キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

五家荘で紅葉狩り

2023年11月20日 |   └─くまもと
文化の日がらみの連休、熊本に帰省しました。
1日は五家荘へ紅葉狩り。

五家荘と言えば、平家落人伝説ですね。
球磨川流域で育ちましたが、これまで行ったことないんです。
熊本の人にとっては「紅葉狩りと言えば五家荘」って感じなのでしょうか?

うんと小さいころ、マイカーが我が家にやってきてまもなくのころかな?父の車で「今日は五家荘(もしくは五木村)へ行くぞ!」と言って出かけたことがあった記憶がありますが、途中の道が狭くて崩れそうで、結局五家荘までたどり着かなかったと思います。
当時は道も今のように整備されていなくて、とても恐ろしかった記憶です。

さて、今回は?

熊本市内から緑川をさかのぼり、砥用を過ぎてから九州山地へ入ります。
国道445号。


グングン標高を上げて二本杉峠(標高1100m)を越えたころから、紅葉が美しくなります。二本杉峠展望台にも行きましたが、晴天なのですがかすんでいて展望がいまいち。


二本杉峠展望台




峠を超えたあたりから、美里町から八代市に入ります。
川辺川の支流の上流の渓谷を下りて、梅の木轟のつり橋を目指します。







梅の木轟のつり橋。



梅の木轟も見てきました。
これは途中の渓流。





夏はさぞかし涼しくて気持ちよいでしょうね。


樅木地区にある「五家荘平家の里」
小学校の跡地に古民家を移築して作られたもののようです。
入場料410円。




おそらく近年作られたと思われる能舞台や資料館がありました。
うしろの紅葉もそれに合わせて植えられたものかも。





なかなか雰囲気有り。
でもこの能舞台、1年のうちそう何度も使われてはいないのではないかな?
交通アクセスがとても不便だから仕方ないけど、もったいない。


資料館お腹にあった平家にまつわる人形と紙細工の展示は精巧でみごたえあり!


あ、これは懐かしい大河ドラマのポスターが。

平家の里には食堂もあり、ここでお昼にしました。
つなぎを使ってないそば100%の手打ちそばが食べられます。
素朴な手打ちそば、美味しかったです。


移築された古民家が何棟かあります。
民具が展示されてるところもあり、ゆっくり見ればこれもなかなか面白そう。





天然記念物「久連子鶏」が飼われていました。



こちらは椎原地区の「緒方家」
平家落人を先祖に代々この地に住み続けてきた緒方さんの家です。
これは300年ほど前、江戸時代に建て替えられたものだとか。
係の方が詳しく案内してくれました。





「二本杉峠から来た」というと「あそこは国道ですけど酷道ともいうくらい道が大変ですよ。帰りは別の道の方がいいですよ」と教えてくれました。

途中、ここの分かれ道で住民の方に道を尋ねました。
親切に教えてくれたのですが、子別峠で間違ったみたいです。







すすきの野も美しい。




端海野で拾った小さな栗のイガ。
これなんて言う栗なのでしょうね?




緒方家で教えられた道を行こうとしたのですが、
途中で間違えてしまったようで、「端海野」から先「大通峠」までは舗装も剥げ落ちているような過酷な道を行くことになりました。



五家荘の道は狭くて離合がままならないので、何度も対向車と鉢合わせしては、どちらかがバックしあって道を譲る必要があります。

でもこの過酷な道はその過酷さ故か誰も使わないらしく、1台も対向車がなくて何とか走り切りました(父が)。あそこで対向車来てたら、崖に真っ逆さまとかもあったかも…怖い。

紅葉の季節の五家荘は、山道が一方通行になるそうです。
(私が行ったときはまだ規制がなかった)
多少不便にはなりますが、山道での「離合」はとても大変。いい措置だと思います。

全走行距離100キロちょっとでした。

金峰山頂の竹製ブランコに乗ってきた

2023年11月09日 |   └─くまもと

文化の日の連休、熊本帰省してきました。11月だというのに異常な暑さでしたが、両親とドライブ楽しみました。

何十年ぶりに金峰山の頂上まで登りました。(車でですけどね)金峰山に登る道は、のぼりとくだりで車両は一方通行になっていて走りやすいですね。






山頂駐車場の係の方に「ブランコ乗っていってくださいね」と言われました。
噂でブランコがあるのは知っていましたが、子供用かなと思ってました。大人も乗っていいなら乗りたい。でも混んでたら子どもたちに譲らなきゃな…。



行ってみると、なかなか大きなブランコです。竹の大木(という言い方はおかしいけど)を使ってあります。
5人くらいしか並んでない。子どもが多いけど大人一人で乗ってる人もいる!並んじゃお!


