キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

5万分の1の地形図と豊橋松竹

2023年12月05日 | ☆記憶
地図の整理をしていて、ある地図に目がとまりました。

国土地理院の5万分の1地形図「豊橋」です。余白に電話番号と思われるメモがありました。



松竹0532-53-1131
と書かれています。
グーグル検索してみたけど、この番号でヒットするものはありませんでした。


記憶をたぐります。
この豊橋の地図は、学生時代、地域研究の演習でバス1台を仕立てて静岡から愛知まで巡った「巡検」のときのもののはず。
学生が手分けして事前に調べた項目を車内で発表しながら、各地のいろいろなものを見学して回るという内容でした。

久能山のいちご栽培、カワイのピアノ工場、掛川の報徳社、渥美半島の電照菊栽培など見た記憶があります。(他にもあったかも)
私は報徳社の担当で二宮金次郎の作った日本報徳社をにわか調べで発表しました。(そして今では殆ど忘れてる…)

巡検の最後は渥美半の伊良湖岬で、そこで解散になった記憶。
日帰りだったのか、どこかで一泊したのか不明ですが、伊良湖岬で明るいうちに撮った写真があるから、もしかすると伊良湖岬のあとに電照菊を見たかも。渥美線の駅で解散と考えたほうが合理的かな。

渥美線で豊橋市内に戻り、私と友人は大垣発の夜行列車で学校に戻ろうと考えました(それだと普通運賃で帰ることができる)大垣-東京間を走る夜行列車は青春18きっぷの利用者に大人気で私も何度か使ったことがありました。豊橋駅発は深夜になるのでそれまで時間をつぶす必要があります。


それで「松竹0532-53-1131」
のメモの登場となるのです。

多分映画館でしょう。
豊橋で映画を見た記憶があります

この20年、映画館はどんどんシネコンに取って代わられできました。おそらく電話番号がヒットしなかった「松竹0532-53-1131」も今はないのでしょうね。

調べてみると「豊橋松竹映画劇場」というのが駅から徒歩圏にあったことがわかりました。2000年に閉館したらしいです。



映画のパンフがありました。
今はよほどじゃないと買いませんが、昔は映画を見たら必ずパンフレット買ってました。

この映画だったと思います。
松竹映画「自由な女神たち」久世光彦作品。調べたら「青春かけおち篇」つかこうへい作品が併映だったみたいです。
1987年2月7日封切とのこと。

豊橋のデパートみたいなところで「バレンタインデーのチョコレートを時間のあるうちに買っておこう」と思った記憶もあるので、この映画で間違いなさそう。


特に見たかった映画というわけではなく、あくまで夜行列車の時間までの居場所確保が目的でした。知らない街で深夜まで安全に過ごせる場所が思いつかなかったからだと思います。

映画の後は駅の待合室へ向かいました。そんなに人もいなくて、椅子に座って待つことにしました。
が、そこに酔っ払い(?)のオジサンがいました。

私達のところにやってきて、手に持った千円札をくれようとします。
お小遣いのつもりかな?
今考えても、なんでオジサンはお金をくれようとしてのかわかりません。

でも気味が悪くて、丁重にお断りして離れて座っていたような気がします。


無事、夜行に乗りました。朝小田原で途中下車して小田原城で象を見たような気もするんですが、小田原につくのは早朝のはずなのでこれは記憶ちがいかな???



旧い地図たち

2023年12月04日 | ☆記憶
今、部屋の整理を進めてます。
55㎡から40㎡の部屋に引っ越したときに相当たくさんのものを処分したのですが、4年半経過して物が増えてきました。更に最近はアウトドアの趣味がスタートして道具も増え気味、置き場所を確保しないと!

先週からスタートし、本、CD類、冷蔵庫の中、食料置き場、衣類、靴箱の中…と進めてきて、ついに思い出コレクションにも手を入れることに…。
学生時代からずっと集めて来た地図類です。

学生時代にバックパックで旅したアメリカから始まり、地理学の演習で訪れた日本各地の2万5000分の一地形図。自分が住んだ町の市街地図などなど。

















以前は海外旅行に出かけたときにも、ガイドマップの他に国土地図や大きな地図も買ってました。



古い地図はもう今は役に立たないし、今はなんといってもGoogleマップなどのオンライン地図が便利。
それでもこれまで持っていたのは、この時代の地図はむしろ今では手に入らない、という思いがあったからです。

地表面も時代とともに変わります。
その変化を見るのがかなり好きなので、今の地図と並べてみたら楽しいのです。



なんて、こんな事書いていたら、処分しょうと思っていた気持ちが鈍りますね。

ふふふ。

海外の地図はともかく、思い入れの深い場所の地図は残しとこうかしら??



