今回の弾丸帰省でやりたいことがありました。
熊本城下町の町人まち、新町と古町の散策です。
熊本で育ったものの、ほとんど足を踏み入れたことがないエリア。
歴史好きの父と歩けばいろいろ教えてもらえそうです。ワクワク。
父は老人会の街歩きイベントで定期的にガイドをしていて、新町や古町も以前に歩いたことあるらしく、「新町・古町を歩きたい」というと、早速その時使った街歩きのしおりを送ってくれました。(記事中に引用したのは父作成の案内文です)
熊本市電B系統、上熊本駅行きに乗ります。
レトロタイプの車両、ラッキー!
父の街歩き案内文は、こう始まっています。
新町
新町は加藤清正が作った町人町で大坂や名古屋から清正を慕ってついて来た商人や職人及び地元の商人、職人を定住させて形成した町人町である。これに対して明八橋対岸の古町は二本木町の商人を移住させて形成した。
藩政期の新町は城下に居住する武士階級へ生活用品を供給する町人町として、それなりに繁栄していたが、明治になると様相は一変する。明治6年、鎮西鎮台が熊本鎮台と改称されて6師団が隅本城内に置かれ、徴兵令が施行されると兵隊2,300人が歩兵第13連隊に所属し、市内は軍人で溢れかえり軍都熊本と呼ばれるようになる。これが商売を刺激した。新町や古町の商人は「陸軍御用達」の看板を掲げ、師団や連隊に出入りして商売を拡大し、「御用達に非らざれば商人に非ず」と言わしめた。この状況は、景気の好不況等の紆余曲折を経ながらも昭和20年の終戦までつづいた。
洗馬橋電停で降ります。
洗馬橋といえばたぬきですね。
有名な産婦人科福田病院。友人が働いてます。
テレビで見たことはありますが、大きい!
このあたりは昔の塩屋町です。
塩屋町は船場橋から長崎次郎書店前交差点まで東西約370㍍の通りである。この通りを基点に南へ3本の路地が延びている。それを名裏小路と称し最も東側の路地を塩屋町裏2番丁、中央が同裏1番丁、その西側に同裏3番丁があった。また明治7 年には活版刷りの新聞が発行された。白川新聞がそれで白川県から熊本県になると熊本新聞(日刊)となった。そのほか銀行、米穀取引所、裁判所、写真館等ビジネスの街として発展した。
文林堂。
文林堂
初代丹邊総次郎が明治10年に創業した文房具店である。
丹邊家は代々細川家の御用染物師で、その閲歴は古く細川家の丹後統治時代より始まる。細川家が田辺(12万石)→中津(39万石)→熊本(54万石)と累進するとそれに従ってついて来た。
明治4年の廃藩置県後は塩屋町裏2番丁で旅館業を営むが西南の役で家屋が全焼すると戦後は文房具店に商売替えをした。熊本で初めて万年筆を売り出すなど商売は当たり文人墨客との交友が深まった。夏目漱石など有名人の色紙、書簡などが遺っている。当主の総次郎はのちに商工会議所理事、熊本市議会議員などを務め、熊本の名士となるが、市会議員のときに議員報酬廃止を唱え、自身は報酬を返上した。
ノブレスオブリージュですね。
名士はこうあってこそ、尊敬が集まるのだと思います。
新町電停前の古民家レストラン「クラシク」。
同級生がおすすめしてくれましたが、またの機会に。
新町電停そばの「長崎次郎書店」、まだ開店前です。
ここの2階のカフェにもいつか行ってみたい。
今回は開店時間を待って、1階の本屋さんへ行きました。
井野春毅歯科医院開業の跡
井野春毅は明治19年3月35歳の時、塩屋町2丁目5-20菓子店棟永トキ宅に九州で初めて歯科医院を開業した。
井野は嘉永5年(1852)9月菊池郡合志町に生まれ幼少期をそこに過ごし、明治7年23歳の時熊本医学校へ入学する。同級に北里柴三郎がいて、ともにオランダ人医師マンスフェルトの教えを受けた。
明治10年の西南の役には軍医として従軍、戦後上京して警視庁警察医となるが、2年後28歳の時にその職を辞して歯科医を志し、30歳の時、東京神田に歯科医院開業。
明治17年33歳の時、日本最初の医術開業試験委員(歯科担当)となる。その後宮内省侍医拝命、日本で最初の歯科侍医となる。明治天皇は歯痛が起きると井野の手当を受けた。
熊本での開業は1年で終了し、翌年にはロシア領ウラジオストックやハバロスクで診療活動に従事し、39歳の時に帰国、東京神田で再び歯科医院開業、14年間これを継続するも53歳の時に日露戦争が勃発すると、医院を廃業、一転して天草郡で牛深炭鉱の経営に乗り出す。ここらが野心家井野春毅の面目躍如たるところ。炭鉱経営が巧くいったのかどうか記録がないが、4年後の57歳の時には炭鉱経営を切り上げ、上海で歯科医院を開業し、大正元年11月26日、61歳で死去するまでの4年間を歯科医として上海で過ごした。
こうして聞くと昔の人のダイナミックなことに感心します。今もこういう人いるのかな??
