キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

畑から見つかる泥面子

2018年05月17日 | ☆記憶

(写真はグーグル画像検索画面)


10歳の頃山の村から町に引っ越した。
まだ畑がたくさん残る新興住宅地だった。
クラスメイトに連れられて畑で遊んでいた時のこと、「ここではときどき不思議なものが見つかる」と言って、土の中から人の顔をした固い土の塊のようなものを拾って見せてくれた。
まだあるかも知れない。夢中になって探した。
ときどきそれらしいものが見つかる。
「これ顔に見える‥かな?」
「うん、そうだよ。それだよ」
それは指の先位の大きさのものでいびつな形をしていた。
土が長い時間をかけて固まってこんな形に偶然なるんだろうか?
それとも何かの呪いかな?
こどもだった私には、とてつもない神秘に思えた。


昨日ひょんなことからそれが「泥面子~どろめんこ」と呼ばれるものだと分かった。
人間が作ったカワラケだった。

江戸時代から明治のころまで日本中で流行った子供の玩具だったそうだ。
メンコか。
熊本ではそれを豊作を祈るまじないとして畑にまいたという歴史があったらしい。
だから畑から見つかったのか!
呪いでも何でもなかった。
人間が作ったものだったのだ。

「泥面子」のことは先月行った栃木県の博物館で知った。
江戸時代の流通の説明展示の中に「江戸の泥面子が栃木で見つかることがある。それは江戸の下肥が買い取られここまで運ばれてきたことをさす」とあった。
江戸では虫封じか何かのまじないとして泥面子を便所にすてる風習があったらしいのだ。
江戸で作られた泥面子が、栃木で見つかることで、下肥流通の経済圏の広がりが確認できるということだった。利根川などの水運のおかげだろう。

下肥にまじってるとすれば畑で見つかるのも不思議ではないけど、熊本のは量が多すぎるように思うので、やっぱりじかに畑にまいたのではないのかな?
山の村に住んでいた時に、それを聞いたことがなかったのは、単に情報不足か?それとも泥面子は町場に広まっていたからなのかな?
それにしても、子どもの頃の神秘体験(と思っていた)がしっかり歴史につながった。

何か情報をお持ちの方、教えてください。

湾生お話会で聞いた昔の台湾 途中

2018年02月02日 | ☆記憶
台北の青田七六で見た神棚のことを湾生の方に質問しました。
戦時中、各家庭に神棚を祀るようにと総督府からのお達しがあって、キリスト教徒の家にも神棚が祀られたという件。
たしかにそういうことがあり、台湾人の管理する廟にまで及んだということでした。
そして、当時の台南市長はそのお達しを断固拒否して廟内に神道の神を祀らせなかった、と言う話もききました。その台南市長さんは、後年台湾の方により顕彰され、群馬県の珊瑚寺という寺に胸像が建てられたとか。
この方のこと全然知らなかったのですが、羽鳥又男という方だそうです。

台北の「南機場」についても質問してみました。
陳昇の新譜のタイトルになって、にわかに興味の湧いているエリア。
住んでたエリアが離れていることもあってか、あまり記憶にないとおっしゃってました。その話からなぜか「指南宮」の練兵場の話になり、それも興味深かった。あの山の上まで歩いて行って訓練するんだって。 


小5の宜蘭1泊旅行で蘇澳冷泉へも行ったそうです。
担任の先生が「お前たちここの水は天然のサイダーだぞ!みんな水筒に詰めてお土産に持って帰れ」と言うので、子どもらはめいめい持ってきた水筒に詰めたのだけど…。当時の水筒のふたは今のようにしっかり閉まるタイプでないので、帰りの汽車の中でふたがポンポン破裂、皆びしょびしょになったそうです。あとで聞いたら、先生は毎年同じことを言って、子どもたちをからかっていたらしい。「伝統行事」って言ってました^^。隣で聴いていた女性は「私たちの時はそんなことなかったわ」。男女差があったのかもしれませんね。

男女差と言えば、小学校でも男女別々のクラスだったそうです。
当時のクラスは1学年に60人、それが5~6クラス。男女別クラスの外、1学年に1クラス混合クラスがあったとか。講堂に全校生徒が入りきらないので、何かの式典の時には2部に分かれてやったのだそうですよ。  


台湾神社(今の円山大飯店)の祭礼は10月28日。
町内を「樽神輿」を担いで練り歩く。子供みこしを担ぐ子は学校を休んでも良かったらしい。町内の商店会のおじさんたちとこどもたちで御神輿を担ぐ。神社までは遠いので町内だけで済ませてたとか。行く先々でお菓子がもらえたそうな。


お正月のお餅の形のはなし。
台湾には西日本出身者が多く餅は丸餅だったそうです。お雑煮も関西風だったのだそうです。


台北に住む日本人の中でも台湾語の単語は使われてたみたい。
「とあちゃー」=人力車。
「ぱんさい」=牛馬糞

人力車のことは祖父の中国時代の話に「ヤンチョー(洋車)」とかって書いてあった記憶有り。
車引きは現地の人が多かったので、日本人も現地語で呼んだのかな? 


学徒出陣の話。

師範学校に通っていて兵役が免除されていたが「学徒出陣令」がでて軍隊に入ることになった。3か月の訓練を終え外泊が認められ帰省した。その時お母さんが「死んで靖国神社に祀られるって言ったって遠すぎる。お前は突撃命令が出ても一番最後から出ろ。死ぬな」と言ったそうだ。でも、いざ出征となり駅で見送られる際には、お母様が「誰よりも頑張りお国のためにしっかり働いてこい」と大きな声で言ったのだとか。本音は大きな声で言えない時代。まえまえから身内が靖国に祀られて喜ぶ家族はいるのだろうかと思っていたけど体験者から聞くお話は重たい。
その方に、上田にある「無言館」と言う美術館のことを教えていただいた。学徒出陣で戦場に散った美大生の作品が集めてあるのだそうです。『美術学校の生徒たちは、兵隊に行く直前まで、もうすこし、もうすこしって言って作品を完成させて、それから出て行ったんだそうですよ」と。  


湾生の方が「台湾そば」って言ってたんだけど、今で言う何を指すのかな??
米の麺だろうか??米台目びーたいば、みたいな? 
麵線と言う説もあり。



会でいただいた戦前の台北住宅地図がすごい!
13年ほどの歳月を費やして、記憶を頼りに作り上げたんだそうです。

それを見てて、今の林森公園の東側に川が流れてて「こんなところに川あったっけ?」と思いました。
今の地図と見比べると、新生北路ですね。
あそこ妙に高低差があって不思議だと思ってた。川だったんだ。
今は暗渠でしょうか?それとも埋め立てられた?


