キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

ボータク

2019年01月14日 | ☆記憶
彭沢県
中華人民共和国 江西省 九江市


礁さん、ボータクというのはここではないでしょうか?
私は「ボウサワ」と呼ぶのかしらと思っていましたが、ボウタクと言ってたのですね。

「山河ありき」では人家30戸程度の寒村と書いてありました。
今もそれほどの街ではないですが、航空写真で開発が進んている様子が見えます。
同じく「山河ありき」では博多港に上陸したのは昭和21年6月22日と記載があります。
南昌→九江→彭沢→上海→博多と移動したと書いてあるので、礁さんの記憶の「冬に下船」したというのに当てはまるところがありそうですね。


ここのところ、戦争に至るのはなぜか?ということを考えています。それを考えることで、そこへ至らないようにしたいと思うからです。



昭和19年「在華領事館警察署」所在地図

2019年01月12日 | ☆記憶
戦時中祖父がいたという領事館警察。一体どういうトコロなのだろうかと興味が湧いてきた。
治外法権の最大活用(中国側からみたら濫用か)中国各地に置かれたものだとわかった。
ウィキペディアで「在華領事館警察署」の一覧を見た。
どのくらいの範囲に分布していたのだろうかとおもって地図に落としてみた。
すごい広範囲にわたっている。

何というか、当時の日本の「本気度」を感じる地図になった。

このなかでも「南昌」は奥地だなぁ。
でも熊本出身の祖父から見れば、東京と距離的には大して変わらない。
台湾から見たらうんと近い。




在華領事館警察署
1944年(昭和19年)時点

張家口警察署
宣化警察署
大同警察署
厚和警察署
包頭警察署
北京警察署
豊台警察署
通州警察署
保定警察署
石門警察署
彰徳警察署
順徳警察署
開封警察署
新郷警察署
太原警察署
天津警察署
塘沽警察署
唐山警察署
柏各荘警察署
山海関警察署
芝罘警察署
威海衛警察署
青島警察署
坊子警察署
済南警察署
張店警察署
博山警察署
上海総領事館警察署
上海警察署
南通警察署
楊樹浦警察署
新市街警察署※候補複数あり、特定できず
寧波警察署
蘇州警察署
常州警察署
無錫警察署
杭州警察署
金華警察署
南京警察署
鎮江警察署
揚州警察署
徐州警察署
海州警察署
蚌埠警察署
蕪湖警察署
安慶警察署
九江警察署
南昌警察署
漢口警察署
武昌警察署
大治警察署
厦門警察署
広東警察署
海口警察署

関連記事「山河ありき」

祖父が生きていたら、なぜ台湾から戦地である中国大陸に(妻子を連れて)渡ったのかきいてみたかった。
「そりゃ給料が良かったけんたい」という返事かもしれないなぁ。
或いは、外地の警察官であれば召集されないとかそんなことがあったりしたのだろうか?


「山河ありき」 3

2017年09月05日 | ☆記憶
 九江市は中国側の警備がきびしく一応平静さを保っていたが、毎夜のように戦勝の爆竹が鳴り喧騒を極め、中国民衆のわれわれを見る目には憎悪が充ちみちて、何かのきっかけがあれば忽ち、掠奪、暴行が起り得る要素を孕んでいた。

この年はこの日本人小学校で越年するかに思はれたが、中国側の警備の都合からであったのであろうか、十月の初旬一隻の汽船に乗ることを命ぜられ、揚子江を百キロばかり下った「膨沢」と言ふところで降ろされた。

 この膨沢と言う所は、前に揚子江、後に小高い山が連なり、一筋道の両側には萱で葺いた屋根の民家が三十戸ばかり立っているだけで、誠に貧弱な寒村であった。

少し歩くと、周囲を鉄条網を張りめぐらした二階建トタン葺き木造の建物が十数棟立ちならび、聞くところによると、この建物はかつて日本軍が此処を通過するときの一時の仮活用に建てられたものであると言う。

中にはいると古びた畳が敷いてあり、日本軍が昨日まで使っていたと思はれる、水溜めのドラム缶、ドラム缶の風呂、木造の火鉢、大釜にかまど、鉄線を張った物干しまであり、木炭、灯油、塩も少々残っていた。

吾等がこれを最大限に活用したことは言うまでもない。この建物の周囲に張りめぐらしてある鉄条網は、日本軍がここに宿泊するとき自衛を容易にするために日本軍が張ったものと想像された。

