キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

観梅@池上梅園

2010年02月28日 | ☆旅行─東京散歩
朝からの雨も少し上がってきてので、念願の池上梅園へ梅を見に行ってきました。


今日はバスで行きます。


大田区立池上梅園は池上本門寺裏にあります。


入り口。
入園料は100円です。




梅の花は雨にぬれてちょっとかわいそう。


枝垂れ梅。
コケも美しい。

メジロがさかんに飛んできていました。


茶室もあります。


結構散っててちょっと見ごろはすぎちゃったかな?


だんだん天気がよくなってきました。


これ、な~んだ?


梅の香りが春を告げていました。
おなかいっぱい吸い込むと、都会の真ん中にいるのを忘れさせてくれます。


4年前の池上梅園

レッスン46回目

2010年02月26日 | ☆中国語レッスン
やっと「実用視聴華語1」が終わりました。
10課からはじめて、25課まで終わるのに1年かかりました。
重かった~(純粋に重量がありました)。

次回からは、台湾で夏に買ってきた「実用視聴華語3」に入ります。

台湾留学経験のあるサニの話によると、この3から4はとても役に立ったとのこと。
楽しみです。
1よりも若干薄くなってるので、荷物が軽くなるかな?


レッスンはこのほかに、中文作文の質問に答えてもらいました。
作文は、文法の実力を問われると思います。
発音もむずかしいけど、こっちも難しい。

昔のサイパン

2010年02月25日 | ☆旅行─グアム・サイパン・セブ
サイパンの空港に、戦前から戦時中、そして現在にいたるサイパンの空港の歴史の展示がありました。
日本人が群がるように見ていました。
歴史に関心のある人、多いんですね。

上の写真は、日本が戦前(昭和8年ごろ)開いた空港。
実験的に使われたそうですが、当時は実用化はされなかったそうです。



クリックすると拡大します。
最初のテスト飛行をした記録。





1930年代のサイパンの地図。
鉄道が張り巡らされています。
おそらく、サトウキビを運ぶトロッコみたいなものかな?と想像中。



サイパンが陥落した後。
アメリカ軍はサイパンを拠点に、日本本土空襲を展開。
これは、空爆の成果報告の張り紙だそうです。
小さくて読めないかもしれませんが、1944年11月29日、東京地区の工場地帯を目標にした空襲だったようです。




サイパンで中国語

2010年02月23日 | ☆中国語の話題
今回の旅行には、読書用の本は1冊も持って行かず、代わりに中国語の問題集を持って行きました。
ここのところオリンピック三昧でぜんぜん勉強していなかったので、ここぞとばかり、部屋やプールサイドでガシガシと問題をこなしました。
でもこの問題集は、私にはレベルが高すぎでした・・・。

滞在中1度中国人経営のマッサージ店へ行きましたが、そこで中国語で話してみました。
河南省からきているという女の子で、ことのほか通じてびっくりしました。大陸の人にも通じる~うれしい!
なんだか自信ついちゃいました。

サイパン

2010年02月22日 | ☆旅行─グアム・サイパン・セブ
サイパン旅行へ行ってきました。
雪降る東京を抜け出し、南国の風の中へ。

暖かくて(暑くて)幸せでした。

海もとてもきれいです。
今は、隣のグアムとかなり差をつけられている感のあるサイパンですが、歴史的に日本とのかかわりも深い島。
私は、サイパンの方が思い入れあります。
数えてみたら、今回5回目でした。

女子挺身隊 のこと その5

2010年02月20日 | ☆読書
私は今、サイパンにいます。
普天間基地をグアム・サイパンへ、という運動をしている党もありますが、いまは、穏やかな南の楽園です。
ここから熊本の7/1、8/10の空襲の際の戦闘機が飛んで行ったのだそうです。
自衛隊通りの花見と同様、当時の人が聞いたらどう思われるでしょうか。



挺身隊時代の想い出

昭和19年3月22日、尚絅高女を卒業と同時に挺身隊として三菱健軍工場に行き、入所式が行われました。各学校卒業生も同時に入所し2千人以上の挺身隊がモンペ姿も凛々しく、不安と期待に緊張した面持ちで整列致しました。

広い工場に入り、所長の御挨拶や注意等があり指導の先生方のお話もありました。それから毎日、実習工場で指導員の笛の音に合わせてハンマー打ちや、ヤスリ掛けの練習が交替で行われ、工場内にはハンマーの音が響き渡りました。

戦争は日増しに厳しくなり物資不足、食糧難となりましたが私達は唯耐え忍び、陛下の御為にと頑張り続けました。
時々、干バナナ、飴、こんにゃく石鹸、等の配給がありました。その時は嬉しくて家族共々喜んだものでした。こんにゃく石鹸はその名の通り見た目にはこんにゃくその物です。全然泡も立たず、あまりよごれもおちませんでしたが無いよりはましで、母もとても喜んでいました。近所の人にも分けてあげていました。実習期間も終り、配属先は工場管理部門の管理課材料係でした。高木課長、有住係長、今井技師の下で働くことになりました。課内には係長が数名、技師、技手の方がそれぞれ数名おられました。挺身隊は第一高女、尚桐高女、市立高女、松橋高女卒業生が5~6 名と簿記学校卒業生、養成工、女子徴用で他来た人数名、合わせて40~50名居た様です。男子は鹿児島の七高生と熊本語専の学徒動員の人も来ていた様です。

