キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

くまもと歩き 宮本武蔵の墓「武蔵塚」へ

2022年10月17日 |   └─くまもと
いつもの帰省時は、熊本空港からまっすぐ実家に向かうのですが、たまには別のコースも使ってみましょう。空港から無料のシャトルバスでJR肥後大津駅へ行けると聞いたので乗ってみたい!


くまモンが描かれたバンタイプのタクシーがシャトルバスです。
このときは乗車人数3人でした。

15分ほどで肥後大津駅に到着。
無料なんてありがたい。
はじめてきた駅です。

有名な杉並木を見てみたいです。
この区間の豊肥本線は車の道と合わせて昔の大津街道だったらしい(それほどお広くて大きな道だったんですね)ので車窓の景色が楽しみです。




短いですが車窓からの景色の動画です。
杉の木が続いているのがわかります。
いつか、歩いてみたいものです。


途中には台湾の半導体会社TSMCの工場も造られてるはず。
見えるかな?

見えました!
ニョキニョキと不自然なほどたくさん生えてる巨大なクレーンたち。
きっとあそこに違いありません。




光の森駅で降りてショッピングモールでお昼ごはんを食べます。
肥後大津から光の森まで4区間の列車の旅でした。
JR九州の列車はデザインも独特で乗るのが楽しいんです。
光の森からはバスで武蔵塚公園へ。

この日(10/1)バスの運賃は100円均一でお得でした。





前回の帰省のときに霊厳洞へ行って、今回は武蔵塚。
いい流れです。
とは言うものの、武蔵塚と宮本武蔵が関係あるとは今回まで全く考えてませんでした。

もちろん、武蔵塚とか武蔵ヶ丘といった地名は子供の頃から知っていたし、宮本武蔵が熊本にいたことも知ってはいたんです。
でも、日頃関東地方に住んでいて「武蔵○○」という地名を数多く目にしていると、熊本の武蔵ヶ丘とかも普通名詞のような感覚になっていたんです。

肥後大津駅周りで行くなら、どこに寄ろうかな?と考えながら沿線の地図を見ていたときに、
「もしかして宮本武蔵関係なの?!」
と思いいたり、調べてみたらお墓があったという話。

これは見ておきたい。
武蔵のお墓=武蔵塚 があるところは公園に整備されていました。

















宮本武蔵の銅像や説明版。
武蔵好きならぜひ訪れたいところだと思います。



お墓

出身地岡山のゆかりの人々の子孫が植えたという木や記念の碑がありました。






こちらはおまけ。
西南戦争のときに亡くなった松浦新吉郎と言おう人のお墓です。
遺言で武蔵塚のそばに葬ってほしいということだったのだそう。






バス賃が100円と知ったので、武蔵塚から水道町までもバスに乗り、くまモンスクエアとか鋒楽饅頭とかに寄って健軍の実家まで帰りました。
市電にのったらこちらも100円。助かったな~。




誕生日は横浜ランドマークタワー展望台へ

2022年10月16日 | ヨコハマ散歩
横浜ランドマークタワー展望台は通常1000円かかりますが、誕生日は無料です。
誕生日の夕方思いついて、仕事帰りに寄ってみました。




受付で誕生日の無料があるかを聞くと、やってるという話でした。
おめでとうございますと言われながらエレベーターへ。
照れ(。>﹏<。)

分速750m!

美しい夜景が眼前に広がります。
みなとみらいから横浜インターコンチネンタルホテル、コスモワールドの観覧車、ハンマーヘッドまで見えます。



こちらは桜木町駅側。



大さん橋、山下公園氷川丸が見えます。
手前に11月1日オープンと書いてあるビルはずっとコロナの隔離施設だったアパホテルです。 



記念撮影スポット。



横浜の現在の地図の上を歩くと古地図が浮かび上がるコーナー。



日本一高いところにあるライブラリー。
本は自由に読むことができます。


平日の夜は展望台も割と空いていてゆっくり夜景を楽しむことができました。
来年もお天気が良かったらここに来ようと思います。

「鎌倉殿の13人」に影響されて鎌倉散歩

2022年10月14日 | 神奈川散歩
毎月抽選に応募している円覚寺の管長横田南嶺老師の日曜説法、ようやく当たったので出かけてきました。
今回は、鎌倉仏教の歴史についての学校の授業みたいなお話でした。
ノートをとりながら聞きました。