高校時代の日記を読んだ

2021年01月27日 | ☆記憶
中学から高校まで日記を書いていた。日記というか、独り言ノートかな段ボールに入れておいたのをン十年ぶりに読み返した。高校2年から3年の2年間分をざーっと。

!!!

暗黒の16歳を過ごしていたようだ。
ひたすら悩んで落ち込んで自己嫌悪している。
日記だけ読むと95%暗黒。
こんなに暗い高校生活だったとは、我ながら意外だ。
思春期だったんだなぁ。

具体的な出来事についてはあまり記述がなく、読み物としては面白くない。誰に何を言われたとか、誰とどんな話をしたとか、それで理解してもらえなかったとか、落ちこんだとか、●×さんに比べて自分はだめだとか、そんなことばかり繰り返し書いている。きっと、書くことで自分の心を整理していたのだろうけど。



確かに高校2年生のころは、今思い出しても少し大変だった。
運動部と図書委員議長と生徒会副会長と演劇部を掛け持ちしていた。

図書委員で毎週当番やって、広報紙作って(前にブログに載せたシャーロックホームズについての新聞とか)。図書議会の議長としては「議事進行についての異議申し立て」を何度もくらっては泣き(たぶんセンパイの嫌がらせ)。演劇部は助っ人参加から抜けられなくなり、挙句コンクールの予選通過してしまう。文化祭は生徒会と演劇部の掛け持ちで、クラスの企画の手伝いできず なんとなく疎外感を味わって。
生徒会の代表で度々他校との交流会に出かけて「あしなが育英会」とかユニセフなどの街頭募金に立ったり。

それでも楽しんでやってたんだろうと自分では思ってたんだけど。
演劇部はことあるごとにやめたい辞めたいと書いており、退部届の下書きも日記に書いてる。図書議長も何でうまくできないんだろうとうじうじ書いてる(生徒議会の議長と比べたりしてる)。運動部もほとんど練習に行けなくなり仲間からブーイング(なのか勝手に引け目を感じていたのか)。

成績もボロボロで「数学3点だった」とか書いてるのを見つけた。「前回の5点の記録を更新した」とか・・・オイオイ!


そんな中で、いまなら「唯一の癒し」とでも書きそうなのが、生徒会で体験した他校との交流。これだけは楽しい楽しいと書いている。●×校の誰それはいい人だとか、美人だとか大好きだとか。


3年生の分を読む。
だんだん、書いていることが変化してくる。
高体連~運動部の引退までは朝練、昼錬など練習に燃えてたようだし、夏からは勉強。友達と一緒に頑張るのが楽しいとか、勉強を教えてもらったとか、放課後残ってグループで勉強したとか、体育の時間にランニングするのが楽しいとか、そういう記述が増えてくる。

面白い。

目標が定まってすっきりしたのもあるだろうし、16歳で悩みぬいたおかげで成長したんだろう。受験期は勉強は大変だったけど、友達との関係も良く、一体感があって幸せな学園生活だった記憶だ。

そのあと大学進学後の日記は、内省的な記述は減って(分量もぐんと減って)、今ブログに書いてるような楽しいことの記録が中心になっていく。
18歳くらいから自分の中身は変わっていないのかもしれない。

みんなそういうものなのかもネ。
それにしても、16歳のころの感覚をすっかり忘れていたのにはオドロイタ。

恩師の手紙

2021年01月25日 | ☆記憶






押入れの整理していて昔の手紙が出てきました。
うっとり見惚れるほどの綺麗な字♥
小学校1年2年の担任の先生でした。
大学一年のときに手紙を書いたと思われます。この後は次第にご無沙汰気味になってしまいました。もっと手紙を書いたり会いに行ったら良かったなぁ。

それにしても先生、こんなに美しい字なのに「一本の線も難しい。小学1、2年生の頃のあなた方の字が素晴らしく上手だった」とか、何を言ってらっしゃるのでしょうか??