市立一新幼稚園
ここは藩の「御客屋」があったところ。「御客屋」は藩の迎賓館であり藩にとって外交上大切な客を饗応し、或いは泊めた。例えば幕府や他領の使者などである。元治元年(1864)2月坂本龍馬が横井小楠訪問の途次、ここに泊まっている。藩側の応対者は小姓頭、用人、右筆頭クラスの人たちであつた。
廃藩置県で「御客屋」が廃止されると、山田武甫等が実学党の学校「会輔堂」を開いた。明治5年明治天皇巡幸の際は、ここが行在所となる。明治7年には「会輔堂」が廃され熊本仮師範学校となるが、これは短期間で移転し、以後大正8年まで一新小学校となる。その跡に一新幼稚園が開園した。
幼稚園ではちょうど運動会やってました。
清爽園へ。
ここにはいろいろなものがあります。
高札場だったとか、細川家の庭園の庭石を持ってきてあるとか。
新1丁目御門、札の辻、清爽園
藩政期、新1丁目御門は熊本城の正門入り口である大手門であった。明治の5.6年の頃までは建物が存在したが同7.8年頃の地図には記載がないのでその頃破却されたようだ。御門の横に「高札場」と「札の辻」があった。
「高札場」とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目をひくように高く掲げておく場所のこと。ここに掲げられる札は親子札,毒薬札,切支丹札,火事札,駄賃札,火付札,抜荷制札,荷物之次第札などがあった。
「札の辻」には藩の里程元標が設置され、ここを基点に豊前・豊後・薩摩・日向への理数が測られた。その際に、1 里、2 里、3 里と進むごとに街道の両側に榎木を植えて、これを理数木とした。現在でも駅名やバス停にその名称が遺っている。
「清爽園」高札鳩と札の辻のある広場は清爽園という公園になっている。ここには明治12年に建立された弔魂碑・殉難碑がある。弔魂碑は明治初期に起きた佐賀の乱、台湾の役、神風連の乱、西南戦争で戦死した将兵の霊を弔い、殉難碑は西南戦争における県民の殉難者の霊を祭るものである。
「台湾の役」がピンときませんでしたが、台湾出兵、牡丹社事件のことですね。牡丹社事件のことはこのブログでも以前書いてます。
このときは台湾側から見たことを書きましたが、
そうか、熊本から派遣されていたのですね。
おおきな空き地がありました。
もとはYMCAがあったはず、と父が言っていました。
マンションになるのでしょうか?
