画質で視聴できる為(たとうばdアニメストアのHD画質は完全にDVDより高画質で、PCで視聴する分には殆ど問題がない。月額432円とは思えないよ…)、テレビで見る必要性をあまり感じない層も居るし、実際上の例のようなサイクルで完結できるのだが、収益全体を見渡すと深夜アニメですら地上波テレビ局の宣伝力・資金力にはかなわないのだ。

なんだか筆が滑りすぎたな。まぁいいか。

しかし、音楽業界は、全くテレビ局の力を借りる事なく成り立てるモデルケースが幾つもある。例えば山下達郎なんかどうだろう。ラジオではお馴染みの人だが、テレビでは殆どお目にかかれない。彼はテレビ無しでも全く問題なくアルバムをリリースしツアーを敢行できる。勿論クリスマス・ソングの大ヒットはテレビの力だが、あれが全く無くても彼は今の地位を築いていただろう事に疑いを挟む人は少ないだろう。

彼が今の大御所の地位を築き上げられたのはそのハードなツアーの賜物だ。この度彼の今年から来年にかけてのツアーデイトが発表されたが、その歳でそこまで細かくまわるかというほど全国津々浦々、関東圏の人はその気になれば十数回、いやさ数十回観に行けるんじゃないかという密度である。彼にテレビ局の援護は確かに必要ないが、その為にはここまでしなきゃならんのかと。


で。前回も述べたように、ヒカルが大ヒットしたのはテレビの影響がとても大きい。200万枚まではラジオの力な気がするが、そこからは全然テレビに出てくれないヒカルについてこれでもかとテレビが取り上げていた。実際、テレビでプロモーションをしなかったFINAL DISTANCEは初登場1位を逃したし、テレビはCMのみだったtravelingの初動は吃驚するほど低かった。ヒカルはかなりテレビ依存のプロモーションできていた。


それこそ、次の復帰の時には一切テレビに出ないというのも選択肢だ。ラジオ一本で。しかし、資金はレコード会社が調達してくれている訳で、もともとヒカルは「お客さん」に過ぎないのだから、ギャラが貰えて宣伝も出来るテレビ出演を断る理由が無い。「出たくない」なら別だけど。ここらへんのバランスが難しい。

テレビに出るデメリットというものが明確にある訳ではないのなら出ればいい。ミュージシャンの中では、例えば吉田拓郎なんかは「初めてテレビ出演した時に怒鳴られて随分怖い思いをした」からそれ以降(ラブラブ愛してるまで、かな?)テレビ出演を殆どしなかったりしたが、ヒカルはそういう経験をした訳ではないのでそこまでネガティヴな印象をテレビに持っている訳ではない。しかし…

…幾らなんでも今日は長くなり過ぎたからこの辺で打ち切るか。続きを書くかどうかは不明。ネガティヴな内容になりそうなのでね…。

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CD売上が絶頂の90年代後半ですら、歌番組で高視聴率を獲得するのは至難の業だった。ダウンタウンやとんねるずがMCを務めたのも、歌より彼らのトークの方が視聴率が取れたからだ。

ミリオンセラーが殆ど出なかった80年代以前の方が音楽番組の視聴率は高かった。これを、皆が歌をテレビで済ませていたからとみるべきかそれとも音楽番組が楽しかったからとみるべきかは意見が分かれるところだ。ただ、80年代音楽番組の象徴的番組だった「ザ・ベストテン」が終了したのも裏番組のバラエティー「とんねるずのみなさんのおかげなんちゃら」に視聴率を奪われたのが大きかった。いやいやMCの久米宏が居なくなったのが大きいんじゃないのと言われそうだが、彼は「ニュース番組のバラエティー化」の象徴として「ニュース・ステーション」に引き抜かれた。大体、番組終了前後に黒柳徹子はとんねるずに対して恨み節を吐いている。なので、私の印象としては80年代までの歌番組は、お笑いのバラエティー化とニュース・ワイドショーのバラエティー化が進む中で取り残され、90年代になんとかそこに"取り入る"ことでゴールデンタイムでの延命をはかった、というのが流れであったように思える。

60年代以降テレビは何十年と隆盛を極める訳だが、初期の番組を今見返してみるとそれは、ラジオ番組からの移行、舞台と映画とその役者を使ったドラマ、落語や漫才や歌などの演芸、スポーツ中継など、他の分野でのコンテンツをそのままテレビに持ってきたものも多かった。更にそこに加えて、アメリカ産の映画やドラマやバラエティー番組を輸入しつつ、その模倣の中から「テレビ・バラエティー」とでもいえる日本独自・テレビ独自のフォーマットが育てられ、90年代にそれが完成したという印象だ。テレビタレントなんていうカテゴリーもその流れの中で生まれていったのだろう。

そんな風に捉えると、実は歌や音楽というコンテンツは地上波テレビのコンテンツが成熟していく中で、いわば"取り残された"類のものであって、90年代後期ですらテレビの力は主ではなかった。影響力は大きくても、そこが主戦場でない限り本質的にバブルでしかなかったのである。紅白歌合戦の化け物視聴率がそれを錯覚させてきていたような気がしてならない。まぁこれはラジオ時代からのコンテンツなんですが。


そんな中、その90年代の"音楽バラエティー番組"の歴代最高視聴率を軒並み獲得していたのがヒカルだった。彼女への興味は、ほんの1、2年の間だけとはいえ、全盛期のダウンタウンやとんねるずへの関心を上回っていたのだ。それをどうとるべきかは難しいところだが、藤圭子がブレイクしたのも、様々な"芸能人"がテレビに進出していく時代の出来事だった事を考えると、彼女の大ヒットもテレビと無関係ではなかったように推測される。まぁこれはどっちかわからない。

90年代に一応のフォーマットが完成し、それ以降の20年は安定期、或いは緩やかな衰退期に入っている地上波テレビだが、ヒカルが今までの活動スタンスで行く気ならまだまだお世話になるしかない。そんな中で、彼女が出演するに相応しい番組がゴールデンタイムに幾つあるのか、もう復帰が間近ということだからしばらくチェックしてみた方がいいのかもね。

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