航空写真で追う旧三菱重工熊航宿舎跡地

2020年07月25日 | ☆記憶
前回の投稿で、健軍の旧三菱重工熊本航空機工場の宿舎街のことを書きましたが、跡地の土地利用の変遷を航空写真で見ていきたいと思います。


戦時中の建物の様子。



戦後の航空写真(1947年~1975年)

1947年
工場内の建物と、健軍寮1~4、秋津寮1が焼けて礎石だけになっているのがわかります。当時焼け残った寮は、引揚者の収容施設として使われていたということです。


1956年
2,3,4寮の跡地に整然と戸建て住宅が建っています。
それに対して、健軍1寮と秋津1寮のあとは割とごちゃごちゃとしています。
戸建て宿舎のエリアの「火避け地」はまだそのまま空き地のようです。

1962年


1969年
焼け残っていた3つの寮のあとに鉄筋コンクリートの団地がたちました。
(今も使われています)

1975年

三菱重工熊本航空機工場が作った町

2020年07月23日 | ☆記憶

この地図とっても興味深い。
街の区画は今と同じ。
私の実家もこの中に。

という熊本県立大学の論文をたまたま見つけました。

熊本市東区健軍町の街の成り立ちを土地利用調査などをもとに追った研究です。
もともとは学部生の卒論だったようですが、とても面白かったです。


『シャーロックホームズを斬る!』高校図書館の広報紙

2020年02月27日 | ☆記憶
いま、高校図書館を舞台にした小説を読んでいます。
そのことはまた別の機会に書こうと思っていますが、その本を読んでいると自分の高校時代が懐かしく思い出されます。私も3年間図書委員で図書館に(比較的)入り浸っていたからです。

一番の思い出は、その図書委員会が発行する広報紙で「シャーロックホームズ」特集をしたことです。よく覚えていないケド、編集会議で「ホームズをやりたい」と言ったんでしょうね。中学生のころからのホームズファンだったので。

新聞を作った記憶はあったものの、内容は忘れていましたし、手元にも残っていませんでした。が、フェイスブックの同窓会ページでちらっとこの話題を出したら、持っている人がスキャンしてPDFで送ってくれました。次の帰省時にでも母校を訪ねてみようかと思っていたのですが、便利な時代ですね。

おそらく私が担当したと思われる部分を載せます。
言い出しっぺということもあってか、メインの記事を書かせてもらっているようです(署名はないけど)。この文章、司書の先生にこってり絞られながら書き直し続けたことも思い出してきました。高校2年生のときのことです。

ああ、懐かしいな。


特集記事は、このあと「ホームズ物語の時代背景」なんていう論評に進みます。
それはだれが書いたんでしょうね。私にはまったく書くことができない文章です。
また、「ホームズ物語ベスト10」という企画もありましたが、私の心のベスト10と違う。数人で分担したのかも。


下に挙げたブックガイドは多分、私が書いたと思われます。
なぜかというと、自分が読んだことのある本と読んだことのない本、どちらも紹介してるんですが、読んだことない本がバレバレな文章^^;わかりやすい。


読まずに紹介した本はどれかわかりますか?




私の高校の図書委員はほかの委員と同様、クラスから選ばれるのですが、実態は「部活」で、3年間続けるのが習わしでした。(1年でやめてもいいのだけど、だいたいみんな3年間続けてた)
私はもともと運動部にも入っていたのですが、2年の春演劇部の友人からキャストが足りないって言われて助っ人に行ってからずるずる部員になったし、生徒会も文化祭の実行委員やってから、なり手がいないといわれて副会長までやったし。勉強そっちのけであちこちの課外活動に精を出す生徒でした。(うまく足抜けできない性格?)
そうそう、生徒会副会長っていうのは他校との交流担当で、たびたび学校代表でイベントや会合に参加するためよく授業を「公欠」してました。

1~2年はそんな感じで忙しくしていたので(?)、成績はどんどん下がり続け、もう後がないというところまで下がった2年生の3学期、テストを返却するときに先生から
「おまえもそろそろよかだろ?生徒会も演劇部も引退だけん、そろそろ勉強ばするど?」
と言われたのをいまでも覚えています。
担任じゃない先生でしたが、私の活動をちゃんと見て知っていてくれてるんだなと思って、誇らしいような恥ずかしいような気持でした。

仙台の休日の思い出

2019年04月10日 | ☆記憶
ここ10年はブログのおかげで、いつごろ何をしたという記録が残っています。また、仕事で使っている手帳には予定が書き込まれているので、ブログに書いていないような些細なことも記録に残っていたりします。