ここにもとは熊本市が建てた歴史の案内板があったそうですが、工事のために撤去されてしまったようです。前に父が来た時に案内板が無くなっているので工事の人に尋ねたのだそうです。現場責任者の方は親切に問合せしてくれて、工事前に熊本市が撤去したと教えてくれたそうです。
きっと工事が完了したら元に戻るのでしょう。
電信町
明治8年3月20日、ここに熊本県で最初に電信を開始した熊本電信局が設置された。当時町々では文明の利器「電信」のうわさでもちきりで誰いうともなく、このあたりは電信町とよばれた。
明治9年の神風連の変で襲撃され死亡した鎮台司令長官種田政明の愛妾「小勝」はここから東京の親元へ「ダンナハイケナイワタシハテキズ」と電報で報せたが、その文章が電文の模範として有名になった。
西南の役激戦の跡碑
ここは西南の役のとき「段山口の戦い」といわれる激戦があったところ。明治10年2月、開戦初日にこの地の守備に当たっていた与倉知実(歩兵第13連隊長、中佐)は陣頭指揮の最中に銃弾を受けて重傷を負った。すぐに後送されて手当を受けたがその日のうちに亡くなった。折しも二の丸空堀の天幕の中では夫人が女児を出産していた。
この何でもないような民家の裏庭みたいなところに、父が、ずんずん入っていきます。
「ちょっとお父さん、こんなとこ入ってっていいの?よそ様の家の敷地…」
父についていくと、面白いものがありました。
「どんぶり池」というものだそうです。
どんぶり池
藤崎台の崖下に「どんぶり」と称する湧水池がある。真上に7本の楠の大木があり、その奥にも野鳥園の林があって、それらが水源らしく思われる。新町一帯は往古は沼沢地で井戸を掘っても水質が悪く飲用には不適であった。そのため住民はこの池の水を汲みに来るか、一荷いくらの水を買って炊飯用に当てていた。
父はこれを調べに何度かここにきてて、この民家の方とも仲良くなったそうです。この日はお留守のようでした。残念。
ただの駐車場のように見えますが、能楽堂です。
藤崎八旛宮御旅所
薬師坂を少し登ると左側に広場があり奥に能楽堂がある。ここが藤崎八旛宮の御旅所で、9月15日の御神幸は、藤崎宮からここに向かって出発し、昼間はここに休息して能を見物された後、夕随兵を整えて本社へ帰られる。能は金春流、喜多流等で新町は伝統的に能が盛んな所で演じる人たちも多い。
看板にある狩野琇鵬さんの息子さんがあちこちでお名前を拝見する狩野了一さん。能を習っている友人が喜多流なので、写真を撮って送ってあげました。友人は狩野了一さんにもお世話になっているみたい。
「勢屯~せいだまり」のところの会社のシャッターに、勢屯の絵が。
勢屯というのは「武士が集まる場所」の意味で、城郭のあちこちに広場のように作られている。新町には7か所あるそうな。
おっきな商家があります。
電車通りからも。
毒消丸の吉田松花堂
初代吉田順碩は長崎県諫早の人でシーボルトの鳴滝塾で西洋医学を学んでいたが、シーボルト事件後熊本に逃れてきて現在地で町医を開業した。この人は「医」よりも「薬」の方で大きな成功をおさめた。すなわち下痢の妙薬毒消丸である。日清、日露の両役では軍にも買い上げられて一躍財をなした。現在は旅行時などに携行する保健薬として人気が高い。
高麗門
加藤清正が花岡山方面からの敵を防ぐために造った29門の1つで朝鮮高麗門に準じて築造した。朝6時に開門し夕方6時には閉門した。藩政期のこの辺は木挽き職人が住んでいたので木挽きの町とも言われる。
「高瀬の大工棟梁善蔵の話」
慶長年間のある年のこと、加藤清正は小姓ども5.6人を従えて高麗門の建築現場へ視察に来た。工事は順調に進捗しており、足場には大勢の大工が取り付いて、きびきびと立ち働いており、清正は上機嫌で「大工どもはよく働いてをるわい」と周囲へ声をかけたりして、しばらく見物していた。その時、馬上の清正の足元へ金槌が落ちて来た。「無礼者・・」と色めき立つ小姓たちを目で制して、「それをこれへ」と小姓に命じて拾い上げさせ、それを持って足場の下まで行くと、大工の1人が足場から足だけ下げて、「これに着けろ」と言わんばかりの仕草をした。清正はだまってそのようにした。男は礼も言わず、だまって受け取ると、元の場所へもどり何事もなかったように黙々と仕事を再開