終わってから、思い切って老師にお声をかけました。
(玄関でお見送りされているのです)
おなじ大学の2年先輩だということは分かってたのですが、どこのコースの方かなと思ってたので、そんなお話もしたりして。

説教の後は坐禅体験もしてきました。
初回よりも足が痛く、でも時間が短く感じました。






気候もいいので、源頼朝のお墓にでも参ってこようかな。
大河ドラマで見て、親しみを感じてきたので。


北鎌倉から、鶴岡八幡宮を横切って、頼朝の墓へいきます。
歩いて35分らしい。

北鎌倉はそうでもなかったですが、鶴岡八幡宮までくるとすごい人です。
天気もいいし、3連休だし。
結婚式もやってました。




銀杏のある大階段。
ああ、ここで実朝くんが…。



これは先代の大銀杏。


何度か来たことのある場所ですが、
前来た時は気が付きませんでした。
「畠山重忠邸」
いまならわかります。中川大志くんの見栄えの良いお顔がすっとイメージされます。ここにお住まいだったんですね!
政所のすぐそばです。





頼朝の墓もすぐ近く。





ヨリトモ君というのが商店会のキャラクターのようです。
その名も「大蔵頼朝商店会」
この地図ほしいなぁ。

この辺の道幅はこのくらいです。
鎌倉時代もこうだったのかな??





鎌倉市は大河で徹底的に町おこししてますね。
そりゃそうですよね。















頼朝時代の幕府中心(大蔵幕府)があった場所には今小学校があります。
いろいろ出土しているようです。
生徒たちがまとめた案内文なども掲示されてたりしました。

源頼朝の墓は、その大蔵幕府の裏山に幕府を見下ろすように建っています。
前に来たときは「この階段上りたくないな」と素通りしてしまったのでした。
今は思い入れあるから上りましたよ。








頼朝さんの墓は石塔になってます。

白幡神社や義時の墓の法華堂跡などもあります。
こぢんまりしています。







ただこの法華堂のあとが二つあるのはどういうことかな?
場所の特定が難しかったということでしょうか?
それとも時代時代で法華堂が移っていったのか?
そもそも二つの法華堂があったのか?








頼朝の墓から少し離れたところに、大きめの場所があり、こちらからはお堂の敷石なども発掘され、ARで往時の様子が体験できるようになっていました。







こちらは、奥に「三浦やぐら」
さらに山の上に、大江広元の墓などもありした。




大江広元って毛利氏の先祖になるのですね。
長州藩の紋が見えます。

さらに時代が下って島津さんの墓もここにあるのですが、いまは大江さんの墓が一番お供え物がありました。






北条執権邸というのもあったので行ってみました。
いまは宝戒寺という萩の花で有名なお寺になってます。






日蓮上人が辻説法した場所というのもありました。
りっぱなお堂も立ってました。
中には日蓮上人が。







ここまで来て、現代に戻りました。
若宮大路には人力車もいますね。




メトロポリタンホテルの1階のMUJIカフェでお昼食べて、鎌倉駅から帰宅しました。1万歩は軽く歩いていました。




鎌倉も歴史を知ったら歩くのが面白いですね。
日蓮の辻説法の場所は武家屋敷町と町人まちの境目あたりだったらしいので、かまくらの街の様子も何となく感じることができました。


また来よう。


くまもと 新町・古町歴史散歩② 古町篇

2022年10月13日 |   └─くまもと



新町(洗馬橋)からスタートした街歩き。
次に向かうのは明八橋を渡って「古町エリア」です。







青物市場・魚市場
明八橋近くの川岸に青物市場と魚市場があった。野菜類は南は本庄、春竹、宇土方面から、北は島崎、花園、芳野村、河内から集まって来た。魚市場には島原、天草、筑後からは米、酒、薪炭を積んだ船が、高橋、小島、塩屋など河内海岸や宇土半島の網田、赤瀬からは魚を積んだ船が坪井川を遡ってきた。因みにこの市場は昭和38年に魚市場、同39年に青物市場が田崎市場へ移転した。


この日は10月だというのに真夏のような暑さで、結構体力消耗してきました。日陰日陰を選んで歩きます。
明八橋の上で記念撮影。

こうやって4人で街歩きしたのですが、洗馬橋電停前の文林堂のところで父の説明を聞いていた時に、ちょうど信号待ちしていた方がなんとなく父の説明に耳を傾けている気配。
「何の集まりですか?」と尋ねられました。
きっとこういう街歩きや歴史がお好きな方だったのではと思います。