でも20代の頃は、日記もつけず、手帳も残っておらず、記憶の空白期間です。
でもそんな中でもしっかり覚えている休日があるので、そのことを書いてみたいと思います。



当時、仙台に住んでいました。
仙台には友達もなく、長時間労働、休日出勤も当たり前で、仕事以外はほとんど寝て過ごす日々。自炊しようと思ってもスーパーの開いてる時間に帰れないし、そもそもそんな気力もなかったですね。アパートの台所も狭かったし。


そんな仙台暮らしも数か月がたったある夏の休日、気分が良かったのでしょうね。
やっと観光へ出かける気になりました。

まず、青葉城址へいきました。
仙台といえば誰もが行く場所ですが、未だ行ったことがありませんでした。

伊達政宗公の騎馬像を見て、城跡の資料館を見て、そのあと城内のプラネタリウムへ行きました。
プラネタリウムって、安い料金で楽しめるところが多くてイイですよね。

お昼ご飯に何を食べたのかは覚えていませんが、それから仙台一番の繁華街一番町へ移動。
仙台七夕などでも有名なところですが、ここにもほとんど来たことはありませんでした。
ぶらぶらウィンドーショッピングをして、どこかのお店で仕事にもつかえるハンドバッグを買いました。

当時から買い物がキライで苦手だった私にしては、快挙です。
よっぽど気分が良かったのでしょうね。

最後の締めくくりに映画を見ました。
当時ロードショーでやってたケビンコクナーの「ロビンフッド」でした。
ブライアンアダムスの歌った主題歌よかったですね。
映画は「ゴールデンラズベリー賞」(ダメ映画に贈られる賞)を受賞してましたけどね^^;



映画を観終わったらけっこう遅い時間になってたと思います。
ご飯は何を食べたのか覚えてないですが、帰宅したようです。

今なら何を食べるかはかなり重要な問題なのでしっかり覚えているのですが、当時はあまり食べることに興味がなくて「お腹すかなければ食べなくて済むのに・・・」と恨めしく思っていたのを覚えているほど、食に関心が低かったですね。



仙台に住んでいたのは、1年足らずの短い期間でしたが、仕事だけでほとんど遊んだ覚えがありません。
街で遊んだのはこの1回。
松島に食事に行ったのが1回。
宮城蔵王にスキーに行ったのが1回。
山形の「山寺」に行ったのが1回。

遊びに行った思い出がこのくらいしかいないのです。
あとは、カラオケとかパチンコとか。
なんてもったいない!


ブラック企業が問題になる平成の世でしたが、ブラックすぎると従業員は遊びに行く気力もない状態になってしまうのですよね。

そんな中でも、この一日だけは今でも覚えているほど鮮明でいい思い出です。
この日があるおかげなのか、私の仙台のイメージはとてもいいものとして残ってます。



「冒険の人生」ETV特集 移住 50年目の乗船名簿

2019年01月15日 | ☆記憶
半世紀かけて撮った人生 ついに放送 ETV特集「移住50年目の乗船名簿」



番組公式サイト

正月休みに撮りためたTV番組をいろいろ見て過ごした連休。
その中でもとても考えさせられた一本。昭和43年の南米移住船「あるぜんちな丸」の同乗取材から始まり、10年ごとに移住者のその後の姿を追い続け、10年後、20年後、31年後をドキュメンタリー番組として作り続け、なんと2018年に50年後を取材した作品。しかも同じ人が作り続けている。テレビ番組としてこういうものはなかなかないだろうし、題材も切り口も興味をひかれてやまない。

「あるぜんちな丸」で渡った南米移住者の50年後を取材したこの、番組はETV特集で4回シリーズ。すでに2回は放送されたが、あと2回はこれからの予定(でもまだスケジュールが発表になっていない)見逃せない。
過去の作品は、切れ切れだけれどもYoutubeで見ることができる。またYoutubeには担当ディレクターが語る取材秘話もいろいろあるので興味深い(昨日は一日それを見てしまった)

関連の動画は以下のリンクから視聴可能。

NHKスペシャル 南米移住シリーズ(2)『乗船名簿AR29』


番組は以下の通り
1年目『乗船名簿AR29』
10年後『移住〜あるぜんちな丸乗船者の10年〜』
20年後『移住20年目の乗船名簿』
31年後『移住31年目の乗船名簿』