朝礼は男子が7 時30 分、女子は8 時でした。交通機関も悪く朝礼に遅れる人もありました。
水前寺駅から第3 通用門の近くまで線路が敷設され、多くの通勤者はこのトロッコの様な車両に乗せられて通っていました。現在では住宅やら、色々な建物が並んでいますが、当時は渡鹿の練兵場で広い広い野原で、見渡す限り芝草と所々に背の低い松が生えていました。引込線の通勤列車は、その中をゴトゴトと走っていました。これに乗り遅れた時、トラックに乗せられたこともありました。

しばらくの間は学校の寄宿舎から通勤していましたが、食糧難になると共に郷里の田舎から通勤することになりました。家は飯野村の船野山の裏にあり、そこから木山の停留所まで歩いて40 分、木山からバスで健軍まで来て、そこから第2 通用門まで小走りに坂道を急いで職場に入る毎日でした。大抵、始業30 分前には着き、皆さんの机上を拭き、係長の机上には時々花を飾っていました。朝礼、点呼が終るとそれぞれの持場に行って仕事を始めるという生活でした。或る日、今井技師が組立工場に連れていって下さいました。重爆撃機が組立中でした。2枚羽根の小さなトンボの様な飛行機も4 、5 機いました。

当時は、何でも軍極秘でしたので、あまりあれこれ聞くことも出来ず、それが何という飛行機かもわかりませんでした。帰りがけに、二枚羽根の飛行機に乗せてもらいました。「飛んでみたい」というと、その内に一回位、乗せて(飛んで)あげるよと云われましたが、遂にその機会はありませんでした。

鋲一本打つにも魂を打ち込んでしないと飛行機が空中分解すると教えられました。
昭和20 年に入ると部品や材料がうまく揃わず、又空襲も激しくなり、生産はまゝならなくなりました。或る日、昼の休憩時間に皆で輪になってバレーボールをしていました。その時打上げたボールが機械工場の屋根にひっかかったので、学生がよじ登ってとりに行ったところスレートが割れて落下しました。
すぐタンカで運ばれましたが、気の毒に亡くなったと聞かされ涙が出ました。
7月に入り毎日の様に警報が入り大事な書類だけ持って近くの竹薮の防空壕に待避しました。高小を出たばかりの女子工員が空襲の恐しさのあまり「お母さん」と云って泣き出したので私は彼女の肩を抱き、妙り豆を食べさせて励ましてあげました。彼女等は当時14~15 才で親元を離れ、寮生活をして頑張っていましたが、やはり母親と離れていることが淋しく、つらかったのでしょう。

当時、私達の姿はモンペをはいて、防空頭巾をかぶり、非常食(大豆を炒ったもの)を入れた袋を肩から下げていました。この姿は日本国中、申し合わせた様に格一的なスタイルでした。
耳をすまし、敵機が遠ざかるのを待って職場に帰っていきました。
7 月1 日の深夜、熊本市は壊滅的な空襲を受けました。市内の空は真紅な火の海と化し、絶え間なく聞える敵機の爆音がにくらしくてなりませんでした。

私は会社が気になったので、翌日早目に出勤しました。健軍の社宅もいくつも焼けて、課内でも2~3人が焼き出されました。職場は空席が目立ち、女子では川下さんと私の二人だけで、男子が5~6人出勤して来ましたが仕事にならず、その日は帰りました。

日課長のお話しがあり、「敵機の本土空襲も日増しに本格化して来たが、森都熊本の軍需工場では、増々旺盛な戦意を以って敵撃滅のため生産に邁進し、頑張っていこう」と激励されました。工員の方の中には、家財をすべて焼かれ、肉親を失った方々も出ましたが神州不滅を
信じて頑張りました。

私も心を強く持ち直し、負けてはならじと気を引きしめました。然し部品も底をついたのか、飛行機は仲々完成せず、不安がつのって来ました。敵機の空襲がある度に、こんなに敵の為すがまゝにされ、日本の飛行機は対抗出来ず、山の中に据えてあった高射砲を一度も発射する気配もなく、私達は敵機が去るのを見届けて壕から出てくるという状態です。

8月10日、私はどうしても気が進まず、会社を休みました。お昼近くになったら御船方面から来た敵機約50機が船野山から低空に入り、太陽の光をあび健軍目がけて突込んで行きました。やがて健軍上空で大きな輪を描きながら、次々と爆弾を落し、見る間に黒煙が立ちこめま
した。船野山の裏の高いところにある私の家から健軍はよく見えていました。私はこわいもの見たさに杉垣の問からその光景をじっと見ていました。次の瞬間、職場の皆さんや同僚の安否が気になりました。会社に連絡をするにも、その頃電話は一里程離れた役場と学校に一台づつあるだけで、誰も電話のかけ方もわからない人ばかりでした。歩いて行ったり来たりで知らせ合っていた時代です。