私もよく横浜で、ガイドさんについてぞろぞろと歩いている人たちと一緒になると、ついついガイドさんのお話に耳をすましたりしますもん。




3丁目御門(明八橋)
新町と古町をつなぐ橋で新町側に御門があつた。この門は柳御門或いは3丁目御門とよばれた。この門を潜ると熊本城内であるので門の管理は厳重であった。高麗門と同じく朝6時に開門夕方6時には閉門した。なお「明八橋」の由来は明治8年に眼鏡橋に架け替えられたことによる。橋の工作者は石工橋本勘五郞である。



全景の写真を撮るのを忘れたのですが、下の写真の右上に写っている丸い街灯は、大正時代の写真と同じデザインでした。


西唐人町
幕末から明治、大正にかけて清永家の全盛期。この町は清永家の町と言ってよいほど清永一族の商店が軒を並べていた。清永家の当主は代々板屋猪太郎を名乗る名字帯刀の家柄で、幕末ペリーが来たとき熊本藩は横浜本牧の警固を命じられるが、その軍用金3000両、5000 両を清永家の口利きで此の地の商人が用立てた。その証文が残っている。



景観形成建造物・町屋
明治期の建造物で市の指定を受けている。平成元年(1989 )市景観条例が制定され現在までに18 件が指定されている。


お昼ご飯は唐人町通の店を予約してました。
ここです。
築140年の町家を使ったレストラン「ピュアリィ」。
中はどうなってるんでしょう?




暖簾をくぐって、背戸やみたいなところを通り抜けていきます。



建物は2階建てで、通り側から入ったら、川に向かって一階分下りる形。
もとは米蔵だったという地下空間で食事しました。
なんとも味がありますね。




せっかくなので、川の方へ出てみました。
坪井川です。
むかしは舟運が盛んで、ここから荷物を出し入れしていたのですね。



先に見えるのが明治10年にかけられた「明十橋」。
明十橋から下流右岸には昔米の取引所があったのだそうです。


熊本米穀取引所跡
明治24年に熊本米穀取引所が開設され、昭和16年廃止されるまで相場師たちのいちかばちかの張り合いが展開されて活況を呈した。数十軒の取引仲買人の店舗が建ち並び、そこへ出入りする客を目当てに飲み屋、食い物屋が軒を並べて賑わった。






唐人町通りの中ほど、明十橋のところに立派な洋館が。
大正8年築の旧第一銀行熊本支店跡だそうです。


明十橋を新町側にわたったところからパチリ。


明十橋通り旧第1銀行跡
大正8年第1帝国銀行熊本支店として開業、昭和47年熊本信用金庫唐人町支店となる。現在東京に本社のある空調機メーカーPS工業が空調機器の展示場及びイベント会場として活用している。








古川町・古庄本店
古荘財閥の母体は熊本市古川町の繊維問屋・古荘商店(現古荘本店)である。大正末から昭和の初めにかけて繊維事業に成功し、その勢いで銀丁百貨店、肥後無尽(のち肥後相互銀行)、大阿蘇観光道会社、熊本日産自動車、比島金貨メリヤス(マニラ)などを設立した。また、東京では日清生命保険、大分ではトキハ、小倉では井筒屋百貨店などを次々に傘下に収め、経営した。近代熊本の経済史を語るとき古庄商店の存在感は絶大なものがある。(松岡泰輔氏論文より一部引用)


鍛冶屋町通りは熊本一の高級商店街であった。久留米呉服店、油屋呉服店、森本襖表具店、小寺金物店、迫時計店、八木ラシャ店これらの商店は九州でも1,2 と言われる店構えであった。

鍛冶屋町通は唐人町通とは違うのかな?

お昼も食べて暑さもピーク。
そろそろ桜町バスターミナルに向かいます。
弾丸帰省なのでもう帰京しなくちゃなのです。

古川町にあったタクシー会社に荷馬車の車輪が飾ってありました。
このタクシーやさんも昔は馬車やさんだったのでしょうか?