湾生の皆さんのお話会

2018年01月31日 | ☆記憶
先日、友人に誘われて、「台北建成尋常小学校同窓会~建成会」の皆さんによる「お話会」に参加してきました。
建成会は、戦前、台北にあった建成尋常小学校に通っていた皆さんの同窓会で、なんと今なお活発な活動をされています。2015年に講演を聴いた群馬の岡部さんが生前ずっと同窓会会長を務めていらっしゃいました。
幹事会を毎月のように開き、年に一度同窓会を開き、会報を発行し、3年に一度台湾の母校を訪ねる里帰り同窓会も開いていらっしゃるのです。一昨年は、台北に残る母校(現在は建成国中と言って中学校になっています)の体育館で、現地台湾の若い世代の人たちと交流をするイベントも盛大に開かれたようです。新聞の記事にもなっていました。台湾側の記事(日本語)

すごい。

同窓生の皆さんは、一番若い世代でも80歳に近いのですよ!


今回は、幹事会のあとに、若い人を入れてお話会及び懇親会を開くので興味があったらいらっしゃいとのことで、どんな話が聞けるのだろうかとワクワクして出かけてきました。開場は市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷(私学会館)です。




湾生の方10名弱、聞き手10名強と言う参加者です。
当時の写真などをスライドで見ながら、日本時代の台湾の生活、引き揚げの話、引き揚げてきてからの話などを伺いました。
ときどき聞き手から質問も飛びます。



湾生の皆さんの記憶力のすごさには驚いてしまいます。
70~80年前のことを昨日のことのように話してくれます。



聞き手側も多彩でした。
わたしは初参加でしたが、皆さんもう過去にも参加されてたようでした。
・日本時代の台湾を扱ったアニメを作りたいという方
・現代アートをやってる芸術家の方
・大学で台湾に残る日本時代の町並みなどを研究している学者の方、
・日本の大学に留学している台湾の若者たち
・台湾で仕事をしていた新聞記者の方
・ただの台湾好き(うちの夫とワタシ)
などなど。



懇親会は会場をカフェに移してケーキセットなど頂きながら、おしゃべり。
わたしは、現会長さん(御年90歳)の隣に座って、1時間以上独占インタビューを試みました。興味深いお話がたくさん聞けました。整理して後日別記事にしてみようと思います。


建成会の活動は、「昔を懐かしむ同窓会」という面にとどまらず、台湾や日本の若い世代に伝えたい、残したい、と言う思いも持って活動されていると感じます。年に何度も開かれる幹事会の際には「ランチ会」と称して、若い世代が話を聞ける交流の機会も提供されているそうです。私も次はランチ会に参加してみたいと思います。

建成会の活動はこちらで紹介されています。
建成会FBページ

生まれた家の間取り 続報

2017年11月15日 | ☆記憶


またまた情報が寄せられました。
なるほど、こんなふうになっていましたか。台所と三畳の間が戸棚を介してつながっている作りなど、当時としたら相当頑張って作ったんじゃないでしょうか??

勝手口の外に風呂用薪を入れるための物置があったというのも知りませんでした。私の記憶ではもう薪はなかったと思います。お風呂は電熱器で沸かしてました。物置には何が入ってたんでしょうね??
それと、池もなかったです。埋めてしまったのかな??

先日の「熊本の民家」と違い、この家はもう取り壊されて存在しないので、記憶をたぐっていくしかないですね。


勝手口の側の写真を発掘。
写っている子供は私の弟です。
この家が我が家かは不明。同じような家がずらりと並んでいます。
間取り図にある通り、台所は張り出しています。
そして礎石が丸いごろっとした石ですね。


熊本の民家 続報

2017年11月11日 | ☆記憶
前々回の記事、「熊本の民家」に情報が寄せられました。私の記憶もずいぶんあやふやだったようです。

大正15年築で、もとは玄関からずっと土間がつながっていたそうです。
そして「唐臼」が置いてあったとか。

唐臼って、先日テレビを見ていて(鶴瓶の家族に乾杯)、佐賀の武雄の窯元で使っているのを見ましたが、ああいうのが普通の家にもあったんですね。

ほかにも鶏小屋やウサギ小屋があったらしいです。
もちろん、ペットではなくて、食べるための・・・。ウサギは山に罠を仕掛けてとっていたらしい。


防空壕の位置まで書かれています。防空壕はわたしの祖父とまだ10歳くらいの伯父とで掘ったそうな。いやいや、近所の人とか親戚とか手伝ったのでは??

建築当初のかたちは本当に伝統的な日本家屋のスタイルですね。田の字じゃないけど。土間と茶の間の関係など特に。

情報提供に感謝します!

生まれた家

2017年11月10日 | ☆記憶


昭和30年くらいに建てられた、木造平屋建て。3Kの間取りでしたが、幼かったし、結構広く感じていました。庭も広かった。父の仕事関係の宿舎だったので、同じ間取りの家が10数軒並んでいました。外壁は黒い板でした。昭和だ。

細かなところまでは覚えていないのですが、お風呂は電熱線で沸かしていたけど、薪でわかせるようにもなっていたような気がします。トイレは3分割(大便器、小便器、手洗い)で汲み取りでした。3畳間は2方向に腰高の窓があって、夏にその窓を開け放って、さんの所に座って遊んだ記憶があります。まだアルミサッシではなくて、木製の窓を取りはずして洗ったりしたのかも。その時の記憶かな?

熊本の民家

2017年11月08日 | ☆記憶
横浜鶴見の名主の家を見てきて、母の実家を思い出して間取り図を描いてみました。
記憶がかなりあいまい。だいたい長方形に収まるはずなのに凸凹してるし。
各部屋の呼び方もうろ覚え。(なんどと呼ばれる部屋があったような‥?)

ここに載せてみるので、情報求む!