三菱へ行っている近所の人の帰りを待って工場の状況を聞きました。その人は「もう恐しくて、腰が抜けそうで、死ぬ目に遭った」と涙を流さんばかりにして話てくれました。低空で舞下りて来て機銃掃射をしていき、アメリカのパイロットが見えたとも云っていました。が、とに角、皆無事と聞きほっと胸を撫で下しました。

この頃は、通勤バスも木炭車で火力が強くならないと動かないので、皆んな降りてバスを押し、やっとェンジンがかかったと思うと又停まるという調子で、健軍→木山→家まで歩いて通う日が多くなりました。靴も破れ、下駄で通いましたが、その下駄すらすり減って割れてしまい、素足で帰ることもありました。会社は事務所の横の空地に大きな穴があき、爆風で窓ガラスの破片が辺り一面に乱れ散り、そのすさまじさに思わず目を見張りました。幸い課内の人は無事でしたが、同級生の前田さんの職場では吹きとばされて眼鏡だけが残っていたそうです。

鍍金工場の2 千屯プレスの上には200 kg爆弾が落され大分やられました。この日の空襲で大分あちこちがやられ建物は無残な姿となり只、呆然となるばかりでした。疎開が始り、私達管理課は水前寺の盲学校(現在むつみ荘)に疎開しました。畑の中には焼夷弾の不発弾がニョキニョキと突き立っており、その間を縫うようにして走り抜けたこともありました。

8月14日出勤したら、課長から明日天皇陛下のお言葉が伝えられるので聞く様にと云われました。翌15日、皆外に並んでその時を待ちました。
日本は無条件降伏したという内容のお言葉であったそうですが、はっきり負けて降伏したというお言葉は聞けず、とてもむづかしい言葉であったが、何となく負けたのだという感じが段々判って釆ました。

課長からは「無条件降伏の詔書が奉読され、陛下は国民のことを心配されとても苦しんでのお言葉でした。残念だが今となっては詮方ない。」と話があり、長く、苦しかった戦いも終りを告げました。

8月20日に挺身隊は解除されました。 29 日にちょっと残務整理に行き、500 余円の賃金を頂きました。ハンカチ一枚もない世の中、金はあっても買う物がなく金は役立ちませんでしたので、私の給料袋は神棚にずらりと並べてありました。

健軍終点の土手の上には、焼夷弾の空や不発弾が集められ、山と積まれていました。戦争が終ったら今度は生きるために一生懸命戦はねばなりませんでした。リュックを背負った人達が、田舎へ田舎へと行き、から芋、かぼちゃ、お米など食べられるものなら何でもいいからと、大切にしていた着物などとの物々交換が続きました。夜は電気もなく菜種油で灯されました。

かつて私達が、毎朝小走りに駆けていった工場西の道路も、今は桜並木が続き花見時は歩行者天国となり、花の下には敷物を敷きつめ、唄ったり、踊ったりの大娠いです。この天国の様な昨今を見るにつけ、その昔、私達が同じこの地で歯をくいしぼって生きて来たことが何であったろうかと、フト考える昨今です。


尚絅高女 米原絹子さんの手記



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女子挺身隊 のこと

女子挺身隊 のこと その2

女子挺身隊 のこと その3

女子挺身隊 のこと その4

女子挺身隊 のこと その5


女子挺身隊 のこと その4

2010年02月19日 | ☆読書
健軍にあった寮「秋津寮」のあったところに、戦後私の祖父母は引っ越してきました。
昭和何年くらいのことでしょう?
確か父はそこから高校に通ったはずなので・・・昭和30年代初頭ですね。
こんど父に聞いてみよう。

長崎に落とされた原爆、たしか午前11時ごろだったはずですが、夕方になっても燃え続けていたんですね。
熊本からもそれが見えていたのです。



女子挺身隊の想い出

私は工機工場の事務係として配属になりました。当時の課長が田澤貞助さん、そして職員の若い伊藤さん、ご年輩の飯尾さん、名古屋から来られた女性の滝川さん、その他一般工、徴用工、本渡高女、菊池高女の挺身隊等あちこちから来ている人達がいました。とても良い雰囲気の中で仕事が出来ました。

同じ挺身隊でも現場に配属され夜勤をさせられた人、一日中立ちづくめで機械にとり組む人に申し訳けない思いがしたものです。当時工機工場には2000 人位居たのではないかと思います。

仕事の内容は勤怠係で入退場、出勤状況を憲兵隊が詰める監督官室に毎日報告に行きました。監督官室に入る時はドアのノックから一挙一動、それは巌しいものでした。現場に憲兵の姿が見えるとみんな恐れていました。
“憲兵に非ずんば人にあらず”と言った態度に見えました。それから何カ月か経って各工場の勤怠係は労務課に集約移動となりました。当時の課長が高城さんだったと患います。