九江、南昌の居留民凡そ八百名の秩序を保つために軍隊式に一つの大隊(南潯大隊と稱す)とし、その下に各々出身県別に中隊を作り、その核心となる「長」は皆んなが最も信頼する者を据えて、自治の態勢が一応できあがった。
中隊と言っても、独身の男女、筆者のように妻子をもつ世帯、まぎれこんできた復員軍人、軍属等で構成されていて、無秩序に雑魚寝するわけにもゆかず、日本兵士が残して行った「古筵」を使って、男女の区別、又世帯毎に筵を張って風紀上の秩序に配慮して寝起きした。

此処では中隊長が父、副中隊長が母、年長者が兄、姉として名実ともに形を変えた立派な家庭であった。
男は薪とり、副食の魚とり、井戸がないので揚子江の水汲み、女は炊事、洗濯、つくろい物に従事した。
「灯り」がないので暗くなれば眠り、明るくなれば起き出て自活の仕事にはげむ原始的な生活であったが、全員無事に故国の土を踏むと言ふ共同の目的が支へとなり、互の絆は強くなっていった。
吾々の中隊には終戦まで看護婦として活躍してゐた、二十才から二十六歳位までの若い未婚の女性が十数名いた。化粧は一切せず素顔のまヽ黒髪も男のように刈りこみ、中国警備兵の目を惹かないようによそおはせてゐたが、小麦色にかがやく健康色は隠すすべもなく気にかかった。

   筵の戸互に開けて初笑
は明けて昭和二十一年の元朝の句である。
昨日まで戦勝国の国民として、中国の民衆に接していた者が一夜にして乞食同然の境涯に転落した、今日の姿を客観的に見た感慨の一句である。

新年と言ふと中国側も何か目新しいことをして見たいのか「中食を共にして日中戦争をテーマに懇談したい」と言ってきた。
警備本部の一室に日中双方の主だったものが相対して通訳つきで懇談が行われた。懇談と言っても、勝者と敗者の懇談で対等に意見を述べられる訳でもないのに中国側は、「日本の敗戦の理由」「今後の日中関係」について日本側の率直な意見を強くもとめた。第一の問題については積極的に発言する者がなく、只今後のことについては、同文同種の民族として仲よくやってゆこうと言ふことで終った。
木々が芽ぶき春風が吹いて清朝時代の詩人「杜牧」の詠った

   「千里鴬啼いて綠紅に映ず
    水村山郭酒旗の風」

の詩を思わず口ずさみたくなるほど江南の春は駘蕩としていた。

青柳のクリークには、鮒や鯉が手掴みにできるほどいて獲っては目刺にしてよく食べた。食ふだけの貧しい明け暮れであったが、中国当局のあたたかい取扱いに救はれて心にいくぶんの餘裕さえ生まれていた。

中国の警備兵とわれわれ相手にラーメン、支那万十を出す店もできて、三十戸ばかりだった寒村は百戸ばかりに膨れあがり一筋道は活気を呈しはじめていた。

居留民の中にはこっそり衣類などと交換した支那酒を収容所に持ちこみ酔い痴れる者もいた。
五月になると雨の日がつづき揚子江は急に水嵩を増して川幅を広げ海のようになった。
そんな或日中国側から配船の手当がついたので、明後日上海に向けて出発すると知らせがあった。
あわただしく身のまわりの物をまとめて、八ヶ月ばかりすごした膨沢とも別れる日がきた。



乗船して三日目に上海に到着「日僑収容所」と看板の出ている倉庫の筵に落ちついた。
自活に必要な炊事道具等一切備付けがあり、昨日まで帰国を待つ日本人が住んでいたことを思わせた。倉庫であるので採光の悪いのは当然として、多人数に便所の少ないのには困惑した。

外出は危険と言ふので一日中うす暗い土間にごろごろしていた。二週間ばかり過ぎた頃から、不衛生と栄養失調から皮膚病と眼病が流行し、収容所の生活が限界にきていることを思った。


上海での抑留生活も二十日ばかりで終止符を打ち、昭和二十一年六月二十二日梅雨の真只中にアメリカのリバティ型の船で博多に上陸、十ヶ月餘に亘って苦楽を共にした南潯大隊はここで解散して、それぞれの故郷に帰って行った。