昭和40~50年代、祖母の存命だったころの間取りです。五右衛門風呂、台所は土間、トイレは汲み取りでした。その後、トイレ、浴室、台所は改築され土間も無くなりました。
昭和の初めころに建てられた建物?農家ではなくてサラリーマンの家なので、土間は台所スペースのみで作業場みたいなものはありません。同じ村に点在している親戚の家も似たような作りだったと記憶。一軒だけ、農家に嫁いだ伯母の家は納屋などもある農家のつくりだった記憶があるけど・・・間取りまでは覚えてないなぁ。



情報が寄せられたら、また整理してアップしようと思います。

台東県政府文化処図書館でファミリーヒストリー

2017年10月28日 | ☆記憶


雨に降りこめられ、身動きできなかったので、一日過ごした公共図書館。
ホテルの狭い部屋に一日居ても仕方ないし、かといって買い物や観光も雨であまり楽しくないし。
この図書館は、2002年に初めて一人で台東へ来た際にも立ち寄ったことがある思い出の場所。当時は今のようにグーグルマップなどもなかったので、街歩きの途中急に「図書館に行ってみよう!」と思い立ち、警察署へ行って図書館の場所を尋ねたのでした。「とぅーしゅーぐぁん」と言う発音をガイドブックで何度も確認したような覚えが。

その時は、あまり時間もなかったのだけど、郷土史コーナーに日本時代の資料が残っていて、そこで曾祖父の名前の載った公文書を発見したのでした。当時は、大発見!な気持でした。もともと、当時まだ存命だった祖母から曾祖父が台東県で医者をしていたという話は聞いていて、それを確認しただけだったのですが、やはり名前が載っていると嬉しい。今回は、それをもう一度確認したいという気持ちと、それ以上の資料もゆっくり閲覧してみたいという気持ちで、やってきました。

宿から図書館までは徒歩10分もかかりません。
傘をさして、てくてく。ちょうど雨も少し穏やかになっていました。




入口には雨合羽用のハンガーラックもあります。

平日の午前中で、しかも悪天候なので利用者はかなり少なく、静かな図書館でした。開架コーナーで郷土史の本を探し、日本時代に出版された本を戦後製本し直したシリーズが見つかりました。2002年に見た本もこれだと思います。




曾祖父の名前をがありました。
出身地が「静岡」になっています。
結婚前の祖母の本籍地は静岡だったと聞いていたので一致します。








ある本には出版の際に費用の協力をしたのでしょう、名刺大の広告(?)のようなものもありました。
「大武公医」とあります。

「公医」とは、日本統治時代の台湾独自の医療の制度のようです。台湾が日本に割譲された当初、マラリアをはじめ風土病が多く、またアヘン吸引の習慣もあったため、後藤新平は「公衆衛生」の改善を強力に進めました。時代はかなり下りますが、その末端に私の曾祖父も携わっていたということですね。
台灣における日本植民地統治 - 東京女子大学
『台湾総督府公文類墓』 にみる台湾公医制度を中心としてー



曾祖父の名前があるこの公文書には、主な疾患とその罹患者の数(うち死亡者の数)などが細かに記録されています。マラリアとか、アメーバ赤痢とか。また年間の各公医別の患者数なども記録されていました。

それによると、曾祖父の担当した患者数は以下の通り。

昭和4年 3241人
昭和5年 2905人
昭和6年 3399人
昭和7年 3107人
昭和8年 2950人

年間3000人前後。お隣の太麻里の木野田先生の所が、2000人前後だったことを見ると結構大変そうですね。
ちなみに、曾祖父は昭和9年か10年頃におそらく亡くなったか、引退するかしていて、その後の大武の公医は木野田先生が受け持ったようです。



更に資料を読み進んでいくうちに、「躍進東台湾」と言う本が出てきました。
これは、公文書と言うより、官民いっしょに地元の人たちがまとめた昭和13年の資料のようです。この本には統計的なものだけではなく、東台湾の現状を紹介した文章が多く、巻末の附録には、各種名簿がありました。



そしてその中に祖父の名前を見つけました。



これが、今回の大収穫です。

先ほどまで見てきた曾祖父と言うのは、祖母の父親で、祖母から「大武でお医者さんだった」と言う話を聞いていたのですが、祖父については、台湾にいたことはわかっているのですが、どこで何をしていたのかはあやふやだったのです。

ただ、私が子供の頃、祖父から聞いた話の印象では「台湾で警察官をしていた」というイメージがあり、「台湾には高砂族がいて悪いことをしないように警察がとりしまっていた」というような話を聞いた記憶があります。それと、後年祖母から、祖母が台東で生まれ育った話をきき、祖父も同じ大武で警察官をしていたんだろうと思っていたのでした。(高砂族が多いのは台北などよりも台東の方なので)ところが、祖母も亡くなったあと、息子である父が「親父は台湾では警察官じゃかなったのでは?兵隊で戦地でけがをしてそのあと台湾で療養していたという話じゃなかっただろうか?」と言うので、私も自信がなくなっていたのです。
が、先日国会図書館まで行って調べた祖父の参加してた俳句同人誌に掲載されていた略歴に「台湾台東大武で警察官」をしていたと書かれており、子供のころの記憶が正しかったことがわかりました。


そして、今回、ちゃんと本に名前がありました。
巡査として掲載されています。祖父の自己申告だけでなく、こうして物証も得られてよかったです。
先日の中国大陸南昌のころからさらに古い時代の祖父の足取りがつかめました。

祖父は大正2年熊本生まれ。
昭和13年は24歳です。
いつどんないきさつで台湾に行ったのかはわかりません。
そして昭和15年に南昌へ行ってるのですが、なぜ台湾を離れ大陸へ行ったのかもわかりません。

生きているうちに話を詳しくきいておきたかったですね。



関連記事
2002年に大武に行ったときの話
「東台湾展望」(昭和8年刊)
国会図書館へ

住んだ家

2017年09月26日 | ☆記憶
これまで幾つかの家に住んだ。
結構な割合でなくなってる気がするから、検証してみる。
ホントにどうでもいい話(笑)

1.生まれて10歳まで住んだ家 数十年前に取り壊され、土地も削られて地面もない。
2.高校卒業まで住んだ家、老朽化で取り壊され、建て替えられた。
3.学生寮、ここは残ってる
4.学生アパート、当時もぼろかったのにまだ現役。
5.就職して初めて住んだアパート(青葉台)取り壊されてた。
6.アパート(水戸)当時新築だった ある。
7.アパート(千葉)無くなってる
8.アパート(仙台)ここもまだある
9.アパート(千葉)ここもある
10.同僚とシェアハウスした新築アパート(埼玉)ある
11.一人暮らしに戻ったアパート(足立区) ある
12.世田谷区のアパート、取り壊しまで住んでた
13.今の家

集計結果、全13軒中、取り壊されてたのは5軒で案外少ないと思っただけど、子供時代を住んだ家がないのがさびしいな。




生まれた家。
重機が停まってるあたりの山側に家があった。道路拡張で削られてしまってる。


学生寮。
改修されているみたい。
住んでいた棟とは違うけど。


学生アパート。
クラスメイトとルームシェアしてた。
ここも改修されてる。
築年数相当たってると思うけど、大家さん頑張ってるなぁ。


青葉台のアパート跡地は建売住宅に。


水戸のアパートは新築だったから、まだ健在ですね。
アパートの名前は変わってた。



築浅で入ってた仙台の可愛いアパート、ロフト付。
名前が変わってた。
不便な場所だったのだけど、なんと地下鉄開通で駅徒歩2分に大出世!