昭和43年の「あるぜんちな丸」に乗って南米へ向かった人たちは実に様々。
一族で移住する大家族もあれば、10代の若者が単身わたるというのもあり、また共通の夢に向かって周到に準備して渡る若夫婦もあれば、会ったこともない相手と文通だけで結婚を決めて渡る移住花嫁もたくさんいたり。
その花嫁の言葉が印象深い。
「団地で奥様するのも安定してていいんでしょうけど、単純すぎるわ。私はもっと冒険の人生を送りたい。」
この写真花嫁(戦前の移民では頻繁に行われたが、昭和40年代でもあったというのは意外だった)の言葉にはハッとさせられた。むかしから漠然と海外移住するひとたちに興味があり、大学の卒論テーマにもブラジル移民を選んだものの、自分自身は非常に安全志向。「冒険」という文字は私の辞書にはなかった。
「冒険」かぁ・・・。
それは素敵なものなのだろうか?



私の祖父が台湾に渡り、さらに中国大陸に渡ったのは、「冒険」したい気持ちもあったのかな?
引き揚げた後、いろいろあって警察官としての生活を手に入れた祖父も、なにかのめぐり合わせによっては、南米に行こうと思ったかも?私もブラジル日系2世として生まれてたかも?!そんなことを思ったり。戦後の南米移住者の多くは、満州や南洋からの引揚者だったそうだから。


そうそう、この番組を撮り続けたNHKのディレクター相田洋さんは、今82歳だそうで、もちろんNHKはとうの昔に退職されているのだけど、すごいバイタリティー!!興味が湧いて調べてたら、この方も満州からの引揚げ者で、引き揚げ船での体験がこの番組を撮るところにつながっていたという話。そして、引き揚げた先は熊本で、私の高校の先輩にあたる方だった。
つながる・・・なぁ。



それと、一番上にあげた50年目の番組を紹介する「番宣番組」の動画、アップロードしているのはイトウゲンイチロウ氏!「あるぜんちな丸」でパラグアイに移住したそのご本人だ!

ボータク

2019年01月14日 | ☆記憶
彭沢県
中華人民共和国 江西省 九江市


礁さん、ボータクというのはここではないでしょうか?
私は「ボウサワ」と呼ぶのかしらと思っていましたが、ボウタクと言ってたのですね。

「山河ありき」では人家30戸程度の寒村と書いてありました。
今もそれほどの街ではないですが、航空写真で開発が進んている様子が見えます。
同じく「山河ありき」では博多港に上陸したのは昭和21年6月22日と記載があります。
南昌→九江→彭沢→上海→博多と移動したと書いてあるので、礁さんの記憶の「冬に下船」したというのに当てはまるところがありそうですね。


ここのところ、戦争に至るのはなぜか?ということを考えています。それを考えることで、そこへ至らないようにしたいと思うからです。



昭和19年「在華領事館警察署」所在地図

2019年01月12日 | ☆記憶
戦時中祖父がいたという領事館警察。一体どういうトコロなのだろうかと興味が湧いてきた。
治外法権の最大活用(中国側からみたら濫用か)中国各地に置かれたものだとわかった。
ウィキペディアで「在華領事館警察署」の一覧を見た。
どのくらいの範囲に分布していたのだろうかとおもって地図に落としてみた。
すごい広範囲にわたっている。

何というか、当時の日本の「本気度」を感じる地図になった。

このなかでも「南昌」は奥地だなぁ。
でも熊本出身の祖父から見れば、東京と距離的には大して変わらない。
台湾から見たらうんと近い。




在華領事館警察署
1944年(昭和19年)時点

張家口警察署
宣化警察署
大同警察署
厚和警察署
包頭警察署
北京警察署
豊台警察署
通州警察署
保定警察署
石門警察署
彰徳警察署
順徳警察署
開封警察署
新郷警察署
太原警察署
天津警察署
塘沽警察署
唐山警察署
柏各荘警察署
山海関警察署
芝罘警察署
威海衛警察署
青島警察署
坊子警察署
済南警察署
張店警察署
博山警察署
上海総領事館警察署
上海警察署
南通警察署
楊樹浦警察署
新市街警察署※候補複数あり、特定できず
寧波警察署
蘇州警察署
常州警察署
無錫警察署
杭州警察署
金華警察署
南京警察署
鎮江警察署
揚州警察署
徐州警察署
海州警察署
蚌埠警察署
蕪湖警察署
安慶警察署
九江警察署
南昌警察署
漢口警察署
武昌警察署
大治警察署
厦門警察署
広東警察署
海口警察署

関連記事「山河ありき」

祖父が生きていたら、なぜ台湾から戦地である中国大陸に(妻子を連れて)渡ったのかきいてみたかった。
「そりゃ給料が良かったけんたい」という返事かもしれないなぁ。
或いは、外地の警察官であれば召集されないとかそんなことがあったりしたのだろうか?