ブランコは金峰山の頂上の西側に作られていて、有明海を挟んで雲仙普賢岳を望む方向です。真下は斜面で大きく漕ぐと海に放り出されるような爽快感とスリル。

11月26日までだそうなので、興味のある人行ってみてください。


以下、熊本市のホームページから転載。

『大空に飛び出すような開放感! 山の上の絶景ブランコ』
 金峰山山頂に、放置竹林対策で伐採された竹を活用した大型ブランコを設置します。
 熊本市の最高峰・金峰山から、眼下に広がる有明海と島原 ・ 雲仙普賢岳に向かってブランコを漕ぎ出せば、青い空と海に飛び出すような爽快感が味わえます!
 遮るものが何もない絶景を楽しめる浮遊体験は、大人も子どもも夢中になること間違いなしです!

開催日:10月28日(土)~11月26日(日)の土日祝日
 営業時間:10時~16時(メンテナンス:12時00分~13時00分)


くまもと花博2023 まち山エリア

くまもと花博2023 まち山エリア / 熊本市ホームページ

熊本市ホームページ


おまけ
山頂から有明海

山頂から熊本市街

金峰山といえばテレビ塔

登山してる人もたくさんいました。


山頂でヒライの弁当



くまもと歩き 宮本武蔵の墓「武蔵塚」へ

2022年10月17日 |   └─くまもと
いつもの帰省時は、熊本空港からまっすぐ実家に向かうのですが、たまには別のコースも使ってみましょう。空港から無料のシャトルバスでJR肥後大津駅へ行けると聞いたので乗ってみたい!


くまモンが描かれたバンタイプのタクシーがシャトルバスです。
このときは乗車人数3人でした。

15分ほどで肥後大津駅に到着。
無料なんてありがたい。
はじめてきた駅です。

有名な杉並木を見てみたいです。
この区間の豊肥本線は車の道と合わせて昔の大津街道だったらしい(それほどお広くて大きな道だったんですね)ので車窓の景色が楽しみです。




短いですが車窓からの景色の動画です。
杉の木が続いているのがわかります。
いつか、歩いてみたいものです。


途中には台湾の半導体会社TSMCの工場も造られてるはず。
見えるかな?

見えました!
ニョキニョキと不自然なほどたくさん生えてる巨大なクレーンたち。
きっとあそこに違いありません。




光の森駅で降りてショッピングモールでお昼ごはんを食べます。
肥後大津から光の森まで4区間の列車の旅でした。
JR九州の列車はデザインも独特で乗るのが楽しいんです。
光の森からはバスで武蔵塚公園へ。

この日(10/1)バスの運賃は100円均一でお得でした。





前回の帰省のときに霊厳洞へ行って、今回は武蔵塚。
いい流れです。
とは言うものの、武蔵塚と宮本武蔵が関係あるとは今回まで全く考えてませんでした。

もちろん、武蔵塚とか武蔵ヶ丘といった地名は子供の頃から知っていたし、宮本武蔵が熊本にいたことも知ってはいたんです。
でも、日頃関東地方に住んでいて「武蔵○○」という地名を数多く目にしていると、熊本の武蔵ヶ丘とかも普通名詞のような感覚になっていたんです。

肥後大津駅周りで行くなら、どこに寄ろうかな?と考えながら沿線の地図を見ていたときに、
「もしかして宮本武蔵関係なの?!」
と思いいたり、調べてみたらお墓があったという話。

これは見ておきたい。
武蔵のお墓=武蔵塚 があるところは公園に整備されていました。

















宮本武蔵の銅像や説明版。
武蔵好きならぜひ訪れたいところだと思います。



お墓

出身地岡山のゆかりの人々の子孫が植えたという木や記念の碑がありました。






こちらはおまけ。
西南戦争のときに亡くなった松浦新吉郎と言おう人のお墓です。
遺言で武蔵塚のそばに葬ってほしいということだったのだそう。






バス賃が100円と知ったので、武蔵塚から水道町までもバスに乗り、くまモンスクエアとか鋒楽饅頭とかに寄って健軍の実家まで帰りました。
市電にのったらこちらも100円。助かったな~。




くまもと 新町・古町歴史散歩② 古町篇

2022年10月13日 |   └─くまもと



新町(洗馬橋)からスタートした街歩き。
次に向かうのは明八橋を渡って「古町エリア」です。







青物市場・魚市場
明八橋近くの川岸に青物市場と魚市場があった。野菜類は南は本庄、春竹、宇土方面から、北は島崎、花園、芳野村、河内から集まって来た。魚市場には島原、天草、筑後からは米、酒、薪炭を積んだ船が、高橋、小島、塩屋など河内海岸や宇土半島の網田、赤瀬からは魚を積んだ船が坪井川を遡ってきた。因みにこの市場は昭和38年に魚市場、同39年に青物市場が田崎市場へ移転した。