千葉のアパートは当時と同じ名前で健在。
職場から徒歩30秒だった。最後職場の経営状態が悪化して、私のこのアパートが事務所になってしまったっけ。(正確にはこのアパートに事務所の電話を残し、営業所こっそりたたんで本社に戻ったのだった)


埼玉でルームシェアしてた3DKの新築アパートも健在だった。
倒産前後の経済的に苦しいときに何人かで助け合いながら暮らした思い出の部屋(メンバーも数回かわった)



8年住んでた世田谷のアパートは、老朽化で立ち退きを迫られた。
引っ越し代出してもらって、今の家に移ってきた。
今は建て替わりスーパーマーケットになってる。



ホトトギス昭和18年1月号

2017年09月08日 | ☆記憶
有休とって国会図書館に行ってきた。
今日こそ、ホトトギスをゆっくり見て祖父の俳句を見つけるぞ!前回は時間がなく慌ててたから、今回は三時間近くかけてじっくり「虚子選」の投稿俳句を見ていった。毎号それこそ何千句とあるので大変。

でも、ついに発見!
祖父の俳号である「礁舎」の「礁」の字が「樵」になってるけど、間違いない。

  どの顔も戦禍の民や秋耕す  中支南昌 樵舎


同じページに祖父の手記に登場する「親友」の奈良邯子氏の名前も見つけた。

  梅雨の扉に入城の日の文字のこる  中支 邯子

どちらも戦時中の句だなぁ。


一年分の虚子選を読んだので(超絶斜め読みだけど)幾つかの俳号を覚えた。毎号毎号選ばれる常連さんがいたようだ。

熊本の人だと、草餅さん とか
南京の下村非文さん、
漢口の佐藤一村さん、
倶利伽羅の竹中一峰さん、
中支の大刀さん…

有名人の名前もある。
草田男、青邨、汀女…父が最近話題にしていた、横井迦南も常連さんだ。面白いところでは中村吉右衛門なんていうのもあった、芝居の俳句なのであの吉右衛門だろうけど、何代目かな?(初代だそうです。虚子の弟子だったとか @wiki)

この虚子選に投句してくる人々は、日本全国はもちろん、当時外地と呼ばれたアジア、南洋、そして、戦線からもたくさん送られてきてる。入院中の兵士は傷病の文字があり、時には戦死と注意書きのあるものもある。現代より俳句人口が多かったのだろう、特に若い人に。それと、戦地にあっても俳句をよむ情熱がすごいと思った。。



ホトトギスは戦争中もしっかり発行を続けていたようだが、昭和20年になるとどんどん内容が少なくなる。紙が手に入らずやむなくページ数を減らしたようだ。最後の頃は、投句の「虚子選」だけが掲載されるようになる、虚子自身も小諸に疎開し、投句の宛先も小諸に変更される。そして、昭和20年の4月号まで出したところで、発行困難になり、次は10月号、11月号が発行された。12月号は出なかったようだ。国会図書館にもその10月号はなかった。混乱期のためか?11月号を見たが、急に英語のページが登場し、驚いた。

ホトトギスはすべてデジタル化されているが、ネット公開はされていない、また時間を作って読みに行こう。

公文書で読む南昌居留日本人の状況

2017年09月07日 | ☆記憶
国立公文書館 アジア歴史資料センターの軍の文書に、祖父の書いていたことを裏付けるものを見つけたので、また書き起こしてみます。字が読めないところもあったりするのですが、おおむねこんな感じです。
原文は漢字とカタカナで書かれていますが、よみにくいのでカナはひらがなに改めてあります。また漢字も新字体にしてあります。句読点がほとんどないのは、書き手のためか、それとも当時の文書はこういうスタイルだったのか?



(第11軍軍医部)

第七 居留民の状況並に之が衛生指導

南潯地区に於ける居留民は約三二五〇名にして 時局の急変に至る迄は南昌、九江及石灰窟の三地区を中心として居住しありたり 一般に終戦当初精神的に大なる衝動を受け 行動の帰趨に迷い 自棄的状態に陥るもの、中国人の甘言に乗ぜられ儚き夢を描くもの 或は旧来の利己的又は放縦なる生活を脱し得ざるもの等ありしが 逐次平静に帰するに至れり 

軍は集中管理保護の必要上 各地区毎に一定の地域を劃して 自発的に集結せしめありしが 九月下旬中国側の要求に依り 全員湖口及彭澤に集結すべきこととなれり 然れども同地区には全員を収容し得る適当なる家屋なかりしを以て 中国側に折衝の結果、十月に至り石灰窟地区の居留民は従来日鉄使用の家屋に引続き居住することを許可せられ 又湖口地区は中国側の都合により 家屋の使用困難となりしを以て 彭澤の集中居住地施設概成と共に九江より移動を開始し 十一月末集結を完了せり 該施設は倉庫を改造せるものなるを以て越冬には支障なきを保し難きと共に極度の狭縮舎営にして 防疫には○甚なる注意を必要とせり

当時に於ける集中状況左のごとし

 石灰窟 約一五〇〇名
 九江  約 四〇〇名
 彭沢  約一三五〇名

石灰窟の居留民は 其の殆んど大部分が日鉄関係の職員及之を対象として商業を営みありしものなり 九江に残留せしは 病院、食料品加工業、燃料及電気関係等の工場経営者及其の従業員、同家族等にして 中国側の接収未済或は中国側の工場操業の援助の為残留を命ぜられたるものを主とし 患者及其の家族若干を含みあり 彭澤に集結せる居留民には普通商店、会社員、軍に関係ある嘱託、外務省官吏等あり 南昌に居住しありたる居留民をも含みあり 

石灰窟地区は中国行政区画上湖北省政府の管轄に属し 食糧補給及管理の都合上不便勘からざりし為 累次に亘り中国側と折衝の結果 本年初頭より湖北省側に於て管理することに決定せしを以て 軍側の管轄を第六方面軍司令部に移管せり

管理は当初受降主官直接之を実施しありたるも 十月末より日本官僑民管理処設置せられ 居留民の管理をも担任することとなり 十二月には更に江西省政府に移管せられ 之が直接管理機関として 彭沢に江西省日僑集中管理処設置せられ 爾後其の管理下に置かれたり 居留民側に於ては 九江に日僑会、石灰窟及彭沢に夫ゝ日本人会を設け 軍司令部及九江総領事館監督の下に自治的に業務を実施し 中国側の管理に服したり 