   ふるさとに山河のありて蛍とぶ




 歴史の風化と共に茫々四十年の昔を必死に思い起し、事実を正確につづったつもりであるが、筆者の記憶違いがあるかも知れない。
それは偖ておいて、裸一貫が引揚者の代名詞と言われた当時、われわれは寝具の外に各自三十キロまで携帯して帰国をゆるされ、家族と共に健康で無事帰国できた裏には、時の支那派遣軍総司令官岡村寧次大将の苦心と、国民政府陸軍総司令官何應欽将軍の暖い配慮があったことを知り、一人でも多くこのことを知って貰ふために、「何應欽上将軍著(台北正中書局刊行)中日関係と世界の前途」の中に附録として、岡村寧次大将の書かれた「徒手官兵」と題した記録を末尾に付す。



「山河ありき」 2

2017年09月04日 | ☆記憶
この日を境に南昌は大混乱におちいった。

 混乱の模様をいちいち写しとったら、きりがないので省略するが、東京の外務省からは領事宛に、「在留日本人をまとめて無事帰国せられたし」との電報を最後に、一切の通信連絡はとだえた。機を失せず、南昌市の辻という辻に壁があれば壁に貼り出された国民政府軍最高司令官、蒋介石氏(故人)の「暴に報いるに暴をもってするな、日本人に理由なく危害を加えた者は直ちに死刑に処す」との佈告を読んで少しは落付いたが死の恐怖は去らなかった。

 当時私には妻と五才と三才の子供がいて、明日の運命さえ予測され難い極限状態におかれると、「詩」などを生む余裕は失われていた。其のなかに或晩句友が見せた、

   さすらいの民に雲濃き今日の月
   月今宵傷心覆い難き身の

の句は忘れ難く今でも憶えている。

 日本軍は早晩武装解除が行われるであろう。そうなれば、女子供を含む約三百人の在留日本人の運命はどうなるか?糸の切れた凧みたいな存在になるのは目に見えていた。
協議のすえ当面の自衛策として、先ず米と塩をたくわえ、小銃、手榴弾等を隠匿して、最悪の事態に備える事にした。

 或日街の中に爆竹等が鳴り騒然となったので、出て見ると、何度か嫌政府で談笑し飲食を共にした事のある、県長(知事に相当)以下逃げ遅れた幹部等が敵国に協力した漢奸(祖国に弓をひいた最大の裏切者)として、後ろ手に縛られ、頭には「三角帽」を被せられ、洋車(やんちょう)(人力車)に乗せられて市内を引廻されているところであった。

 あまりにも変わり果てた県長の姿に一瞬息を呑み、正視することが出来なかった。
 こうした事態の中で、未だむきずの日本軍将校の或る者は、飲酒抜刀して「俺は降伏などせん」と料亭の柱に切りつけたり、訳もなく拳銃を発砲したり、いたる所で、其の狂気が見られた。

 終戦後素早い行動をとったのは憲兵であった。彼等は凡ゆる交通機関を利用して、街から姿を消した。今考えて見ると最も賢明な行動であったと思はれる。

 前面に展開していた、大陸では不敗の日本軍大部隊が揚子江を目ざして大移動を開始したのは、終戦後七日ばかりしてからであった。日本軍の武装解除を目前にして、軍から「南昌郊外を通過する部隊のために御迷惑と思ふけれども「湯茶の接待をして貰えないか」との申し出があった。総軍司令部から派遣されて慰問に来て居て、たまたま終戦に合い滞留していた、軍楽隊と共に南昌郊外の森に、あらん限りのドラム缶を集め、毎日そのドラム缶に湯を沸かし、通過する兵士にさヽやかな湯茶をふるまった。

 中国大陸の南方から真黒に日焼して汗にまみれ、近ずくと異様の臭気を放つ兵士が完全武装のまヽ続々と吾等の待つ広場に、しばしの憩をとった。一杯の湯茶に喉をうるほした兵士の中には「日本人の女が居る」と感動のあまり棒立になる者も居た。永い間戦塵にまみれ中国奥地の山ばかりを見てきた兵士には日本婦人の着物姿はたまらないなつかしさを覚えたに相違ない。

 大休止が解けて、赤茶けた丘の上で軍楽隊が奏する「蛍の光」は恰かも帝国陸軍の最後をみとる葬送曲のように聞こえて、言葉では言い現せない悲しみが胸を突きあげてきた。横に整列した、女接待員等は、ハンカチで目を押さえすすり泣いて行軍の兵士を見送った。日本軍の敗戦を信じ難い様子の行軍兵士には「何故泣くのか」判らなかったかも知れない。日本刀を吊し背を正した馬上の部隊長、それに続いて歩いて行く兵士の横顔に折柄落ちかかった大陸の夕日が紅く染めてゐた。