やがて戦局も険しくなり私たち八代高女の挺身隊も疎開先へ散って、互に会う機会もなくなりました。疎開先は熊農、熊工専、隈府、松橋高女、宇土等、様々であったようです。

20年3月、私と同僚2人は宇土工場に参りました。宇土工場は市内の真中にあり、萩原さんという酒屋さんの蔵を改造したところでした。一階は薄暗い裸電球の下に旋盤が何台か据えつけられている程度で健軍工場に比べたら細々としたものでした。二階が事務所になっており、工場長を当時は群長さんと呼んでいたようでした。現在田尻町在住の浅井宗光さんといい仕事には厳しく、人間的にはとても優しい方でした。出勤表は何日かに一回、健軍(労務課)まで届けて居られた様です。現在、日奈久在住の白浜芳太郎さんでした。

又、20年6月頃、宮崎工専からの学徒動員で片野冨志(鹿児島市在住)、外囲巧(福岡県粕屋郡在住)、黒木康秀(宮崎県在住)各氏が来られ、事務所も賑やかになりました。
健軍工場に居る間は寮生活でしたが、宇土工場に疎開してからは家から通勤となり嬉しくて嬉しくて仕方ありませんでした。
然し、当時は車も、バスも通っておらず、母は雨の日も、風の日も毎朝5時から人家のない球磨川べりの山道を4k程歩いて八代駅まで私を送り、そして又歩いて帰っておりました。その母も一昨年85 才で亡くなりましたが、あの頃の母の姿が私の瞼から離れることはありません。


§ 空襲

工機工場にいた頃、昼間に空襲警報が発令され、全工場従業員が一勢に正門に押しかけ、人の波、波…で遠くに爆音が聞えるのに一歩も前進せず、健軍神杜の森や、麦畑の深い土手下の防空壕まで辿り着くのに大混雑したことがありました。あの時、機銃掃射でもうけたらひとたまりもなかったでしょう。

20年3月、前日に降った雪がコチコチに凍りついて冷気が肌をさす冷たい夜に空襲警報が発令され、秋津寮から六嘉村の竹薮の防空壕まで走りました。
私達の頭上から低空飛行で工場を集中攻撃しました。本当に恐ろしかったことを思い出します。その時、工機工場の隣にありました機械工場が被害を受け、従業員がなくなられたと聞きました。健軍は阿蘇から吹き下す風が冷く、寮には暖房の設備もなく、両手の霜やけがくずれ、その傷あとが今も右手に深く残り、手を見る度に、寒くて、辛かった健軍の寮生活を思い出します。

川尻駅が機銃掃射を受けた頃、私は宇土工場の二階におりました。爆音が遠く南の方に聞こえるので、東海電極、田浦工場に学徒動員として行っている弟のことを案じて窓から眺めていると、その瞬間、私達の上にグラマンが…・パチパチ、バリバリ、ヒュンヒュン‥それはもう何と表現したらよいのか生きた心地がしませんでした。階下の人は防空壕へ飛び込み、下に降りて来いと叫ぶのですが、全くその余裕すらありませんでした。5 ~ 6 人が、それぞれの机の下に耳を押え、伏せておりました。耳をつんざく様な炸裂音、屋根が吹きとぶような爆風、窓を明けていたので機内から私達の姿が見えたのか、超低空飛行で、何回も、何回も集中的にやって来ました。一寸静かになったので頭を上げてみたら近くの日本合成宇土工場を攻撃していました。やれやれと思っていた矢先、再び私達の工場を襲撃し始めました。この間、どの位の時間だったでしょうか。まさに生地獄、表現の仕様のない恐ろしい体験でした。

敵機が去って我に返ると、下の防空壕には何発かの弾が当っておりましたが、幸い人には被害はありませんでした。隣の民家の人が何人か亡くなられたと聞きました。宇土駅もその時焼失したのではなかったかと思います。

8 月9 日、艦載機も頻繁に来襲し、汽車も延着の連続、夕方になってやっと来た貨物列車に沢山の人が乗っておりました。その貨車は屋根も無ければ、手すりもない原木を運ぶ貨車で、押せば振り落される様な貨車に宇土駅から乗り風に吹かれながら、西の空を眺めていると、彼方に夕焼けの様なオレンジ色の輝きが目に入りました。それが長崎の原子爆弾でした。

終戦の日、朝から何故か艦載機のことも気にならない-いっもと違った静かな日でした。宇土工場階下の旋盤の間に全員が整列して玉音放送を拝聴しました。ガアガアと雑音が入って十分聞きとれませんでしたが、その主旨は解りました。その時、私の頭にまっ先に浮んだのは戦死した兄でした。大学を卒業したばかりで長髪をおとし丸坊主になって出征していった兄、勝つことのみを信じて26 才の生涯を国に捧げた兄、その死が犬死ではなかったかと涙が溢れた日を今も忘れることはありません。