軍司令部は居留民の取締及中国側との連絡に任ぜしむる為 石灰窟に連絡所を設置し 又彭沢には現地兵団より派遣隊を派し 以て業務の円滑なる遂行を期したり 中国側の幹部特に日僑管理処の幹部は 開設頭初より渉外品贈与に関係し 概ね平穏に生活することを得、停戦直後 一般民衆の一部の不法行為ありたるの外、多方面に聞知するが如き極端なる迫害の少なかりしは幸いとする処なり

朝鮮人は其の大部分が 軍事委員会韓国光復軍独立支隊部なるものに進て加入し 或は加入を強要せられ 日本居留民より離脱せり

給養は当初兵站総幹部に於て日本軍人同様の取扱を為す旨中国側より通報あり 軍より米塩の外副食物をも立替え補給しありたる処 十月分副食代金受領に先立ち 居留民の補給担任は管轄行政機関に移管せられたる旨通報ありたるを以て 九江総領事より軍を経由し 中国側に申請し 概ね十月以降手持品の給養保持期限を画して補給を受くる如く指令せられたり 十二月末彭澤に江西省日僑集中管理処開設せらるに及び 之が担任を同処に於て実施せらるることとなりたり 然れども爾後に於ても補給は○く円滑を欠き停頓すること勘かなりし為 日を追うて窮迫に陥り 携行しありし家財衣類を処分して食料を購入する等の状況に立ち至りたるを以て 共同炊事を奨励し 燃料其の他の節約に努めせしむると共に 軍に於ては極力之が援助に務め 多面中国に折衝し補給の促進を図りし結果 居留民第一次帰還として 彭澤居留民七五〇名を五月十日出発せしむるに際しては 主食約二十日分 副食代金約十五日分以上の携行を可能ならしめ得たり 
石灰窟の居留民はその大部分が元日鉄職員にして 終戦前より相当の蓄積をなしありたる為 食糧に関しては何等中国側の援助を受けざりき 

居留民の受けたりし主食及副食代金受領標準は左の如し

米  大人一日一人当  二十五両(781.25瓦)
   小人(満六歳以下) 十一両(343.17瓦)
塩  一日一人当   五銭(15.63瓦)
副食代金 一ヶ月一人 二四〇〇両


居留民に対する衛生指導は居留民の医師を指導しつつ居留民内に於て自治的に実施せしむる如くなすと共に現地軍に於て居留民の医師に対する協力援助を協力に実施し九江に於ては揚子江方面海軍特別根拠地隊九江方面警備隊軍医長海軍軍医少佐羽田春兎よりも密なる連携を得たり 軍は終戦後に於て其の保有衛生材料の一部を居留民に支給し長期に亘る集中営生活間の防疫診療に遺憾無からしむる如く図りたるも軍事隊の保有量僅少なる為 其の支給量亦微々たるに過ぎざりき

同仁会南昌診療防疫班は九月十四日中国第五十八軍により同仁会南昌博愛園癩研究所と共に接収せられ班長代理医学士吉村正一以下職員は南昌居留民と同行 九江に引揚げ爾後居留民の彭沢集中に伴ひ全員之と行を共にし集中営に於ける衛生指導並に診療に努力せり

同仁会九江診療防疫班は其の使用建物が中華キリスト教衛理公会保管の故を以て第九戦区陸第九十九軍司令部を通じ米国人に接収せられ管理人の要請により班長医学博士高田之以下五名引続き同会の旧同仁会医院の施設を利用し経営する美国九江生命活水但福徳連合医院に於て医療に従事し其の他の職員医学博士鶴野六良以下六名は中国側の希望により頭初九江県立医院に次で江西省立九江医院に職員として奉職し夫々生活の不如意を克服しつつ中国医療関係者の教育、九江地区の診療防疫に貢献せり

石灰窟地区には日鉄病院長医学博士高木起作以下三十三名の医療関係者あり 何れも居留民集中営内にて衛生指導並に診療に努力せり

南潯地区同仁会診療防疫班は何れも熊本医科大に於て編成の上派遣せられたるものなり

居留民の衛生状態に就ては九月より十月に亘り漢口地区より侵入せるデング熱九江に於て猖獗を極め其の罹患率約八〇%の高率に及び余病の併発により死亡せるもの四名を生じたりしが時候の寒冷に向ふと共に終息するに至れり 同仁会九江診療防疫班への来診患者の主なるものは「マラリア」及「アメーバ赤痢」なり 彭沢に於ては環境の不良なると共に倉庫を改造せる宿舎への圧縮舎営なりしを以て現地兵団をして特に防疫上の見地より衛生思想の普及に努め指導の適正を期せしめありしが四月に入りA型パラチフスの散発を見るに至り防疫処置に遺漏無からしむると共に患者はこ之を独立混成第八十四旅団解説の患者療養所に収容するの外 帰還輸送に支障を来さざらしめんが為 全員の菌検索を実施し所要の患者及看護人を在九江兵站病院に収容する等 万般の措置を講じたる結果 帰還輸送の本格化せる五月中旬には全く終息せしめ得るに至れり
石灰窟地区には特記すべき疾病の発生無かりき


以上

「徒手官兵」岡村寧次(S27)

2017年09月06日 | ☆記憶
徒手官兵
戦友会 副会長 岡村寧次


蒋総統の声明

 講和独立後、初の八月十五日を迎えるに当り私が先ず思い出すのは、終戦当時の蒋介石総統が声明した言葉である。
「降伏した日本軍に対してみだりに報復したりしてはならない。暴に報ゆるに徳を以てせよ」
 この声明は長年中国を敵とし中国と戦って来た当時の日本人をいたく感激させたことは有名である。しかし敗戦後の引き揚げ、其の他の状況下に、この声明が事実上いかに実施されたかといふことになると、当時中国から引き揚げてきた二百万の日本軍民が、部分的、断片的に知っている以外には、あまり知られていないようである。
支那派遣軍総司令官として降伏の調印をし、引き揚げに際しては総連絡部長官といふ職を中国からあたえられた私は、終戦後の中国政府の好意が、この蒋総統の声明に基づいて、的確に実行されたことを、多大の感銘と共に知らされている。私はこの厚意に対する感謝の気持を昨年の二月十四日、日華文化協会の主催でちょうど来朝中の何應欽将軍を迎えて、歓迎感謝の茶会が開かれた折に、列席の文化人諸氏にお話したところ、多大の感銘を呼んだとみえ、会が終わった直後、七、八名の名士から、非常に丁寧な挨拶をうけた。またその後にもこの会に列席した人、あるいはそれを伝えきいた人々から直接間接に、「あのときの君の話には、実に感激した」と賛辞をもらった。