この日は10月だというのに真夏のような暑さで、結構体力消耗してきました。日陰日陰を選んで歩きます。
明八橋の上で記念撮影。

こうやって4人で街歩きしたのですが、洗馬橋電停前の文林堂のところで父の説明を聞いていた時に、ちょうど信号待ちしていた方がなんとなく父の説明に耳を傾けている気配。
「何の集まりですか?」と尋ねられました。
きっとこういう街歩きや歴史がお好きな方だったのではと思います。

私もよく横浜で、ガイドさんについてぞろぞろと歩いている人たちと一緒になると、ついついガイドさんのお話に耳をすましたりしますもん。




3丁目御門(明八橋)
新町と古町をつなぐ橋で新町側に御門があつた。この門は柳御門或いは3丁目御門とよばれた。この門を潜ると熊本城内であるので門の管理は厳重であった。高麗門と同じく朝6時に開門夕方6時には閉門した。なお「明八橋」の由来は明治8年に眼鏡橋に架け替えられたことによる。橋の工作者は石工橋本勘五郞である。



全景の写真を撮るのを忘れたのですが、下の写真の右上に写っている丸い街灯は、大正時代の写真と同じデザインでした。


西唐人町
幕末から明治、大正にかけて清永家の全盛期。この町は清永家の町と言ってよいほど清永一族の商店が軒を並べていた。清永家の当主は代々板屋猪太郎を名乗る名字帯刀の家柄で、幕末ペリーが来たとき熊本藩は横浜本牧の警固を命じられるが、その軍用金3000両、5000 両を清永家の口利きで此の地の商人が用立てた。その証文が残っている。



景観形成建造物・町屋
明治期の建造物で市の指定を受けている。平成元年(1989 )市景観条例が制定され現在までに18 件が指定されている。


お昼ご飯は唐人町通の店を予約してました。
ここです。
築140年の町家を使ったレストラン「ピュアリィ」。
中はどうなってるんでしょう?




暖簾をくぐって、背戸やみたいなところを通り抜けていきます。



建物は2階建てで、通り側から入ったら、川に向かって一階分下りる形。
もとは米蔵だったという地下空間で食事しました。
なんとも味がありますね。




せっかくなので、川の方へ出てみました。
坪井川です。
むかしは舟運が盛んで、ここから荷物を出し入れしていたのですね。



先に見えるのが明治10年にかけられた「明十橋」。
明十橋から下流右岸には昔米の取引所があったのだそうです。


熊本米穀取引所跡
明治24年に熊本米穀取引所が開設され、昭和16年廃止されるまで相場師たちのいちかばちかの張り合いが展開されて活況を呈した。数十軒の取引仲買人の店舗が建ち並び、そこへ出入りする客を目当てに飲み屋、食い物屋が軒を並べて賑わった。






唐人町通りの中ほど、明十橋のところに立派な洋館が。
大正8年築の旧第一銀行熊本支店跡だそうです。


明十橋を新町側にわたったところからパチリ。


明十橋通り旧第1銀行跡
大正8年第1帝国銀行熊本支店として開業、昭和47年熊本信用金庫唐人町支店となる。現在東京に本社のある空調機メーカーPS工業が空調機器の展示場及びイベント会場として活用している。








古川町・古庄本店
古荘財閥の母体は熊本市古川町の繊維問屋・古荘商店(現古荘本店)である。大正末から昭和の初めにかけて繊維事業に成功し、その勢いで銀丁百貨店、肥後無尽(のち肥後相互銀行)、大阿蘇観光道会社、熊本日産自動車、比島金貨メリヤス(マニラ)などを設立した。また、東京では日清生命保険、大分ではトキハ、小倉では井筒屋百貨店などを次々に傘下に収め、経営した。近代熊本の経済史を語るとき古庄商店の存在感は絶大なものがある。(松岡泰輔氏論文より一部引用)


鍛冶屋町通りは熊本一の高級商店街であった。久留米呉服店、油屋呉服店、森本襖表具店、小寺金物店、迫時計店、八木ラシャ店これらの商店は九州でも1,2 と言われる店構えであった。

鍛冶屋町通は唐人町通とは違うのかな?

お昼も食べて暑さもピーク。
そろそろ桜町バスターミナルに向かいます。
弾丸帰省なのでもう帰京しなくちゃなのです。

古川町にあったタクシー会社に荷馬車の車輪が飾ってありました。
このタクシーやさんも昔は馬車やさんだったのでしょうか?




