さて前回もしらばっくれてたのだけど、その『Mine or Yours』の最後のパートの歌詞、音だと
「じゆうになれればなれるほど」
のところ、サブスクの歌詞表示だと
『自由に慣れれば慣れるほど』
なのよね。最初まず歌詞を目で読まずに耳で音だけ聴いた際、私は全く疑わずに
「自由に成れれば成れるほど」
なんだと思い込んでた。五段活用動詞「成る」、“be”の“可能”で「成れる」、”can be”だね。ところが実際の歌詞は下一段活用動詞「慣れる」、”get used to”だったんだ。後から歌詞表示を目で見てビックリしたよ。
でもこれ、ヒカルさん、ある程度わかってやってるんじゃないかな? つまり、歌詞はあクマで耳に入ってくる歌に付随するものであって、目で見て読める歌詞文字表記は補助でしかないというか。自分の意図は「慣れる」だけれど、「成れる」で解釈してもらっても大丈夫、と踏んでる気がする。
前回の日記などはそれに甘えて「成れる」の解釈で話をしてたんですけどね。つい漢字で「慣れる」の方を使っちゃったから幾らか違和感があったかもしれない。ごめんなさい。
それに関連して思い当たるのが、プータローさん @BU19244800 が指摘していた
『令和何年になったらこの国で
夫婦別姓OKされるんだろう』
の部分が
『令和何年になったらこの国で
夫婦別姓を消されるんだろう』
に聞こえる問題ね。確かに、ここのメロディ運びをそのままイントネーションとして捉えると、「OKされる」よりも「を消される」の方が日本語として自然なのよさ。一方で、『OK』の部分を「オーケー」ではなく「オーケイ」と注意深く発音してる事からも、「を消される」ではないことは控えめに主張されてはいる。
でもこれも、「どちらに聞こえても大丈夫」と思ってんじゃないかな? 確かに歌詞文字表記では『OKされる』なんだけど、「を消される」で解釈されても構わない、と。まぁやや意味が通じる解釈にささやかな強引さも付き纏うけれど。
どうしてもSNSで話題になるとなると、歌詞を文字で、視覚的な認識で語る人ばかりになりがちなんだけど、メロディや歌い方などとも関連させて言葉を選んで歌っているシンガーソングライターのヒカルからすれば、実際の歌を音で聴いてもらって初めて本来の意図やニュアンスが伝わるのにという忸怩たる思いもまた抱えているのではないかと愚考する。それがどこまで“憤懣やる方ない”事態なのかはわからないが、ここに来てその状況を利用するというか、面白がるしたたかさも見せてきてるのかもしれないなと思えた次第。今後の歌詞の在り方なんかも見ながら、ここらへんの妄想は検証されていくべきでしょうね。
にしても、連日多角的に『Mine or Yours』の構造を検証してるのだけど、どこから切り込んでも最終的に「あなたの感じ方次第で変わるのよ」と言われてる感触に辿り着く構造になってるのは、宇多田ヒカルの魅力の真骨頂の醍醐味の一つだろうね。まったく、よく出来てるわ!