寛大な取扱い

第一に私の言いたいことは、終戦当時引きあげてきた人々を、普通は俘虜及び居留民と呼んだものだが、中国では厳密にいってこの俘虜といふものが一名もいなかったということである。
だいたい私の隷下にあった将兵の数は、終戦当時百二十二万、居留民が大体八十五万、合計二百十万の日本人が、中国に抑留されていた。そのうち居留民の一部は住宅を引き払われ、便宜上一カ所に集められたものもあったが、将兵は、はじめから一カ所に集結していたから、そのままの状態をつづけ一度も俘虜の取扱いを受けたことはなかったのである。
そして中国政府では、これらの日本軍を徒手官兵と呼び、公文書にもそう書いたものである。
徒手とは素手の意味で、官兵とは日本語の将兵に当たる。つまり武装していない将兵として、われわれを遇していたのである。もちろん当時の中国政府でも、これに対して多数の人が、あたりまへの俘虜の取扱いをせよという意見を出したのだが、何應欽将軍、その他日本通の人々も多数いて、日本人の性格を理解し、こうした形にすることが最も秩序を保つ上に有利であると主張して、降伏した敵側の軍司令官である私に対して、総連絡部長官という職を与へ、中国各地に散在する隷下各部隊の軍司令官十数名を、何々地区連絡部長官とし、これ等の総指揮に当らせたわけである。
だから武器を持たなくとも、従来通りの軍隊のまヽで、指揮に必要な通信機材、飛行機、自動車、自転車、といふものも、一旦接収されたものを返してくれるといふ状態だったから、このために私の隷下部隊の引き揚げは実にスムーズに行うことが出来たのである。

   多かった携行品

 引き揚げに際にしても、軍人、居留民を通じて、寝具のほか各人三十キロずつの携行品と、居留民千円、軍人五百円の現金携帯を許可してくれたことも、ほかの地方からの引揚者とくらべて、実に寛大なものであったといえよう。もちろん、居留民の中には、多年中国にいて、経済的基礎をきずき上げた人が多かったのだから、こればかりのものをもって引き揚げなければならぬということは、実に惨たんたるものであり、悲惨な気持で帰ってきたことと同情を禁じ得ない。しかし、これらの人々も内地に着いて見て、他の各地域からの引揚者が内地の港に着いた姿を見れば、中国のとった処置がいかに寛大であったかを知ることが出来たろうと思うのである。
当時私は、中国帰りの者は携帯品が多すぎて、内地へ上陸してから、各地方まで帰る汽車輸送に、大へん支障をきたしたと、進駐軍からしばしば文句をいわれる始末であった。しかし私はだまって、これを押し通してしまったが、この一事をみても、他の南方諸国からの引揚者から見れば、中国からの帰還者の携帯品が何如に多かったかをうかがい知ることが出来るのである。

   非例の復員

 敗戦の当初には、中国側の新聞、ニュースがこぞって日本内地の混乱ぶりを報じて来た。内地の軍隊が、一種の虚脱状態において、とうてい信頼出来得る状態ではないというよう情報が、頻繁に私の耳に入る。
外地のわれわれは、これをきいて、大いに迷ったものであった。そこで私は、中国派遣軍は、自力で復員しようと決心した。そして多数の先遣部隊を、各部隊の将校、下士官、兵を集めて編成し、内地へ派遣した。それに対しても中国側は、非常な好意をもって船を出してくれた。参謀副長の岡田少将が、大宰府に本部をおいて、博多、佐世保、鹿児島、仙崎等というところに派遣軍だけの復員準備部隊を設置したのも、このためであった。
内地頼むにたらずというより、戦勝国の好意によって、復員者を出す方と、受け入れる方との両方の仕事を、敗戦軍の指揮官がやったなどといふことは、今までの戦史に例のないことであった。

   好意の輸送計画

 中国の好意はこればかりではない。引き揚げを迅速に完了するためには、あらゆる障碍を排除して、輸送機関を総動員してくれたことも、その一つである。
一時的ではあったが、あの混乱の時期に、一般交通を圧迫して、汽車、汽船を総動員してくれたことは、中国政府にとって少なからぬ犠牲であったろう。具体的な例として、揚子江の船は経済交通をとめて、日本軍の輸送に当ってくれた。漢口、南京、上海と帰ってくるには、漢口から北上し信陽でのりかえて津浦線を迂回しなければならないのだが、これに対しては一般交通をやめて、輸送機関を全部日本輸送に向けてくれた。
こうした引き揚げに対する協力が、後日、国民政府に対する経済界の反感となって今日の苦境に立たねばならなくなったことを思えば、こうした輸送命令をあえて出した中国政府の好意というものは実に甚大なものであったのである。
終戦の翌四月ごろになると、漢口には日本人三十万人の中居留民一万五千人ほどが残ってしまった。ところがその頃になるともう交通機関はなくなってしまっていて、歩いて帰らねばならぬといふ状態になっていた。しかし、もし歩いて旅をするとなると、どうしても五千人は途中で死んだり落伍したり、危険がある。とくに女、子供、病人は、とても歩けるものではない。
そこで私は何とか交通機関を利用させてもらえないものかと、何應欽将軍に交渉した。何應欽将軍は、快くこれを承知してくれると、直ちに重慶方面から南京方面に出てくる中国人旅行者を停めてしまって、揚子江の全汽船力を、日本人の輸送に集中してくれた。
それだけでも足りないというと、全力をあげても一日十一本しか編成できない鉄道のうち七本から、多いときで八本までを、こちらの要求に応じて廻してくれたわけである。
しかもこの状態を約一ヶ月半にわたってつづけてくれたので、案ぜられた漢口の三十万の日本人は、無事に上海から乗船して帰国することができたのである。

   何應欽将軍の言葉

 私が国民政府に対して降伏調印をしたのは、昭和二十年の九月九日であった。そのとき、国民政府代表として出席したのが何應欽将軍であった。ところが、その翌日の朝、何應欽将軍から私へ細部にわたる打合せをしたいからすぐきてくれといふ連絡があって、私はとるものも取敢ず、出かけていった。そのときの同行者は小笠原参謀一人である。ところがそこで私が命ぜられたのが総連絡部長官の職であった。
その席で何将軍が傍にアメリカの軍事顧問がいるにかヽわらず、最初に言った言葉は「日本は今や再び武力を以て中国を侵略するような事はなかろう。だから、これからがほんとうの中日提携である。この終戦は、日本と中国が真の親交を結ぶ絶好の機会であると思ふ。大いにやろうではないか」と言うことであった。

私は帰還以来国際政治に関することや、一個人にわたる談話の公表を一切さけてきた。
しかし終戦当時の蒋総統以下、中国官民の敗戦日本に対する好意を伝え、あやまった宣伝を修正し、真の中日提携が行われる日の早からんことを、心からねがうものであることだけを記したいと思ったのである。