電車通りをあるいて桜町まで来ると、
花畑広場ではちょうど「九州産交80周年」のイベントをやっていました。
ベンチで休憩していたら、大きなバスが到着してなかからセーラー服の女学生たちがわらわらと下りてきました。

「八代の白百合の制服じゃなかかな?」と父。
果たしてバスには「白百合女学園」の張り紙が。
すごいね、おとうさん。
楽器を運んだりしている様子、きっとこのイベントで演奏するのでしょう。

とおもっていたら、父がサッと女学生たちに話しかけています。
「何時からの出演ですか?」
もうすぐ次の出番のようです。

はつらつとした高校生がまぶしかったので、後姿をパチリ。




おまけ。
産交バス(回送)の行き先表示が80周年記念バージョンに。なってました。





くまもと 新町・古町歴史散歩① 新町篇

2022年10月11日 |   └─くまもと
今回の弾丸帰省でやりたいことがありました。
熊本城下町の町人まち、新町と古町の散策です。

熊本で育ったものの、ほとんど足を踏み入れたことがないエリア。
歴史好きの父と歩けばいろいろ教えてもらえそうです。ワクワク。
父は老人会の街歩きイベントで定期的にガイドをしていて、新町や古町も以前に歩いたことあるらしく、「新町・古町を歩きたい」というと、早速その時使った街歩きのしおりを送ってくれました。(記事中に引用したのは父作成の案内文です


熊本市電B系統、上熊本駅行きに乗ります。
レトロタイプの車両、ラッキー!






父の街歩き案内文は、こう始まっています。

新町
新町は加藤清正が作った町人町で大坂や名古屋から清正を慕ってついて来た商人や職人及び地元の商人、職人を定住させて形成した町人町である。これに対して明八橋対岸の古町は二本木町の商人を移住させて形成した。
藩政期の新町は城下に居住する武士階級へ生活用品を供給する町人町として、それなりに繁栄していたが、明治になると様相は一変する。明治6年、鎮西鎮台が熊本鎮台と改称されて6師団が隅本城内に置かれ、徴兵令が施行されると兵隊2,300人が歩兵第13連隊に所属し、市内は軍人で溢れかえり軍都熊本と呼ばれるようになる。これが商売を刺激した。新町や古町の商人は「陸軍御用達」の看板を掲げ、師団や連隊に出入りして商売を拡大し、「御用達に非らざれば商人に非ず」と言わしめた。この状況は、景気の好不況等の紆余曲折を経ながらも昭和20年の終戦までつづいた。


洗馬橋電停で降ります。



洗馬橋といえばたぬきですね。

有名な産婦人科福田病院。友人が働いてます。
テレビで見たことはありますが、大きい!
このあたりは昔の塩屋町です。

塩屋町は船場橋から長崎次郎書店前交差点まで東西約370㍍の通りである。この通りを基点に南へ3本の路地が延びている。それを名裏小路と称し最も東側の路地を塩屋町裏2番丁、中央が同裏1番丁、その西側に同裏3番丁があった。また明治7 年には活版刷りの新聞が発行された。白川新聞がそれで白川県から熊本県になると熊本新聞(日刊)となった。そのほか銀行、米穀取引所、裁判所、写真館等ビジネスの街として発展した。


文林堂。



文林堂
初代丹邊総次郎が明治10年に創業した文房具店である。
丹邊家は代々細川家の御用染物師で、その閲歴は古く細川家の丹後統治時代より始まる。細川家が田辺(12万石)→中津(39万石)→熊本(54万石)と累進するとそれに従ってついて来た。
明治4年の廃藩置県後は塩屋町裏2番丁で旅館業を営むが西南の役で家屋が全焼すると戦後は文房具店に商売替えをした。熊本で初めて万年筆を売り出すなど商売は当たり文人墨客との交友が深まった。夏目漱石など有名人の色紙、書簡などが遺っている。当主の総次郎はのちに商工会議所理事、熊本市議会議員などを務め、熊本の名士となるが、市会議員のときに議員報酬廃止を唱え、自身は報酬を返上した。

ノブレスオブリージュですね。
名士はこうあってこそ、尊敬が集まるのだと思います。


新町電停前の古民家レストラン「クラシク」。
同級生がおすすめしてくれましたが、またの機会に。


新町電停そばの「長崎次郎書店」、まだ開店前です。
ここの2階のカフェにもいつか行ってみたい。
今回は開店時間を待って、1階の本屋さんへ行きました。




井野春毅歯科医院開業の跡

井野春毅は明治19年3月35歳の時、塩屋町2丁目5-20菓子店棟永トキ宅に九州で初めて歯科医院を開業した。
井野は嘉永5年(1852)9月菊池郡合志町に生まれ幼少期をそこに過ごし、明治7年23歳の時熊本医学校へ入学する。同級に北里柴三郎がいて、ともにオランダ人医師マンスフェルトの教えを受けた。
明治10年の西南の役には軍医として従軍、戦後上京して警視庁警察医となるが、2年後28歳の時にその職を辞して歯科医を志し、30歳の時、東京神田に歯科医院開業。
明治17年33歳の時、日本最初の医術開業試験委員(歯科担当)となる。その後宮内省侍医拝命、日本で最初の歯科侍医となる。明治天皇は歯痛が起きると井野の手当を受けた。
熊本での開業は1年で終了し、翌年にはロシア領ウラジオストックやハバロスクで診療活動に従事し、39歳の時に帰国、東京神田で再び歯科医院開業、14年間これを継続するも53歳の時に日露戦争が勃発すると、医院を廃業、一転して天草郡で牛深炭鉱の経営に乗り出す。ここらが野心家井野春毅の面目躍如たるところ。炭鉱経営が巧くいったのかどうか記録がないが、4年後の57歳の時には炭鉱経営を切り上げ、上海で歯科医院を開業し、大正元年11月26日、61歳で死去するまでの4年間を歯科医として上海で過ごした。

こうして聞くと昔の人のダイナミックなことに感心します。今もこういう人いるのかな??