電車通りをあるいて桜町まで来ると、
花畑広場ではちょうど「九州産交80周年」のイベントをやっていました。
ベンチで休憩していたら、大きなバスが到着してなかからセーラー服の女学生たちがわらわらと下りてきました。

「八代の白百合の制服じゃなかかな?」と父。
果たしてバスには「白百合女学園」の張り紙が。
すごいね、おとうさん。
楽器を運んだりしている様子、きっとこのイベントで演奏するのでしょう。

とおもっていたら、父がサッと女学生たちに話しかけています。
「何時からの出演ですか?」
もうすぐ次の出番のようです。

はつらつとした高校生がまぶしかったので、後姿をパチリ。




おまけ。
産交バス(回送)の行き先表示が80周年記念バージョンに。なってました。





くまもと 新町・古町歴史散歩① 新町篇

2022年10月11日 |   └─くまもと
今回の弾丸帰省でやりたいことがありました。
熊本城下町の町人まち、新町と古町の散策です。

熊本で育ったものの、ほとんど足を踏み入れたことがないエリア。
歴史好きの父と歩けばいろいろ教えてもらえそうです。ワクワク。
父は老人会の街歩きイベントで定期的にガイドをしていて、新町や古町も以前に歩いたことあるらしく、「新町・古町を歩きたい」というと、早速その時使った街歩きのしおりを送ってくれました。(記事中に引用したのは父作成の案内文です


熊本市電B系統、上熊本駅行きに乗ります。
レトロタイプの車両、ラッキー!






父の街歩き案内文は、こう始まっています。

新町
新町は加藤清正が作った町人町で大坂や名古屋から清正を慕ってついて来た商人や職人及び地元の商人、職人を定住させて形成した町人町である。これに対して明八橋対岸の古町は二本木町の商人を移住させて形成した。
藩政期の新町は城下に居住する武士階級へ生活用品を供給する町人町として、それなりに繁栄していたが、明治になると様相は一変する。明治6年、鎮西鎮台が熊本鎮台と改称されて6師団が隅本城内に置かれ、徴兵令が施行されると兵隊2,300人が歩兵第13連隊に所属し、市内は軍人で溢れかえり軍都熊本と呼ばれるようになる。これが商売を刺激した。新町や古町の商人は「陸軍御用達」の看板を掲げ、師団や連隊に出入りして商売を拡大し、「御用達に非らざれば商人に非ず」と言わしめた。この状況は、景気の好不況等の紆余曲折を経ながらも昭和20年の終戦までつづいた。


洗馬橋電停で降ります。



洗馬橋といえばたぬきですね。

有名な産婦人科福田病院。友人が働いてます。
テレビで見たことはありますが、大きい!
このあたりは昔の塩屋町です。

塩屋町は船場橋から長崎次郎書店前交差点まで東西約370㍍の通りである。この通りを基点に南へ3本の路地が延びている。それを名裏小路と称し最も東側の路地を塩屋町裏2番丁、中央が同裏1番丁、その西側に同裏3番丁があった。また明治7 年には活版刷りの新聞が発行された。白川新聞がそれで白川県から熊本県になると熊本新聞(日刊)となった。そのほか銀行、米穀取引所、裁判所、写真館等ビジネスの街として発展した。


文林堂。



文林堂
初代丹邊総次郎が明治10年に創業した文房具店である。
丹邊家は代々細川家の御用染物師で、その閲歴は古く細川家の丹後統治時代より始まる。細川家が田辺(12万石)→中津(39万石)→熊本(54万石)と累進するとそれに従ってついて来た。
明治4年の廃藩置県後は塩屋町裏2番丁で旅館業を営むが西南の役で家屋が全焼すると戦後は文房具店に商売替えをした。熊本で初めて万年筆を売り出すなど商売は当たり文人墨客との交友が深まった。夏目漱石など有名人の色紙、書簡などが遺っている。当主の総次郎はのちに商工会議所理事、熊本市議会議員などを務め、熊本の名士となるが、市会議員のときに議員報酬廃止を唱え、自身は報酬を返上した。