八代高女 宇野美代子さんの手記



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女子挺身隊 のこと

女子挺身隊 のこと その2

女子挺身隊 のこと その3

女子挺身隊 のこと その4

女子挺身隊 のこと その5

2月18日(木)のつぶやき

2010年02月19日 | ★シゴトの話
01:21 from web (Re: @AmeiProject
@AmeiProject うわ、ついたー初心者で変身があるのに気がつかなかったデス。もちろん、見に行きますよ~。cからブのCさん経由です。
01:22 from web (Re: @_pineco_copine_
@_pineco_copine_ いまごろ気がつきました。たぶん、ヒステリー球のようなものだと思います。ここ1週間くらいはなんともないです。明日からサイパンで遊んでストレス解消してきます。でも安定剤は持参なのだ~。
01:24 from web (Re: @_pineco_copine_
@_pineco_copine_ どうせ買うならたくさんある中から選びたいと思ったのだけど、疲れちゃいました。人ごみにもなってなかったよ。とほほ。来年は早めに準備するぞ!と。
01:25 from web (Re: @AmeiProject
@AmeiProject まったくそのとおりでした。本気の人じゃなきゃ変えないような値段のものばかり・・・でも見るのは楽しかったです。ゲージツチョコ@_@
01:29 from web
あと4時間ちょっとで出かけます。早く寝なきゃ!あ、サイパン行ってきます。
07:58 from movatwitter
成田空港です。雪だけどなんとか車で来れました。ほっ。
by yoko1012 on Twitter

女子挺身隊 のこと その3

2010年02月18日 | ☆読書
三菱重工の健軍飛行機工場ができたのは、昭和19年になってからでした。
この方は、あの「引込み線」を使って通勤していたそうです。
川尻駅の体験は、本当に恐ろしいです。




女子挺身隊の思い出

一億一心、総突撃、世はまさに国を挙げて戦時一色の昭和19年3月、私達は八代高女を卒業しました。人手不足は私達の卒業を待っていたかのように卒業と同時に八代宮で戦勝祈願式がありました。

三菱熊本航空機、三菱長崎造船、山陽航空、三柴、国鉄、興人…・等の挺身隊として、或は代用教員として働く職場は違っても、ただお国のためにと東へ西へとそれぞれ巣立って行きました。私達三菱挺身隊は24 名、勇躍志願したものの卒業から4 ケ月間家庭待機させられました。今日か明日かと待っているうち、7 月22 日、やっと入所となりました。

家を離れるのが初めてで、希望と不安が交錯したものでした。工場はまだ建設工事進捗中のようで、家庭待機もそのせいであったのでしょう。

入所後3ケ月は訓練期間で秋津寮生活。健軍神杜の拝殿で訓話を聞いたり、座禅をしたりの日々でした。行動を共にした24 名も、やがて工機工場を主に、事務、金型、製図、倉庫等に配属されました。


§ 寮の出来ごと

入所数日にして思いもよらぬ悲しい出来ごとがありました。入寮前から羅病していたと思われる同僚が高熱におかされ、下痢が続いたのです。親もとを離れて、苦痛を訴える友の不欄さ、私達は交替で必死になって介抱しました。頭を冷やしたり、夜中にトイレまで背負って何回通ったことか、後日赤痢と診断されびっくりしたものでした。とうとうその友は若い命を終えてしまいました。私達は黒髪の火葬場まで霊柩車と同伴し、突然の死が悲しく泣けて泣けて仕方がなかったことが、今もまざまざと蘇がえります。当時の食糧事情からしても、私達の体力も十分とはいえなかったと思いますが、誰にも感染しなかったことが不忠議に思えてなりませんでした。


§ 寮の食事

忘れられないものの一つは寮の食事のことです。厨房でつくられた食事は馬車で寮まで運搬されていました。或る日厨房を覗いたことがありましたが、その釜の大きいこと、御飯を大釜からスコップで容器に移し換えていたのには驚きました。御飯はひじき入りの黒飯、更にこの中に大豆や切り干大根等が入っており米粒はどこに入っているのか解からない程でした。肉類といえば何の内臓なのか、繊毛のような、ビラビラのついた腸のようでもあり、犬肉ではないかと囁いたものでした。決して美味しいものではありませんでしたが、後では空腹も深刻で一匙でも多く食べたい思いが始終つきまとっていました。

会社から寮に帰って、何とか空腹を満たそうと健軍神杜の近くへ、或は木山方面まで買い出しに出かけた人もありました。茄がいた唐芋が主だったようです。夜、空襲警報が発令されると六嘉村の竹薮まで何回か走りました。寒くて冷たい夜、流れ星を見て遠く離れた家の事を
思い出して涙したこともありました。


§ 外出

入寮してケ月は家への帰省は許可されませんでした。しかしホームシックと空腹感は私達をますます無断帰宅へと拍車をかけました。一刻も早く家に帰りたい一念で、日曜の早朝、まだ星が輝いていました。