市立一新幼稚園
ここは藩の「御客屋」があったところ。「御客屋」は藩の迎賓館であり藩にとって外交上大切な客を饗応し、或いは泊めた。例えば幕府や他領の使者などである。元治元年(1864)2月坂本龍馬が横井小楠訪問の途次、ここに泊まっている。藩側の応対者は小姓頭、用人、右筆頭クラスの人たちであつた。
廃藩置県で「御客屋」が廃止されると、山田武甫等が実学党の学校「会輔堂」を開いた。明治5年明治天皇巡幸の際は、ここが行在所となる。明治7年には「会輔堂」が廃され熊本仮師範学校となるが、これは短期間で移転し、以後大正8年まで一新小学校となる。その跡に一新幼稚園が開園した。

幼稚園ではちょうど運動会やってました。


清爽園へ。
ここにはいろいろなものがあります。
高札場だったとか、細川家の庭園の庭石を持ってきてあるとか。



新1丁目御門、札の辻、清爽園
藩政期、新1丁目御門は熊本城の正門入り口である大手門であった。明治の5.6年の頃までは建物が存在したが同7.8年頃の地図には記載がないのでその頃破却されたようだ。御門の横に「高札場」と「札の辻」があった。
「高札場」とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目をひくように高く掲げておく場所のこと。ここに掲げられる札は親子札,毒薬札,切支丹札,火事札,駄賃札,火付札,抜荷制札,荷物之次第札などがあった。
「札の辻」には藩の里程元標が設置され、ここを基点に豊前・豊後・薩摩・日向への理数が測られた。その際に、1 里、2 里、3 里と進むごとに街道の両側に榎木を植えて、これを理数木とした。現在でも駅名やバス停にその名称が遺っている。
「清爽園」高札鳩と札の辻のある広場は清爽園という公園になっている。ここには明治12年に建立された弔魂碑・殉難碑がある。弔魂碑は明治初期に起きた佐賀の乱、台湾の役、神風連の乱、西南戦争で戦死した将兵の霊を弔い、殉難碑は西南戦争における県民の殉難者の霊を祭るものである。





「台湾の役」がピンときませんでしたが、台湾出兵、牡丹社事件のことですね。牡丹社事件のことはこのブログでも以前書いてます。
このときは台湾側から見たことを書きましたが、
そうか、熊本から派遣されていたのですね。


おおきな空き地がありました。
もとはYMCAがあったはず、と父が言っていました。
マンションになるのでしょうか?
ここにもとは熊本市が建てた歴史の案内板があったそうですが、工事のために撤去されてしまったようです。前に父が来た時に案内板が無くなっているので工事の人に尋ねたのだそうです。現場責任者の方は親切に問合せしてくれて、工事前に熊本市が撤去したと教えてくれたそうです。
きっと工事が完了したら元に戻るのでしょう。

電信町
明治8年3月20日、ここに熊本県で最初に電信を開始した熊本電信局が設置された。当時町々では文明の利器「電信」のうわさでもちきりで誰いうともなく、このあたりは電信町とよばれた。
明治9年の神風連の変で襲撃され死亡した鎮台司令長官種田政明の愛妾「小勝」はここから東京の親元へ「ダンナハイケナイワタシハテキズ」と電報で報せたが、その文章が電文の模範として有名になった。




西南の役激戦の跡碑
ここは西南の役のとき「段山口の戦い」といわれる激戦があったところ。明治10年2月、開戦初日にこの地の守備に当たっていた与倉知実(歩兵第13連隊長、中佐)は陣頭指揮の最中に銃弾を受けて重傷を負った。すぐに後送されて手当を受けたがその日のうちに亡くなった。折しも二の丸空堀の天幕の中では夫人が女児を出産していた。


この何でもないような民家の裏庭みたいなところに、父が、ずんずん入っていきます。
「ちょっとお父さん、こんなとこ入ってっていいの?よそ様の家の敷地…」

父についていくと、面白いものがありました。
「どんぶり池」というものだそうです。




どんぶり池
藤崎台の崖下に「どんぶり」と称する湧水池がある。真上に7本の楠の大木があり、その奥にも野鳥園の林があって、それらが水源らしく思われる。新町一帯は往古は沼沢地で井戸を掘っても水質が悪く飲用には不適であった。そのため住民はこの池の水を汲みに来るか、一荷いくらの水を買って炊飯用に当てていた。