ノブレスオブリージュですね。
名士はこうあってこそ、尊敬が集まるのだと思います。


新町電停前の古民家レストラン「クラシク」。
同級生がおすすめしてくれましたが、またの機会に。


新町電停そばの「長崎次郎書店」、まだ開店前です。
ここの2階のカフェにもいつか行ってみたい。
今回は開店時間を待って、1階の本屋さんへ行きました。




井野春毅歯科医院開業の跡

井野春毅は明治19年3月35歳の時、塩屋町2丁目5-20菓子店棟永トキ宅に九州で初めて歯科医院を開業した。
井野は嘉永5年(1852)9月菊池郡合志町に生まれ幼少期をそこに過ごし、明治7年23歳の時熊本医学校へ入学する。同級に北里柴三郎がいて、ともにオランダ人医師マンスフェルトの教えを受けた。
明治10年の西南の役には軍医として従軍、戦後上京して警視庁警察医となるが、2年後28歳の時にその職を辞して歯科医を志し、30歳の時、東京神田に歯科医院開業。
明治17年33歳の時、日本最初の医術開業試験委員(歯科担当)となる。その後宮内省侍医拝命、日本で最初の歯科侍医となる。明治天皇は歯痛が起きると井野の手当を受けた。
熊本での開業は1年で終了し、翌年にはロシア領ウラジオストックやハバロスクで診療活動に従事し、39歳の時に帰国、東京神田で再び歯科医院開業、14年間これを継続するも53歳の時に日露戦争が勃発すると、医院を廃業、一転して天草郡で牛深炭鉱の経営に乗り出す。ここらが野心家井野春毅の面目躍如たるところ。炭鉱経営が巧くいったのかどうか記録がないが、4年後の57歳の時には炭鉱経営を切り上げ、上海で歯科医院を開業し、大正元年11月26日、61歳で死去するまでの4年間を歯科医として上海で過ごした。

こうして聞くと昔の人のダイナミックなことに感心します。今もこういう人いるのかな??




市立一新幼稚園
ここは藩の「御客屋」があったところ。「御客屋」は藩の迎賓館であり藩にとって外交上大切な客を饗応し、或いは泊めた。例えば幕府や他領の使者などである。元治元年(1864)2月坂本龍馬が横井小楠訪問の途次、ここに泊まっている。藩側の応対者は小姓頭、用人、右筆頭クラスの人たちであつた。
廃藩置県で「御客屋」が廃止されると、山田武甫等が実学党の学校「会輔堂」を開いた。明治5年明治天皇巡幸の際は、ここが行在所となる。明治7年には「会輔堂」が廃され熊本仮師範学校となるが、これは短期間で移転し、以後大正8年まで一新小学校となる。その跡に一新幼稚園が開園した。

幼稚園ではちょうど運動会やってました。


清爽園へ。
ここにはいろいろなものがあります。
高札場だったとか、細川家の庭園の庭石を持ってきてあるとか。



新1丁目御門、札の辻、清爽園
藩政期、新1丁目御門は熊本城の正門入り口である大手門であった。明治の5.6年の頃までは建物が存在したが同7.8年頃の地図には記載がないのでその頃破却されたようだ。御門の横に「高札場」と「札の辻」があった。
「高札場」とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目をひくように高く掲げておく場所のこと。ここに掲げられる札は親子札,毒薬札,切支丹札,火事札,駄賃札,火付札,抜荷制札,荷物之次第札などがあった。
「札の辻」には藩の里程元標が設置され、ここを基点に豊前・豊後・薩摩・日向への理数が測られた。その際に、1 里、2 里、3 里と進むごとに街道の両側に榎木を植えて、これを理数木とした。現在でも駅名やバス停にその名称が遺っている。
「清爽園」高札鳩と札の辻のある広場は清爽園という公園になっている。ここには明治12年に建立された弔魂碑・殉難碑がある。弔魂碑は明治初期に起きた佐賀の乱、台湾の役、神風連の乱、西南戦争で戦死した将兵の霊を弔い、殉難碑は西南戦争における県民の殉難者の霊を祭るものである。





「台湾の役」がピンときませんでしたが、台湾出兵、牡丹社事件のことですね。牡丹社事件のことはこのブログでも以前書いてます。
このときは台湾側から見たことを書きましたが、
そうか、熊本から派遣されていたのですね。


おおきな空き地がありました。
もとはYMCAがあったはず、と父が言っていました。
マンションになるのでしょうか?
ここにもとは熊本市が建てた歴史の案内板があったそうですが、工事のために撤去されてしまったようです。前に父が来た時に案内板が無くなっているので工事の人に尋ねたのだそうです。現場責任者の方は親切に問合せしてくれて、工事前に熊本市が撤去したと教えてくれたそうです。
きっと工事が完了したら元に戻るのでしょう。

電信町
明治8年3月20日、ここに熊本県で最初に電信を開始した熊本電信局が設置された。当時町々では文明の利器「電信」のうわさでもちきりで誰いうともなく、このあたりは電信町とよばれた。
明治9年の神風連の変で襲撃され死亡した鎮台司令長官種田政明の愛妾「小勝」はここから東京の親元へ「ダンナハイケナイワタシハテキズ」と電報で報せたが、その文章が電文の模範として有名になった。