昭和二十七年「話」九月号掲載

「山河ありき」 3

2017年09月05日 | ☆記憶
 九江市は中国側の警備がきびしく一応平静さを保っていたが、毎夜のように戦勝の爆竹が鳴り喧騒を極め、中国民衆のわれわれを見る目には憎悪が充ちみちて、何かのきっかけがあれば忽ち、掠奪、暴行が起り得る要素を孕んでいた。

この年はこの日本人小学校で越年するかに思はれたが、中国側の警備の都合からであったのであろうか、十月の初旬一隻の汽船に乗ることを命ぜられ、揚子江を百キロばかり下った「膨沢」と言ふところで降ろされた。

 この膨沢と言う所は、前に揚子江、後に小高い山が連なり、一筋道の両側には萱で葺いた屋根の民家が三十戸ばかり立っているだけで、誠に貧弱な寒村であった。

少し歩くと、周囲を鉄条網を張りめぐらした二階建トタン葺き木造の建物が十数棟立ちならび、聞くところによると、この建物はかつて日本軍が此処を通過するときの一時の仮活用に建てられたものであると言う。

中にはいると古びた畳が敷いてあり、日本軍が昨日まで使っていたと思はれる、水溜めのドラム缶、ドラム缶の風呂、木造の火鉢、大釜にかまど、鉄線を張った物干しまであり、木炭、灯油、塩も少々残っていた。

吾等がこれを最大限に活用したことは言うまでもない。この建物の周囲に張りめぐらしてある鉄条網は、日本軍がここに宿泊するとき自衛を容易にするために日本軍が張ったものと想像された。

九江、南昌の居留民凡そ八百名の秩序を保つために軍隊式に一つの大隊(南潯大隊と稱す)とし、その下に各々出身県別に中隊を作り、その核心となる「長」は皆んなが最も信頼する者を据えて、自治の態勢が一応できあがった。
中隊と言っても、独身の男女、筆者のように妻子をもつ世帯、まぎれこんできた復員軍人、軍属等で構成されていて、無秩序に雑魚寝するわけにもゆかず、日本兵士が残して行った「古筵」を使って、男女の区別、又世帯毎に筵を張って風紀上の秩序に配慮して寝起きした。

此処では中隊長が父、副中隊長が母、年長者が兄、姉として名実ともに形を変えた立派な家庭であった。
男は薪とり、副食の魚とり、井戸がないので揚子江の水汲み、女は炊事、洗濯、つくろい物に従事した。
「灯り」がないので暗くなれば眠り、明るくなれば起き出て自活の仕事にはげむ原始的な生活であったが、全員無事に故国の土を踏むと言ふ共同の目的が支へとなり、互の絆は強くなっていった。
吾々の中隊には終戦まで看護婦として活躍してゐた、二十才から二十六歳位までの若い未婚の女性が十数名いた。化粧は一切せず素顔のまヽ黒髪も男のように刈りこみ、中国警備兵の目を惹かないようによそおはせてゐたが、小麦色にかがやく健康色は隠すすべもなく気にかかった。

   筵の戸互に開けて初笑
は明けて昭和二十一年の元朝の句である。
昨日まで戦勝国の国民として、中国の民衆に接していた者が一夜にして乞食同然の境涯に転落した、今日の姿を客観的に見た感慨の一句である。

新年と言ふと中国側も何か目新しいことをして見たいのか「中食を共にして日中戦争をテーマに懇談したい」と言ってきた。
警備本部の一室に日中双方の主だったものが相対して通訳つきで懇談が行われた。懇談と言っても、勝者と敗者の懇談で対等に意見を述べられる訳でもないのに中国側は、「日本の敗戦の理由」「今後の日中関係」について日本側の率直な意見を強くもとめた。第一の問題については積極的に発言する者がなく、只今後のことについては、同文同種の民族として仲よくやってゆこうと言ふことで終った。
木々が芽ぶき春風が吹いて清朝時代の詩人「杜牧」の詠った

   「千里鴬啼いて綠紅に映ず
    水村山郭酒旗の風」

の詩を思わず口ずさみたくなるほど江南の春は駘蕩としていた。

青柳のクリークには、鮒や鯉が手掴みにできるほどいて獲っては目刺にしてよく食べた。食ふだけの貧しい明け暮れであったが、中国当局のあたたかい取扱いに救はれて心にいくぶんの餘裕さえ生まれていた。

中国の警備兵とわれわれ相手にラーメン、支那万十を出す店もできて、三十戸ばかりだった寒村は百戸ばかりに膨れあがり一筋道は活気を呈しはじめていた。

居留民の中にはこっそり衣類などと交換した支那酒を収容所に持ちこみ酔い痴れる者もいた。
五月になると雨の日がつづき揚子江は急に水嵩を増して川幅を広げ海のようになった。
そんな或日中国側から配船の手当がついたので、明後日上海に向けて出発すると知らせがあった。
あわただしく身のまわりの物をまとめて、八ヶ月ばかりすごした膨沢とも別れる日がきた。



乗船して三日目に上海に到着「日僑収容所」と看板の出ている倉庫の筵に落ちついた。
自活に必要な炊事道具等一切備付けがあり、昨日まで帰国を待つ日本人が住んでいたことを思わせた。倉庫であるので採光の悪いのは当然として、多人数に便所の少ないのには困惑した。

外出は危険と言ふので一日中うす暗い土間にごろごろしていた。二週間ばかり過ぎた頃から、不衛生と栄養失調から皮膚病と眼病が流行し、収容所の生活が限界にきていることを思った。


上海での抑留生活も二十日ばかりで終止符を打ち、昭和二十一年六月二十二日梅雨の真只中にアメリカのリバティ型の船で博多に上陸、十ヶ月餘に亘って苦楽を共にした南潯大隊はここで解散して、それぞれの故郷に帰って行った。

   ふるさとに山河のありて蛍とぶ




 歴史の風化と共に茫々四十年の昔を必死に思い起し、事実を正確につづったつもりであるが、筆者の記憶違いがあるかも知れない。
それは偖ておいて、裸一貫が引揚者の代名詞と言われた当時、われわれは寝具の外に各自三十キロまで携帯して帰国をゆるされ、家族と共に健康で無事帰国できた裏には、時の支那派遣軍総司令官岡村寧次大将の苦心と、国民政府陸軍総司令官何應欽将軍の暖い配慮があったことを知り、一人でも多くこのことを知って貰ふために、「何應欽上将軍著(台北正中書局刊行)中日関係と世界の前途」の中に附録として、岡村寧次大将の書かれた「徒手官兵」と題した記録を末尾に付す。