工事中のトイレ用に掘った穴から壁を抜けられることを知り、その穴にとび降り、そこから這い上って寮の外に出ました。まだ明けやらぬ道を走る様に急いだことを覚えています。八代行きの汽車に乗るために駅まで歩きました。その駅が水前寺駅だったか記憶がありません。又、2時頃に寮を出たという友は熊本駅まで歩いたようです。その人達は八代から更に乗換えなければならないので一足先に出たのでしょう。そして彼女らが肥薩線の段駅に着いたのが6 時頃であったと聞きました。家に帰りたい一途な気持が道の暗さ、恐ろしさも全て気にせず突拍子の行動をとらせたのでしょう。

わずか数時間の在宅で14 時頃寮に帰る準備をしていた友は丁度兄さんの戦死公報に接し、その日に帰れず、翌日寮に帰ったので無断外泊がばれて新谷寮長と吉村寮母に随分叱られたとも話していました。


§ 寮での面会

我が家から母や、姉妹が面会に来てくれました。尋ね、尋ねて馬車の轍の深い秋津のガタゴト道を木炭自動車のバスに乗って来てくれました。バスは何回も薪を注いだそうです。とうとう乗客が降りて後押しする場面もあったとか。手作りの布団や饅頭などが届いた時は、ただ嬉しくて何の話をしたのか全然覚えていません。面会に来るのもどんなに大変だったか、今改めて当時の話を聞くにつけ感激しているのです。お互い顔を会わすなり、私が家に居た時より、げっそり痩せて頬がこけており驚いた、と姉が言っておりました。


§ 工場の空襲

私は第2 倉庫でした。空襲の時、健軍神杜の方へ退避したり、すぐ前の深い土手下等に逃げており余り恐ろしいとは思いませんでした。
その土手の上を白いマフラーを巻いた航空隊の人達が通り過ぎて行ったのが今でも鮮やかに思い出されます。いずれ死に赴く特攻隊の人であろうといつまでも見送ったものでした。


§ 家から通勤、工場疎開

訓練期間が終り、大分勝手がわかって来た頃から寮を出て自宅から通勤する人も出てきました。私もその一人です。朝4 時頃母に起こしてもらい、4 時半頃に家を出て5 時の汽車に乗りました。私は駅の近くでしたので楽な方でしたが駅から遠い人は随分早く家を出られたよう
です。

列車は三菱の通勤専用列車の感があり、顔見知りの徴用のおじさんや、学徒動員の生徒さん等で八代駅でもう満員になりました。熊本駅に着くと別のプラットホームに待っている水前寺行きに乗換えるため、往きも帰りも走って乗り継ぎました。汽車を降りるおじさん達について私も、まだ完全に止っていないうちにとび降りて転び、立ち上れない程腰を打ちつけたのが今でも痛みます。水前寺駅から工場へ引込線がありました。木組のようなプラットホームがあって沢山の人達が降り、工場の門に吸い込まれて行きました。引込線の車輌は貨車でした。星を仰いで我が家を出て工場に着いたものの仕事は毎日倉庫の掃除ばかりでした。

20年4月頃、私達は江津湖に近い農業学校に疎開しました。どの様な道順で農業学校まで通ったのか全て記憶がありません。疎開先での仕事もトイレの掃除しか覚えていません。通勤途上で空襲警報がかゝり友達と二人で歩いていましたが逃げ場がなく、河原町辺りだったでし
ょうか、大きな酒屋か醤油屋の広い土間に私達二人が十分に入れるような大きな鍋があり、それを被って警報の解除を恐る恐る待ちました。


§ グラマン川尻駅機銃掃射

川尻駅での機銃掃射は本当に恐ろしかった。いっものように5時発の通勤列車に乗り、列車が川尻駅に着いた時です。突然グラマン4機が私達の列車を銃撃してきました。どうして汽車から降りたのか、我に返った時は待合室の椅子の下に這いっくぼっていました。

その時、頭の右上部がピカッと光り、機銃の弾が落ちて来ましたが、幸い怪我もなく、友達と二人で銃声の止んだ間に駅を離れようと、駅前広場の大木の下に移動しました。そこから汽車をみると機関車が白い蒸気を噴いていました。
グラマンは再びやって来ました。

逃げた場所の近くにある工場を狙っているとのことで、弾の音はバラバラと無気味に響き頭上のトタン屋根を叩いている様に感じました。やがて音が止み私達も国道に向けて歩きましたが、立ち止ると膝がガクガク震えるのです。

もう会社に行く元気もなく、家へ帰る為に再び汽車に乗る気も起らず、国道を通る車に乗せて貰おうと手を上げましたが駄目でした。そのうち、あちこちに逃げていた友達がどこからともなく集り、お互に無事を確かめあって喜びを分ちました。