西南の役激戦の跡碑
ここは西南の役のとき「段山口の戦い」といわれる激戦があったところ。明治10年2月、開戦初日にこの地の守備に当たっていた与倉知実(歩兵第13連隊長、中佐)は陣頭指揮の最中に銃弾を受けて重傷を負った。すぐに後送されて手当を受けたがその日のうちに亡くなった。折しも二の丸空堀の天幕の中では夫人が女児を出産していた。


この何でもないような民家の裏庭みたいなところに、父が、ずんずん入っていきます。
「ちょっとお父さん、こんなとこ入ってっていいの?よそ様の家の敷地…」

父についていくと、面白いものがありました。
「どんぶり池」というものだそうです。




どんぶり池
藤崎台の崖下に「どんぶり」と称する湧水池がある。真上に7本の楠の大木があり、その奥にも野鳥園の林があって、それらが水源らしく思われる。新町一帯は往古は沼沢地で井戸を掘っても水質が悪く飲用には不適であった。そのため住民はこの池の水を汲みに来るか、一荷いくらの水を買って炊飯用に当てていた。

父はこれを調べに何度かここにきてて、この民家の方とも仲良くなったそうです。この日はお留守のようでした。残念。


ただの駐車場のように見えますが、能楽堂です。


藤崎八旛宮御旅所
薬師坂を少し登ると左側に広場があり奥に能楽堂がある。ここが藤崎八旛宮の御旅所で、9月15日の御神幸は、藤崎宮からここに向かって出発し、昼間はここに休息して能を見物された後、夕随兵を整えて本社へ帰られる。能は金春流、喜多流等で新町は伝統的に能が盛んな所で演じる人たちも多い。

看板にある狩野琇鵬さんの息子さんがあちこちでお名前を拝見する狩野了一さん。能を習っている友人が喜多流なので、写真を撮って送ってあげました。友人は狩野了一さんにもお世話になっているみたい。







「勢屯~せいだまり」のところの会社のシャッターに、勢屯の絵が。
勢屯というのは「武士が集まる場所」の意味で、城郭のあちこちに広場のように作られている。新町には7か所あるそうな。





おっきな商家があります。


電車通りからも。

毒消丸の吉田松花堂
初代吉田順碩は長崎県諫早の人でシーボルトの鳴滝塾で西洋医学を学んでいたが、シーボルト事件後熊本に逃れてきて現在地で町医を開業した。この人は「医」よりも「薬」の方で大きな成功をおさめた。すなわち下痢の妙薬毒消丸である。日清、日露の両役では軍にも買い上げられて一躍財をなした。現在は旅行時などに携行する保健薬として人気が高い。





高麗門
加藤清正が花岡山方面からの敵を防ぐために造った29門の1つで朝鮮高麗門に準じて築造した。朝6時に開門し夕方6時には閉門した。藩政期のこの辺は木挽き職人が住んでいたので木挽きの町とも言われる。

「高瀬の大工棟梁善蔵の話」
慶長年間のある年のこと、加藤清正は小姓ども5.6人を従えて高麗門の建築現場へ視察に来た。工事は順調に進捗しており、足場には大勢の大工が取り付いて、きびきびと立ち働いており、清正は上機嫌で「大工どもはよく働いてをるわい」と周囲へ声をかけたりして、しばらく見物していた。その時、馬上の清正の足元へ金槌が落ちて来た。「無礼者・・」と色めき立つ小姓たちを目で制して、「それをこれへ」と小姓に命じて拾い上げさせ、それを持って足場の下まで行くと、大工の1人が足場から足だけ下げて、「これに着けろ」と言わんばかりの仕草をした。清正はだまってそのようにした。男は礼も言わず、だまって受け取ると、元の場所へもどり何事もなかったように黙々と仕事を再開
した。この男が高瀬の大工棟梁善蔵である。清正も黙って引き上げた。
今のは殿様だったらしい、と判って現場に動揺が走った。「事もあろうに、殿様に物を拾わせた上に、それを足で受け取るなど、こんな無礼は打ち首ものだ」と言うのである。
そこへ奉行所から善蔵へ呼び出し状が届いた。「明朝、辰の刻(午前10時)奉行所へ出頭せよ」というのである。善蔵は一夜悶々としたが、明け方には覚悟がきまって、起き抜けに水垢離をとって身を清め下に白いものを着込んで奉行所へ出頭した。庭先に平伏していると、清正が出て来て「善蔵か、大儀である、面を上げよ」とお声がかかった。恐る恐る顔を上げて正面を見た。そこには目を細め、口元に微笑を浮かべた清正の温顔があった。脇に置かれた三方には褒美の銀子がうづ高く盛ってある。「以後も励め」というお声がかかって、善蔵は身の幸運に感涙した。
細川忠利公の代になっても、善蔵は何かにつけて「先々代様」と口癖のように言った。「先々代様」とは清正のことである。