国立台湾図書館でルーツ探し

2019年01月04日 | ☆記憶

国立台湾図書館
ここに行けば、日本時代の資料が見られるよー。と教えてもらっていたのでやって来ました。


日本時代の総督府関連の資料のコピーが製本されて自由に閲覧できるようにしてある。


祖母の母校、屏東女学校の沿革。
祖母は第1期生で、「入学した時はまだ校舎ができてなくて生徒も工事を手伝った」と聞いていたが、その話が裏付けられた。5月から公学校の教室を間借りして授業開始。9月に校舎完成。


人名録。


曽祖父の名前を見つけた。


台東庁の公報。
これを昭和5年くらいからずーっと調べていった。


祖父の辞令が載っているのを発見!
昭和11年秋のことだった。


曽祖父の医院の住所が載っているのも見つけた。
2002年に現地を訪ねてみたが、場所を特定することはできなかった。祖母を伴って訪問できたら色々わかったんだろうけど、当時祖母にその気がなかったのが残念。


1921年の地図を友人が送ってくれた。
この斜線がついている市街地の何処かにあったはずなんだけど。

私の「ファミリーヒストリー」調べ、もう15年もやってる。最近公的資料で少しわかって楽しい。

昭和11年警察官として赴任した祖父の月給は36円だったみたい。

荒瀬ダムAR アプリ

2018年11月30日 | ☆記憶
「ダム撤去」で地域活性化(日経 xTECH)

撤去された荒瀬ダムの所に行って、スマホなどをかざすと、ダムがAR(拡張現実)の技術で蘇るというものらしい。
専用のアプリをダウンロードしてやってみたいものだ。

(上記の記事は途中から有料になります)


アンドロイド
https://play.google.com/store/apps/details?id=com.iwasaki.araseAR&hl=ja

IOS
https://itunes.apple.com/jp/app/%E8%8D%92%E7%80%AC%E3%83%80%E3%83%A0ar/id1282980617?mt=8

荒瀬ダム撤去動画

2018年10月12日 | ☆記憶
荒瀬ダムの撤去 30分版(一部専門家向け)


この春撤去完了した熊本県営荒瀬ダムについて、県企業局が制作した30分の記録映像です。工法についてなども詳しく解説があって面白いです。(全然わからないけど)15分間の一般向け動画もあります。

熊本県八代市坂本町荒瀬にある道の駅「さかもと館」に行くと、荒瀬ダム建設当時の記録映像も放映されていましたが、この映像もどこかで見られるようにしてるのかしら?


私が生まれた頃、父が藤本発電所の職員だったので、もの心ついたときから、ダムのある風景はずっと親しみのあるものでした。時代の流れで、住んでいた家も、ダムも発電所もなくなってしまいましたから、この映像記録を見ることができて嬉しいです。

いち市民としては、時代が環境を大切にする方向へ動くのは歓迎で喜ばしいことだと思っています。今度荒瀬に行ったら、蘇った清流で川遊びなんかもしたいものです。


熊本県企業局発行「荒瀬ダム撤去」(PDF)

YOKOの好きなもの羅列

(順不同)地図、河岸段丘、保存樹木、宮本常一、縄文時代と日本の古代、文明開化と江戸時代、地方語、水曜どうでしょう、シャーロック・ホームズ、SHERLOCK(BBC)、陳昇、John Mellencamp、Kate Bush、イ・スンファン、カンサネ、1997年以前の香港映画、B級コメディー映画、SNL、The Blues Brothers、台湾、旅行の計画、イタリア、エステ、宮部みゆき、ショスタコーヴィチの交響曲5番、森川久美、のだめカンタービレ、くまモン
台湾旅行一覧 ただいま64回
海外旅行一覧 ただいま123回?