その時、がらがらの下り八代行が到着したのでそれに乗って八代へ帰りました。この時、同僚の一人が膝に貫通銃創を受けたことを後日知りました。

家に帰り着くまで顔は蒼ざめていたらしく家族を驚かせました。以来会社へも行かなかったように思います。長崎の原爆の時も、終戦の詔勅も家の防空壕で迎えました。




健軍の工場へ通っていた時、先の引込線に乗らなかった時は水前寺から健軍神社前の八丁馬場を通り、神社の右側を廻って工場に達するコースもよく走りました。その時、八丁馬場の北側の薮影にグリーンの屋根の西洋館が見えました。このモダンな西洋館は何だろうと考えな
がら走ったものでしたが、後に私はそこに勤務することになり深い縁に驚いています。それは児童福祉施設「慈愛園」です。そして厚生年金のお世話になる時が来て、加入期間をコンピュータで出してもらいましたら資格取得日は三菱勤務の日になっていました。本当に驚きました。

あの終戦のゴタゴタの時に、大勢の従業員にも拘らずきちんと残務整理が為されていたこと、さすが三菱だと改めて感心致しました。


八代高女 頼藤和代さんの手記



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2月17日(水)のつぶやき

2010年02月18日 | ★シゴトの話
11:48 from web
昨日壊れた会社のエアコン。大家さんがすぐに手配してくれて、今朝新品に交換となりました。感謝!
11:50 from web
ベトナムのバイクはやはりカブでしょうか?ウーバイさんも大泉君と同じ洗礼を受けてると思ったら愉快だ!
11:52 from web
いや、ウーバイさんは大泉君のように現地でバイクに乗ってはいないでしょうね。
by yoko1012 on Twitter

女子挺身隊 のこと その2

2010年02月17日 | ☆読書
もうひとつ載せます。
ここに出てくる「熊工専」は今の熊大工学部のことですね。


私が挺身隊として、熊本航空機製作所に入所したのは戦局もいよいよ厳しく緊迫してきた、19 年の10 月だった。3 月の卒業と同時に行く筈が延び延びになっていた。その頃の私は、7 月末に母を亡くしたばかりで何をする気力もなく悲しみのどん底にあった。女子挺身隊出動の通知を手にして「泣いている時ではない。国の大事に立ち上がらねば」と16 才の私としては随分と悲壮な決意をしたことを思い出す。

工場に初めて行った日は殊の他暑い日だったように思う。私達の仕事場は技術部の作業課だったと記憶している。作業課というからどんな作業をするのだろうかと話し合っていたら伝票やカードの整理など事務的なことや図面のトレス等であった。産業戦士という名称から予想し覚悟していた過酷な労働ではなく、これで国の大事に役立っているのだろうかと思った。同じ課には私達の他に第一高女や尚桐高女の方達もはいっており賑やかであった。学校生活の続きのような毎日であった。一度だけ工場の方へ使いに行った時見た汗と油にまみれて働いておられる人達の姿と、モーターのうなる音にひどく胸をうたれたのを思い出す。

社員の方で菊池から来ておられた三宅さん、熊本市内からの高島さん、松岡さんが私達に仕事を教えたり、世話をしたりして下さった。三宅さんは召集令状が来て私達五、六人で菊池までお見送りに行った。無事戻って来れたであろうか。松岡さんは現在熊本市内で画材店をなさっている。時々逢って昔話をする。名古屋から来ておられた坂口さんはおとなしい方だったが名古屋弁が珍らしく笑ったり、まねたりして坂口さんを困らせたことを、今深く反省している。

その頃、毎日の様に空襲があった。サイレンが鳴り避難命令が放送されると皆が一斉に避難するので足音がすごく大きく聞こえ、いっも私だけおいていかれる様な恐さを感じた。突然敵機襲来ということもあった。或る日資材を積んだ一台の馬車が工場内を通っていた。突然馬が何かに驚いて走り出した。それが引き金になり人、人、人が次々に走り出しB- 29 の来襲だとの誤報がまたたく間に工場内全体に伝わり皆が走り出し避難するという椿事が起こった。後でさんざん叱られるというおまけつきであった。

寮は学校別に部屋割があって私達は1 棟であったと思う。一部屋には6 人づつ入っていた。隣の2 棟には山鹿高女の方達であった様な気がする。私達は戦時中のこととて修学旅行にも行けなかったし、同級生ばかりなので一緒に寝泊りするのが珍らしく、仲良く生活した。寮の規律は厳しく寮長先生は特に恐かった。夜の点呼などで誰かが欠けると代弁をしたりしてうまく難を逃れた。夜は消灯までの時間、家から持って来た妙豆など山の様に積み上げ、ポリポリ食べながらおしゃべりに夢中になった。騒ぎ過ぎてよく叱られた。食事は当時の一般家庭の食生活からすると良かった方ではないだろうか。それでも甘い物のきらいな私はさつま芋御飯は苦手だった。芋を取り出すとご飯はほんの少ししか残らなかった。今は懐しくさつま芋をよく食べている。