父はこれを調べに何度かここにきてて、この民家の方とも仲良くなったそうです。この日はお留守のようでした。残念。


ただの駐車場のように見えますが、能楽堂です。


藤崎八旛宮御旅所
薬師坂を少し登ると左側に広場があり奥に能楽堂がある。ここが藤崎八旛宮の御旅所で、9月15日の御神幸は、藤崎宮からここに向かって出発し、昼間はここに休息して能を見物された後、夕随兵を整えて本社へ帰られる。能は金春流、喜多流等で新町は伝統的に能が盛んな所で演じる人たちも多い。

看板にある狩野琇鵬さんの息子さんがあちこちでお名前を拝見する狩野了一さん。能を習っている友人が喜多流なので、写真を撮って送ってあげました。友人は狩野了一さんにもお世話になっているみたい。







「勢屯~せいだまり」のところの会社のシャッターに、勢屯の絵が。
勢屯というのは「武士が集まる場所」の意味で、城郭のあちこちに広場のように作られている。新町には7か所あるそうな。





おっきな商家があります。


電車通りからも。

毒消丸の吉田松花堂
初代吉田順碩は長崎県諫早の人でシーボルトの鳴滝塾で西洋医学を学んでいたが、シーボルト事件後熊本に逃れてきて現在地で町医を開業した。この人は「医」よりも「薬」の方で大きな成功をおさめた。すなわち下痢の妙薬毒消丸である。日清、日露の両役では軍にも買い上げられて一躍財をなした。現在は旅行時などに携行する保健薬として人気が高い。





高麗門
加藤清正が花岡山方面からの敵を防ぐために造った29門の1つで朝鮮高麗門に準じて築造した。朝6時に開門し夕方6時には閉門した。藩政期のこの辺は木挽き職人が住んでいたので木挽きの町とも言われる。

「高瀬の大工棟梁善蔵の話」
慶長年間のある年のこと、加藤清正は小姓ども5.6人を従えて高麗門の建築現場へ視察に来た。工事は順調に進捗しており、足場には大勢の大工が取り付いて、きびきびと立ち働いており、清正は上機嫌で「大工どもはよく働いてをるわい」と周囲へ声をかけたりして、しばらく見物していた。その時、馬上の清正の足元へ金槌が落ちて来た。「無礼者・・」と色めき立つ小姓たちを目で制して、「それをこれへ」と小姓に命じて拾い上げさせ、それを持って足場の下まで行くと、大工の1人が足場から足だけ下げて、「これに着けろ」と言わんばかりの仕草をした。清正はだまってそのようにした。男は礼も言わず、だまって受け取ると、元の場所へもどり何事もなかったように黙々と仕事を再開
した。この男が高瀬の大工棟梁善蔵である。清正も黙って引き上げた。
今のは殿様だったらしい、と判って現場に動揺が走った。「事もあろうに、殿様に物を拾わせた上に、それを足で受け取るなど、こんな無礼は打ち首ものだ」と言うのである。
そこへ奉行所から善蔵へ呼び出し状が届いた。「明朝、辰の刻(午前10時)奉行所へ出頭せよ」というのである。善蔵は一夜悶々としたが、明け方には覚悟がきまって、起き抜けに水垢離をとって身を清め下に白いものを着込んで奉行所へ出頭した。庭先に平伏していると、清正が出て来て「善蔵か、大儀である、面を上げよ」とお声がかかった。恐る恐る顔を上げて正面を見た。そこには目を細め、口元に微笑を浮かべた清正の温顔があった。脇に置かれた三方には褒美の銀子がうづ高く盛ってある。「以後も励め」というお声がかかって、善蔵は身の幸運に感涙した。
細川忠利公の代になっても、善蔵は何かにつけて「先々代様」と口癖のように言った。「先々代様」とは清正のことである。

面白い話ですね。

新鳥町
100年以上つづいた戦国時代が終わり江戸時代に入ると、人々の生活にも趣味を愉しむ余裕ができた。その愉しみの1つに小鳥を飼う趣味があった。この通りの両側に鳥屋が軒を並べていたのでこの名がある。







この手のグルメ自動販売機、あちこちで見かけるようになってきましたね。






職人町(上中下)
江戸時代多くの職人たちが住んでいた。当時の税は間口の広さできめられていたから、どこも玄関の間口は狭いが奥行きがある。上中下にわかれたこの町は新町の中央部を南北に貫いている。職人町というくらいだから各種の職人が居住していたが、その中でも菓子職人が最も多く菓子の町とよばれた。戦前は下駄の歯菓子という黒砂糖の菓子、カリント、鬼の腕、寒菊、朝鮮飴、生姜糖を作って大正から昭和初期にかけてが最盛期で、県外からも仕入れの客が入り込んで繁盛を極めた。