「山河ありき」 2

2017年09月04日 | ☆記憶
この日を境に南昌は大混乱におちいった。

 混乱の模様をいちいち写しとったら、きりがないので省略するが、東京の外務省からは領事宛に、「在留日本人をまとめて無事帰国せられたし」との電報を最後に、一切の通信連絡はとだえた。機を失せず、南昌市の辻という辻に壁があれば壁に貼り出された国民政府軍最高司令官、蒋介石氏(故人)の「暴に報いるに暴をもってするな、日本人に理由なく危害を加えた者は直ちに死刑に処す」との佈告を読んで少しは落付いたが死の恐怖は去らなかった。

 当時私には妻と五才と三才の子供がいて、明日の運命さえ予測され難い極限状態におかれると、「詩」などを生む余裕は失われていた。其のなかに或晩句友が見せた、

   さすらいの民に雲濃き今日の月
   月今宵傷心覆い難き身の

の句は忘れ難く今でも憶えている。

 日本軍は早晩武装解除が行われるであろう。そうなれば、女子供を含む約三百人の在留日本人の運命はどうなるか?糸の切れた凧みたいな存在になるのは目に見えていた。
協議のすえ当面の自衛策として、先ず米と塩をたくわえ、小銃、手榴弾等を隠匿して、最悪の事態に備える事にした。

 或日街の中に爆竹等が鳴り騒然となったので、出て見ると、何度か嫌政府で談笑し飲食を共にした事のある、県長(知事に相当)以下逃げ遅れた幹部等が敵国に協力した漢奸(祖国に弓をひいた最大の裏切者)として、後ろ手に縛られ、頭には「三角帽」を被せられ、洋車(やんちょう)(人力車)に乗せられて市内を引廻されているところであった。

 あまりにも変わり果てた県長の姿に一瞬息を呑み、正視することが出来なかった。
 こうした事態の中で、未だむきずの日本軍将校の或る者は、飲酒抜刀して「俺は降伏などせん」と料亭の柱に切りつけたり、訳もなく拳銃を発砲したり、いたる所で、其の狂気が見られた。

 終戦後素早い行動をとったのは憲兵であった。彼等は凡ゆる交通機関を利用して、街から姿を消した。今考えて見ると最も賢明な行動であったと思はれる。

 前面に展開していた、大陸では不敗の日本軍大部隊が揚子江を目ざして大移動を開始したのは、終戦後七日ばかりしてからであった。日本軍の武装解除を目前にして、軍から「南昌郊外を通過する部隊のために御迷惑と思ふけれども「湯茶の接待をして貰えないか」との申し出があった。総軍司令部から派遣されて慰問に来て居て、たまたま終戦に合い滞留していた、軍楽隊と共に南昌郊外の森に、あらん限りのドラム缶を集め、毎日そのドラム缶に湯を沸かし、通過する兵士にさヽやかな湯茶をふるまった。

 中国大陸の南方から真黒に日焼して汗にまみれ、近ずくと異様の臭気を放つ兵士が完全武装のまヽ続々と吾等の待つ広場に、しばしの憩をとった。一杯の湯茶に喉をうるほした兵士の中には「日本人の女が居る」と感動のあまり棒立になる者も居た。永い間戦塵にまみれ中国奥地の山ばかりを見てきた兵士には日本婦人の着物姿はたまらないなつかしさを覚えたに相違ない。

 大休止が解けて、赤茶けた丘の上で軍楽隊が奏する「蛍の光」は恰かも帝国陸軍の最後をみとる葬送曲のように聞こえて、言葉では言い現せない悲しみが胸を突きあげてきた。横に整列した、女接待員等は、ハンカチで目を押さえすすり泣いて行軍の兵士を見送った。日本軍の敗戦を信じ難い様子の行軍兵士には「何故泣くのか」判らなかったかも知れない。日本刀を吊し背を正した馬上の部隊長、それに続いて歩いて行く兵士の横顔に折柄落ちかかった大陸の夕日が紅く染めてゐた。

 世界最強の軍隊として世界中の人々に怖れられ、吾々日本人も心からそのように思っていた、日本帝国陸軍の最後の姿がここにあった。

八月十五日の終戦記念日が近ずくと、その時の光景がまざまざとよみがえる。

その頃北満はソ聯軍の侵攻により毛沢東の率ゆる共産軍の手に落ち、南昌前面には、「新四軍」と言う共産軍が国民政府軍の目をかすめて出没しては、密かに日本軍に「吾々に味方しないか」と誘いかけてくると噂の種にされていた。
もともと国民政府軍と共産軍共同で日本軍に当たっていたが、今、日本の降伏によって、遅かれ早かれ国民政府軍と戦わなければならない宿命にある共産軍にとって降伏した日本軍兵士を一人でも多く自己の陣営に引き入れたかったであろう。

 この新四軍という共産軍は、一般社会では当然のことであるが、農民達が野菜をくれても、或いは泊っても必ずその代価を支払い、必要があればよろこんで農家に奉仕すると言うぐあいで、今までの「奪う」「犯す」「焼く」の兵隊とは、うって変って厳正な軍紀のもとに行動する軍隊として、民衆の心をしっかり掴んでゐるようであった。
国民政府側では武装のまヽの日本軍を放置して置くのは危険と感じたのか、終戦から十数日過ぎの暑い日に吾々が最も恐れていた日本軍の武装解除が行われた。もうわれわれの背後には力強い後楯はない。自力で生きてゆくほかはないと決心した。

階級章だけつけた丸腰の兵隊は「徒手官兵」と稱され復員に便利な揚子江沿岸の荒地に自から竹の柱に萱を葺き、自給自足の態勢で船を待つことになった。

日本占領時代の和平地区では、南京臨時政府発行の「儲備券」が唯一の通貨で、吾々の月給もこの通貨で支払はれていたが、終戦と同時にこの通貨は紙切れ同様となり、代って国民政府の発行する「法幣」が流通することになった。このことは和平地区の民衆とわれわれが無一文になったことを意味する。

 日本軍武装解除後の南昌市の治安は中国軍の警備に任されていたところ、或る日日本人商店に陳列してあった、綿布を暴民が持ち去ろうとしたのを警備の兵士が阻止しようとして爭になり、これを口火に掠奪は全市にひろがり、日本人が市内に雑居していては、いつどんなことが起るか判らない状態になったので、警備当局の好意を受けいれ、昨日まで日本軍の司令部であった跡に集まり難を避けた。翌々日だったと思ふ、自活に欠くことのできない食糧品、綿布等を二十余隻の帆船に積み込み瀋陽湖を経て揚子江沿岸の港町、九江市の日本人小学校に辿りついた。


つづく

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