面白い話ですね。

新鳥町
100年以上つづいた戦国時代が終わり江戸時代に入ると、人々の生活にも趣味を愉しむ余裕ができた。その愉しみの1つに小鳥を飼う趣味があった。この通りの両側に鳥屋が軒を並べていたのでこの名がある。







この手のグルメ自動販売機、あちこちで見かけるようになってきましたね。






職人町(上中下)
江戸時代多くの職人たちが住んでいた。当時の税は間口の広さできめられていたから、どこも玄関の間口は狭いが奥行きがある。上中下にわかれたこの町は新町の中央部を南北に貫いている。職人町というくらいだから各種の職人が居住していたが、その中でも菓子職人が最も多く菓子の町とよばれた。戦前は下駄の歯菓子という黒砂糖の菓子、カリント、鬼の腕、寒菊、朝鮮飴、生姜糖を作って大正から昭和初期にかけてが最盛期で、県外からも仕入れの客が入り込んで繁盛を極めた。

父が「この道は今は狭いけど、昔は菓子の仕入のひとたちでとてもにぎわっていた」なんて話をしてくれていたとき、ちょうど家の前にで庭木の手入れをしている人たちがいました。
父は必ず話しかけていきます。
お話を聞くと、このおうちもお菓子を作っていたそうです。
「うちはあられを作っとりました」とのこと。
ここのお宅も、奥に細長く敷地が続いているようでした。

こうやって町ガイドのネタを仕入れていくのですね。お父さん。


職人町と並行して走る青桐横丁。








熊本で一番古いパン屋さん。
うちの近所の横浜の老舗「ウチキパン」も明治21年創業でした。
熊本も横浜に負けてないですね。

いくつかお買い物して、帰りの飛行機で美味しくいただきました。

明治18年とも書いてある?
どっち??


パンの松石
初代鶴次郎は柳川の人で明治21年熊本に出て小さな菓子店を開いた。明治35年長崎へ出て、パン製法を習得して帰り熊本で初めてパンと洋菓子を製造販売した。


この街歩きをするにあたって、熊本の昔の写真をネットで何枚かみましたが、ほとんどが 富重写真所 のクレジットが付いていました。
この写真やさんも現存しています。(営業されているかどうかはわかりませんでした)

富重写真館
富重利平(天保8 年(1837)~- 大正11 年(1922)は、明治時代の写真家。長崎で上野彦馬より写真術を習得し、彼と共に日本写真界の草分けとして活躍した。熊本で写真屋を開(明治3年)き、軍部の依頼で焼失前の熊本城その他を撮影。明治時代の風景、人物など貴重な記録を写真に残した。




街のお店に貼ってあった昔の新町の絵地図。
こうしてみると、熊本が城下町だというのがよくわかります。
新町は、古いものがどんどん減っていて、空き地とマンションも目立っていましたが、興味深い場所でした。

このあとは明八橋を渡って古町へいきました。。
古町篇はまた改めて書きますね。




https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1f77ga6rEfRACl3MGzGxbsx_l_cQdL3Q&usp=sharing





JAL「どこかにマイル」で熊本帰省

2022年10月10日 |   └─くまもと
10月の初めに一泊二日で熊本に弾丸帰省してきました。

JAL でマイルを貯めてるのですが、「どこかにマイル」という面白い企画があるんです。それは普段よりもぐんと少ないマイル数(往復6000マイル)で往復の飛行機に乗れるというもので、どこに行くかは JAL にお任せというもの。


JAL にお任せとはいっても候補を4つぐらいまでは絞ることができます。
JALから4つの行き先の組み合わせが提案されますが、その候補は何回か選び直せて、「この中のどこに決まっても文句ナシ」と思えてから申し込みます。

一泊二日なのであまり遠いところ(例えば沖縄とか)は避けて、大阪、熊本、宮崎、松山という組み合わせで申し込みをしました。

夫の実家は大阪ですし、私の実家は熊本。
宮崎も松山もいったことがない県庁所在地。
このところ、各県の県庁所在地の街歩きが楽しそうだなと思ってるところなので、どちらになってもいいなぁ。県庁所在地って歩いて行ける範囲にぎゅっと歴史的見どころが固まっているので、一泊二日でも結構楽しめそう。