父が「この道は今は狭いけど、昔は菓子の仕入のひとたちでとてもにぎわっていた」なんて話をしてくれていたとき、ちょうど家の前にで庭木の手入れをしている人たちがいました。
父は必ず話しかけていきます。
お話を聞くと、このおうちもお菓子を作っていたそうです。
「うちはあられを作っとりました」とのこと。
ここのお宅も、奥に細長く敷地が続いているようでした。

こうやって町ガイドのネタを仕入れていくのですね。お父さん。


職人町と並行して走る青桐横丁。








熊本で一番古いパン屋さん。
うちの近所の横浜の老舗「ウチキパン」も明治21年創業でした。
熊本も横浜に負けてないですね。

いくつかお買い物して、帰りの飛行機で美味しくいただきました。

明治18年とも書いてある?
どっち??


パンの松石
初代鶴次郎は柳川の人で明治21年熊本に出て小さな菓子店を開いた。明治35年長崎へ出て、パン製法を習得して帰り熊本で初めてパンと洋菓子を製造販売した。


この街歩きをするにあたって、熊本の昔の写真をネットで何枚かみましたが、ほとんどが 富重写真所 のクレジットが付いていました。
この写真やさんも現存しています。(営業されているかどうかはわかりませんでした)

富重写真館
富重利平(天保8 年(1837)~- 大正11 年(1922)は、明治時代の写真家。長崎で上野彦馬より写真術を習得し、彼と共に日本写真界の草分けとして活躍した。熊本で写真屋を開(明治3年)き、軍部の依頼で焼失前の熊本城その他を撮影。明治時代の風景、人物など貴重な記録を写真に残した。




街のお店に貼ってあった昔の新町の絵地図。
こうしてみると、熊本が城下町だというのがよくわかります。
新町は、古いものがどんどん減っていて、空き地とマンションも目立っていましたが、興味深い場所でした。

このあとは明八橋を渡って古町へいきました。。
古町篇はまた改めて書きますね。




https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1f77ga6rEfRACl3MGzGxbsx_l_cQdL3Q&usp=sharing





JAL「どこかにマイル」で熊本帰省

2022年10月10日 |   └─くまもと
10月の初めに一泊二日で熊本に弾丸帰省してきました。

JAL でマイルを貯めてるのですが、「どこかにマイル」という面白い企画があるんです。それは普段よりもぐんと少ないマイル数(往復6000マイル)で往復の飛行機に乗れるというもので、どこに行くかは JAL にお任せというもの。


JAL にお任せとはいっても候補を4つぐらいまでは絞ることができます。
JALから4つの行き先の組み合わせが提案されますが、その候補は何回か選び直せて、「この中のどこに決まっても文句ナシ」と思えてから申し込みます。

一泊二日なのであまり遠いところ(例えば沖縄とか)は避けて、大阪、熊本、宮崎、松山という組み合わせで申し込みをしました。

夫の実家は大阪ですし、私の実家は熊本。
宮崎も松山もいったことがない県庁所在地。
このところ、各県の県庁所在地の街歩きが楽しそうだなと思ってるところなので、どちらになってもいいなぁ。県庁所在地って歩いて行ける範囲にぎゅっと歴史的見どころが固まっているので、一泊二日でも結構楽しめそう。

そんなこんなでどこに決まるかな~とワクワクしながら申込み。


申し込んで2〜3日で、乗る便のお知らせが来ます。
今回は熊本に決まりました。
6月に帰省したばかりだけど。

JAL 様のお告げで旅をするのも、人任せでなかなか楽しいものですね。

マイルの特典で普通に東京熊本を往復するなら1万5000マイルかかるところですが、これでいくと6000マイルでいいので半分以下、かなりお得です。



候補が示される画面の例



「全日本おかあさんコーラス九州支部大会」@熊本県立劇場

2022年07月01日 |   └─くまもと
先日、熊本に帰省してきました。
数年ぶりに夫と一緒の帰省(夫の休みに合わせたのでわずか1泊になっちゃったけど)。

今回は、母が40年以上活動しているママさんコーラスの九州大会の応援を目玉に、あとは父の日のお祝いもかねての食事会という予定でした。

コーラス大会は県立劇場で。
九州各地から集まったお母さんたちのコーラスグループが2日間にわたって、歌ごrを披露します。コロナ禍でコーラスができない状況が長く続き、大会も2回流れて3年ぶりの開催です。





母は私が小学生のころのPTAの活動がきっかけで始めたコーラスを今もずっと続けています。40年以上、毎週1回練習に出かけてるなんて根気がすごいですね。楽しいから続くのかな?全国大会にも過去4回ほど選ばれてたのだとか。

県立劇場は音響も良いので、皆さんの声がよく響きます。
チームによっては、練習不足だったかな?というところもありましたが、衣装とか演出にも工夫が凝らされていて、とても楽しめました。女性コーラス用に編曲された曲たちもバラエティーに富んでいました。