 世界最強の軍隊として世界中の人々に怖れられ、吾々日本人も心からそのように思っていた、日本帝国陸軍の最後の姿がここにあった。

八月十五日の終戦記念日が近ずくと、その時の光景がまざまざとよみがえる。

その頃北満はソ聯軍の侵攻により毛沢東の率ゆる共産軍の手に落ち、南昌前面には、「新四軍」と言う共産軍が国民政府軍の目をかすめて出没しては、密かに日本軍に「吾々に味方しないか」と誘いかけてくると噂の種にされていた。
もともと国民政府軍と共産軍共同で日本軍に当たっていたが、今、日本の降伏によって、遅かれ早かれ国民政府軍と戦わなければならない宿命にある共産軍にとって降伏した日本軍兵士を一人でも多く自己の陣営に引き入れたかったであろう。

 この新四軍という共産軍は、一般社会では当然のことであるが、農民達が野菜をくれても、或いは泊っても必ずその代価を支払い、必要があればよろこんで農家に奉仕すると言うぐあいで、今までの「奪う」「犯す」「焼く」の兵隊とは、うって変って厳正な軍紀のもとに行動する軍隊として、民衆の心をしっかり掴んでゐるようであった。
国民政府側では武装のまヽの日本軍を放置して置くのは危険と感じたのか、終戦から十数日過ぎの暑い日に吾々が最も恐れていた日本軍の武装解除が行われた。もうわれわれの背後には力強い後楯はない。自力で生きてゆくほかはないと決心した。

階級章だけつけた丸腰の兵隊は「徒手官兵」と稱され復員に便利な揚子江沿岸の荒地に自から竹の柱に萱を葺き、自給自足の態勢で船を待つことになった。

日本占領時代の和平地区では、南京臨時政府発行の「儲備券」が唯一の通貨で、吾々の月給もこの通貨で支払はれていたが、終戦と同時にこの通貨は紙切れ同様となり、代って国民政府の発行する「法幣」が流通することになった。このことは和平地区の民衆とわれわれが無一文になったことを意味する。

 日本軍武装解除後の南昌市の治安は中国軍の警備に任されていたところ、或る日日本人商店に陳列してあった、綿布を暴民が持ち去ろうとしたのを警備の兵士が阻止しようとして爭になり、これを口火に掠奪は全市にひろがり、日本人が市内に雑居していては、いつどんなことが起るか判らない状態になったので、警備当局の好意を受けいれ、昨日まで日本軍の司令部であった跡に集まり難を避けた。翌々日だったと思ふ、自活に欠くことのできない食糧品、綿布等を二十余隻の帆船に積み込み瀋陽湖を経て揚子江沿岸の港町、九江市の日本人小学校に辿りついた。


つづく

「山河ありき」 1

2017年09月01日 | ☆記憶
祖父の書いた戦中戦後の回顧録を従妹が持っていました。今回、従妹から見せてもらい、その内容に大変驚きました。知らないことばかりが書かれていました。
それほど長い文ではないので、ここに数回に分けて再録しておこうと思います。






山河ありき


 筆者が中支の南昌日本領事館警察署の警察官として赴任したのは、支那事変が拡大の一途をたどり、漢口がやっと陥落した昭和十五年の夏であった。

当時同市に行くには、先づ長崎から船に乗り、上海に上陸して大陸の内航船に乗り換え揚子江を北上し、首都南京を経て更に同江を遡航、二日がかりで九江市に到着、ここから鉄路を西南に向け、軍事輸送の貨車の片隅に八時間ばかり座って居て、やっと南昌に着くと言う経路をとっていた。

 南昌は中国大陸の東西南北のほぼ真中に位置し、江西省の省都で、当時人口約三十万と言われ、日本人はもとよりかって外国人が住んだことのない、最も排他的思想の強いところといわれていた。それだけに四千年の歴史をもつ中国奥地の中国人の素顔が「生」で見られた。例へば女の纏足(幼少の頃足指をまるくしておき活発に外に出られないようにして浮気を封ずる)男の弁髪(黒髪を肩まで垂らす)の遺風がいたるところで見られた。

 周辺には日本軍約二個師団が展開、南進の拠点として重要視されていた。在留日本人も六百人をかぞえ、主として軍相手のサービス業、貿易等に従事していた。南昌警察署は警部署長以下十二名で構成され、在留日本人犯罪の取締りと言うより、むしろ指導に重点がおかれ、日本人の保健衛生から戸籍事務等まで担当し、言うなれば警察権を持った町役場のような存在であった。署長は福島県人で、号を「桃村」といい、大変俳句の好きな人であった。土曜日には全署員が広い署長室に集合、句会が開かれるのが常であった。しかしみんな進んで出席していたわけではなかった。「趣味の押し売りだ」とぶつぶつ言いながらも、出席しないと署長の機嫌をそこねるからである。