した。この男が高瀬の大工棟梁善蔵である。清正も黙って引き上げた。
今のは殿様だったらしい、と判って現場に動揺が走った。「事もあろうに、殿様に物を拾わせた上に、それを足で受け取るなど、こんな無礼は打ち首ものだ」と言うのである。
そこへ奉行所から善蔵へ呼び出し状が届いた。「明朝、辰の刻(午前10時)奉行所へ出頭せよ」というのである。善蔵は一夜悶々としたが、明け方には覚悟がきまって、起き抜けに水垢離をとって身を清め下に白いものを着込んで奉行所へ出頭した。庭先に平伏していると、清正が出て来て「善蔵か、大儀である、面を上げよ」とお声がかかった。恐る恐る顔を上げて正面を見た。そこには目を細め、口元に微笑を浮かべた清正の温顔があった。脇に置かれた三方には褒美の銀子がうづ高く盛ってある。「以後も励め」というお声がかかって、善蔵は身の幸運に感涙した。
細川忠利公の代になっても、善蔵は何かにつけて「先々代様」と口癖のように言った。「先々代様」とは清正のことである。
面白い話ですね。
新鳥町
100年以上つづいた戦国時代が終わり江戸時代に入ると、人々の生活にも趣味を愉しむ余裕ができた。その愉しみの1つに小鳥を飼う趣味があった。この通りの両側に鳥屋が軒を並べていたのでこの名がある。
職人町(上中下)
江戸時代多くの職人たちが住んでいた。当時の税は間口の広さできめられていたから、どこも玄関の間口は狭いが奥行きがある。上中下にわかれたこの町は新町の中央部を南北に貫いている。職人町というくらいだから各種の職人が居住していたが、その中でも菓子職人が最も多く菓子の町とよばれた。戦前は下駄の歯菓子という黒砂糖の菓子、カリント、鬼の腕、寒菊、朝鮮飴、生姜糖を作って大正から昭和初期にかけてが最盛期で、県外からも仕入れの客が入り込んで繁盛を極めた。
父が「この道は今は狭いけど、昔は菓子の仕入のひとたちでとてもにぎわっていた」なんて話をしてくれていたとき、ちょうど家の前にで庭木の手入れをしている人たちがいました。
父は必ず話しかけていきます。
お話を聞くと、このおうちもお菓子を作っていたそうです。
「うちはあられを作っとりました」とのこと。
ここのお宅も、奥に細長く敷地が続いているようでした。
こうやって町ガイドのネタを仕入れていくのですね。お父さん。
職人町と並行して走る青桐横丁。
熊本で一番古いパン屋さん。
うちの近所の横浜の老舗「ウチキパン」も明治21年創業でした。
熊本も横浜に負けてないですね。
いくつかお買い物して、帰りの飛行機で美味しくいただきました。
明治18年とも書いてある?
どっち??
パンの松石
初代鶴次郎は柳川の人で明治21年熊本に出て小さな菓子店を開いた。明治35年長崎へ出て、パン製法を習得して帰り熊本で初めてパンと洋菓子を製造販売した。
この街歩きをするにあたって、熊本の昔の写真をネットで何枚かみましたが、ほとんどが 富重写真所 のクレジットが付いていました。
この写真やさんも現存しています。(営業されているかどうかはわかりませんでした)
富重写真館
富重利平(天保8 年(1837)~- 大正11 年(1922)は、明治時代の写真家。長崎で上野彦馬より写真術を習得し、彼と共に日本写真界の草分けとして活躍した。熊本で写真屋を開(明治3年)き、軍部の依頼で焼失前の熊本城その他を撮影。明治時代の風景、人物など貴重な記録を写真に残した。
街のお店に貼ってあった昔の新町の絵地図。
こうしてみると、熊本が城下町だというのがよくわかります。
新町は、古いものがどんどん減っていて、空き地とマンションも目立っていましたが、興味深い場所でした。
このあとは明八橋を渡って古町へいきました。。
古町篇はまた改めて書きますね。
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