空襲のために、夜はモンペをはいて、いっでもとび出せる服装で床に就いていた。枕元には救急袋と頭巾を置いて寝た。或る夜、空襲警報に起こされ素早く身仕度し、暗い道を走り(今は当時の面影もない賑やかな住宅街になっている)秋津の竹林の中の防空壕に避難した。夜明けまで警報が解除にならないので朝御飯は竹林の中でいただくことになった。支給された朝食は久しく見ることのなかった、まっ白いおにぎりにたくあんであった。朝露に光る竹の葉の緑と、まっ白いおにぎり、たくあんの鮮やかな黄色にひどく感動した。

味は勿論涙が出る程おいしかった。今思い出しても、あの朝の感動はいじらしく、切ないものがある。また冷汗の出る様な思い出もある。学校時代から仲良しの友達が「夜勤をすると次の日に休みがとれて家に帰れる」という話を聞いてきた。その友達とふたりで「夜勤をしてみよう。そうしたら家に帰れる」と話しあい、上司に申し出た。するとあっさり許されて夜勤をすることになった。寒い日だった。夕方になると広い部屋に私達二人と係長さんだけになった。暗くなるにつれて私たちは心細くなって来た。夜食の時間になり係長さんに連れられて食堂に行くと昼間と違って広く暗い工場は不気味だった。食堂に入ると女性は私達だけであとは男性ばかりであり、急に恐しくなった。夜食はいつもの食事よりご馳走の様だったが恐ろしさでのどを通らなかった。部屋へ帰って夜空の星を眺めて二人でしくしく泣いていたら係長さんが「もういい、仕事をしなくていいよ。私の横で寝ていなさい」と毛布を貸して下さった。二人で毛布をかぶって、この非常時に何ということをしたのだ、情けないね。と自責の念にかられながらも恐しく何もできず動けなかった。後日休みをとって家に帰ったかどうかは、全く記憶がないがその夜の恐しさと、情けなさだけは強く記憶に残っている。

昭和20年、戦争もますます激しく、緊迫し夜となく、昼となく敵機襲来で工場もあちこちに被害を受け、分散疎開することになり私達作業課は熊工専に移った。大きい資材、荷物は馬車等で運んだが小さい荷物は私達が黒髪町の工専まで歩いて運んだ。途中健軍まで来た時、警報も無いまゝ突然数え切れない程の敵機が飛んで来て機銃掃射をあびせて来た。私達は避難する間もなく松の下の根元にひれ伏した。一瞬これで死ぬのかなと父や兄弟姉妹の顔が脳裏をかすめた。暑い暑い一日であった。

疎開して間もなく入隊したばかりの兄が面会に来てくれた。友達に訳を言って煎り豆を手のひらいっぱい分けて貰った。学校の芝生に座りひとときの平和を感じた。父のこと、亡き母のこと等を話した様に思う。豆を一粒、一粒口にはうり込む様にして食べた兄。笑う口元や目元が横綱の千代の富士に似ているのを最近発見し以来、千代の富士の大ファンとなった。

その最愛の兄も戦争故に今は亡い。この日の兄が私の心に残る最後の兄の姿であった。熊工専へ疎開をしてから私達の宿舎は市内草葉町の旅館に移った。今はとても歩けない距離であるが、当時は毎日歩いて通った、夜空襲があると第一高女の運動場の防空壕へ避難した。

7月1 日の大空襲の夜も忘れられない。降る様に焼夷弾が落とされた。上通り町一帯から市役所付近一帯が火の海となって私達にも消火に当るよう指令がくる。女や年寄りばかりであった。バケツリレーで市役所の消火に当った。気がつくと上へ上へとおしやられ私は一番先頭に立っており危うく煙にまかれそうになった。「危ない逃げろ」と叫ぶ声にふと我に返り急ぎ階段をかけ降りた。

終戦の日、異様に静かな朝であったのを思い出す。皆泣いた、茫然自失、誰もが言葉を失ったかの様にへたりこんでしまった。空はうその様に青く澄み、晴れていた。挺身隊時代をふり返るといっもお腹をすかし、食べ物の話をすることで満腹していた時代、着るものも無く、何度も死の恐怖におびえた、暗い恐しい出来ごとばかりだった筈のあの時代、国の大事に胸を熱くし血を燃やし、不満も言わず友と心を一つにした日々はやはり悔いはない。16 才の青春だったと私は思うのである。


甲佐高女 松永真由子さんの手記



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2月14日(日)のつぶやき

2010年02月15日 | ★シゴトの話
01:37 from web
バンクーバー五輪の開会式をチャンネルはしごしていろいろ見た。ボブスレーの土井川クンを応援してます。開会式ではテレビに何回も映って、嗚呼~オリンピックの現地にいるのねと、感激!!がんばってっ!
01:47 from web
土井川選手のブログ http://bobdoigawa.de-blog.jp/1025/
応援中~★
16:17 from movatwitter
デパートにチョコレート買いに来た。売り切れ続出でちょっとビックリw(°O°)w
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