 当時の外務省警察官の昇任はその所属長が推薦した者のなかから、競争試験で昇任する制度であったから、まず所属長の気に入らねばならない事情があった。「俳句の一つも出来ないようでは常識人としての教養に欠ける」と言うのが、俳人署長の口ぐせであった。従って毎土曜日の句会のやりかたは独善的で誤字脱字があろうものなら「それで報告書が書けるか」と其の場で叱られた。

 其の当時の句で今も記憶に残っているのは誰の句であったか、「移り住む難民の群夏木立」の句である。現在のカンボジヤの難民を想起させそうな句である。

 俳句の先生であり、署長である「桃村」師の俳句指導は、あたかも大工見習いが師匠に手を取って教えられるようにして、頭から俳句をたたきこまれた。桃村師との出合いが、すなわち私の俳句につながる出合いであった。否応なく強制されて俳句の世界に踏み込んだが、一年以上も俳句に親しんでいると、自然に俳句の「よさ」、「面白さ」がわかって来て興味を覚えるようになった。「ホトトギス」にも投句をはじめた。

 当時のホトトギスは極めて厳選で、一年つづけて投句しても、一句も入選しないのが常識とされていた。
私に俳句の目を開かせた恩人は、福井県人で、しかも親友の奈良邯子であった。彼は若い頃から俳句に興味を持ち、その当時すでにホトトギスへの入選の経歴をもっていた。俳壇の消息にも通じ、虚子のホトトギスを「一つの企業」と言い、「虚子は偉大な俳人であると同時に企業人である」と評していた。

 当時南昌には軍報道部が発行していたタブロイド版の新聞があるだけで、ラジオさえ聞くことは出来なかった。中国本土の奥地にあっては、この新聞が戦争の行方、国内の情況、世界の大勢を知る唯一の拠りどころであった。毎日戦況を知らせる景気のよい活字が列んでいたが、敗色はおおうべくもなく、連日の爆撃と重慶側のゲリラにふりまわされ、夏雲を仰いでの嘆息の毎日であった。

 昭和十九年も末になると、在留日本人で妻子を内地に帰すものが急に多くなった。

 揚子江(今は長江と呼ぶ)は日本陸海軍で何とか(昼間は米機の爆撃で危険)安全が保たれていたが、上海─長崎間の海上航路は、潜水艦の出没で危険となり、はるかな鉄路をとって、当時の首都南京に出て、京漢線を北上、現在の首都北京を経て満州に入り、朝鮮半島を縦断して南下し、終点の釜山から、旅客船で下関に上陸するという大変な旅行をよぎなくされた。

 外務省の警察官は外地に三年間大過なく勤めたら、官費で帰朝することができ、三ヶ月間内地で静養できるしくみになっていたが、有資格者であっても戦争中のことであり、なかなかその権利行使ができにくい状態であった。しかし、親友「邯子」君は家庭の事情を訴えて再三帰朝願を出し、三ヶ月以内に任地に戻る事を条件に許可され、妻子を連れて福井市に帰郷した。

 同君が帰って来たのは昭和二十年四月で、「日本の国土のほとんどが制空権を失い、焦土と化しつつあり、国民は疲れきってゐて、今講和がなければ破滅するのではないか」と、その帰国談にはただただ驚くばかりであった。そうこうするうち、欧州ではその年の五月一日、米英ソの連合軍がベルリンに突入し、ヒットラー総統は自殺したと伝えられた。

 その時の気持ちとして、じっとしておれず、当時南昌市唯一の台湾銀行の応接室でドイツ滅亡の追悼句会を開いた。憲兵に知られるとめんどうになるので本当に気心の知れた一心同体の者七、八名が集った。
残念であるがその時の句は、私の句を含めて次の四句しか記憶していない。

     ドイツと言ふ国かつてありき花茨(いばら)   邯子
     もう出ない陽が沈み行く夏野かな        鶴子
     バラ活ける刻も失いドイツ逝く         了夏
     巨(おお)いなる国の崩るる日の薔薇(さうび) 礁舎

ドイツは二度までも大戦を引き起こした張本人として、再び日の目を見る事はなかろうと言うのがその時の我々の結論であった。

 我々の身にふりかかる破局は間もなくやって来た。八月十五日の無条件降伏である。
                                


...つづく




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