そんなこんなでどこに決まるかな~とワクワクしながら申込み。


申し込んで2〜3日で、乗る便のお知らせが来ます。
今回は熊本に決まりました。
6月に帰省したばかりだけど。

JAL 様のお告げで旅をするのも、人任せでなかなか楽しいものですね。

マイルの特典で普通に東京熊本を往復するなら1万5000マイルかかるところですが、これでいくと6000マイルでいいので半分以下、かなりお得です。



候補が示される画面の例



旧安田楠雄邸(日本ナショナルトラスト)

2022年10月07日 | ☆旅行─東京散歩
20年来の友人に誘われて、千駄木にある旧安田楠雄邸へ出かけてきました。
友人はここに住んでいた安田さんの親戚だそうで、子どものころに来たこともあったのだそう。一般公開されてから、初めての訪問だったそうです。
素晴らしい邸宅。
大正時代の日本家屋が関東大震災、戦災もかいくぐり、奇跡的に残されていました。

東京都指定名勝 旧安田楠雄邸庭園【 東京都文京区】

旧安田楠雄邸庭園は、かつて学者、実業家、文化人が多く住み大邸宅が多く存在した屋敷町、千駄木(東京都文京区)にあります。
邸宅と庭園は、「豊島園」の創始者である実業家、藤田好三郎(ふじたよしさぶろう)によって1919~1920年に造られました。関東大震災後、旧安田財閥の創始者・安田善次郎の女婿である安田善四郎が藤田家からこのお屋敷を買い取り、安田家の所有となりました。そして1995年、当主の楠雄氏が他界した後、夫人により公益財団法人日本ナショナルトラスト(JNT)に寄贈され現在に至ります。
 


友人の高祖父は明治天皇の侍医で、曾祖父は森鴎外と一緒にドイツ留学したとか、いろいろ興味深い話をきいたことがあります。


応接室(洋間)家具は元の住居のものだそうです。
この変わった形のテーブルは上が回転するらしい。


2階の客間の書院。


昭和初期に新妻のために改築された台所。
北向きなのにガラスの入った天窓のおかげでとても明るい。
銅製の流し台はアイランド!お客も多かったのでしょうね。


網戸が付いた食器棚は双方向から取り出し可能。
硝子戸の向こうは女中さん部屋(この建物には2か所あり)。
友人の話によると、友人のお父さんも小さいとき(戦前)はきょうだいひとりひとりに「姉や」がいたのだそう。
別世界!

友人も世が世なら近づけない「おひい様」だったのかも~。



家族の茶の間についた水や。
ここで簡単なお茶は沸かせるようになってるんですね。
便利ですね~。


応接室を囲むサンルームの床はゴム製のタイル。
大正時代にこういうものがあったのですね。


四季折々の風情が楽しめる庭。
枝が曲がっている大木は柏だそう。
この家の屋号も「かしわ」だったのだとか。

このお宅は庭に防空壕もまだ残っているそうです。
石造りの立派なものだそうです。



こんな古いお宅を見るのは結構好きですが、ゆかりのある人と見るというのはまた格別でした。案内してくださるボランティアスタッフの方も親切で、大事に守っていらっしゃるのがよくわかりました。
それにしても、いかに立派な建物とはいえ、大正時代に建てられた家に平成まで創建時のまま大事に暮らしていらっしゃったとは、安田楠雄夫人のお人柄がしのばれますね。



ベトナム・フェスタ in 神奈川 2022

2022年10月03日 | ヨコハマ散歩

9月10日と11日、横浜中心地で「ベトナムフェスタ」が開かれました。
そんなに宣伝とかもなかったような気がしたのですが、行ってみたらすごい人でにぎわっていました。



きけば、神奈川県に住んでいる外国籍の人口、1位は中国ですが、2位は去年から韓国朝鮮を抜いて、ベトナムなのだそうです。
そりゃー盛り上がりますね。

食べ物のブースはどこも行列!
おいしそうだけど、熱い中並ぶのも大変ということで、ただ、雰囲気だけ味わいました。








でも面白かったのがこの「水上人形劇」
このために、象の鼻パークに特設プールが作られていましたよ。
【参考】



ベトナム 水上人形劇 ベトナムフェスタ2022


昼だけのイベントでしたが、夜はランタンがともっていてきれいでした。

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