母たちのチームも良かったですが、特に感動したのが「コーロフィオーレ」という熊本の団体が歌った「私がきれいだった時」という茨木のり子さんの詩に曲をつけたもの。ドレスを身に着けているチームが多い中、ここは「もんぺ」のようなスタイルで登場して、平和を訴えていました。
選曲も良かったのかもしれませんが、聞くうちに涙がこみあげてきました。
後で聞いたら、九州代表として全国大会出場に選ばれたそうです。
やっぱり。

コーラスってあんまりちゃんと聞いたことがなかったですが、奥が深そうです。
まず、言葉がちゃんと聞き取れることこれが難しい。
そして、その言葉が説得力をもって聞く人の心を揺さぶることは、なかなかできることではないですね。コーラスだと全員のハーモニーも大事な要素だし。
低音部(アルト)のパートが重要だというのも感じました。アルトが上手なところは多くなかった…。

それとみていた中で、とっても指揮者がいいチームがありました。
指揮の良し悪しなんて素人の私にわかるはずもないのですが、それでもその指揮者の指揮は「音を引き出したり、抑えたり、広げたり、まとめたり」自在にしていると感じられました。

これも面白い発見でした。
ふだんマエストロの指揮ばかり聞いているからわからないのですね。



母のチームは全国大会への切符は逃しましたが、これからも楽しくコーラス続けてほしいなと思います。歌ってる皆さん、とっても楽しそうでしたもんね。

熊本港でソフトクリーム

2021年10月19日 |   └─くまもと
池辺寺跡を見たあと、せっかくここまで来たからと、熊本港に寄ることにしました。

熊本港。
1993年開港なので子供の頃にはなかったし、初めて行きます。いつも飛行機の上からは見てるんですけどね。

熊本~島原を結ぶフェリー(60分で島原へ)が就航しています。
行ったときちょうど九商フェリーの出航時間でした。
写真にあるのは、高速船オーシャンアロー(30分で島原へ)。
機材不良のため欠航してるみたい。








島原の観光案内カウンターがありました。
島原なんて小学校の修学旅行以来です。
コロナ前は結構にぎわっていたそうです。
いつか私も行ってみたいな。


セーラー服のくまモンいました。


くまモンの写真撮りに行ってたら、父が売店でソフトクリーム買ってました。
(父はよくソフトクリーム買ってくれる)


ボリュームたっぷりでとってもおいしかった♡
ごちそうさまでした。


船が出て行ってしまったので、がらーんとしてます。




熊本港はこの遠浅の有明海に突き出た人工島にあるのですが、干潮になると全く水がない!(人工島と陸地を結ぶ橋の上から撮影)
こんな浅い海に港を作るのは相当大変だったでしょうね。





池辺寺跡

2021年10月18日 |   └─くまもと
帰省初日、父が「チヘンジに行ってみようか?」という。
「チヘンジ?」聞いたことないけど、お寺かな?

父によるとなかなかいいところだという話。
これまでの経験上、父がこうやって誘ってくれるところは間違いなく興味深い場所なので出かけます。
みちみち説明を聞くと、どうやら奈良時代創建の古いお寺の跡らしいとわかりました。遺跡らしい。
へー、熊本にそういうところがあるんだー。

詳しいことは、こちらの公式ページへ。


熊本市西区、海に近い方にあります。
金峰山に連なる山がいくつかある中に「独鈷山」と呼ばれる山があります。なんと、空海が唐から法具を3つ投げ日本に届いたうちの一つ独鈷がここに落ちたのだそう。(ホンマカイナ…)
池辺寺の遺跡はそこから近いところにありました。



遺跡に到着。


発掘された礎石などから復元した本堂模型。



本堂の入口ナノでは?と考えられているところ。大きな平たい石がありました。



さて、お寺の跡なら日本全国あっちこっちにあるでしょうが、池辺寺の特徴的な遺物はこの「百塚」(「百塔」とも)
百基ある石塔です。



こんなふうに縦10基×横10基、計100基の石塔跡が、本堂の背後に見つかったのだそう。本堂の前には池などのある庭園も見つかりました。
見つかる前からこのあたりは「百塚」という地名があり、耕作してはいけないと伝えられてたのだそう。

なだらかな斜面に規則正しく並ぶ石塔。
「塚」と呼ばれてきたけど墓ではないらしいです。では何だったのか?
わからないんだって!
こういう建造物は日本全国的にも珍しく、何なのかわからないそうです。
ロマンだ!
下の写真は復元された石塔です。





百塚の上から斜面の下の方(熊本市内)を眺めます。
写真ではわかりにくいですが、正面に花岡山の仏舎利塔が望めます。






石塔の周りは舗装されたので、石塔の中に草がたくさん生えてる。





本堂のあったところを横から眺めたところ。
人影が見えるのが本堂のところ。




訪問した日、熊本は10月というのに30度を超える真夏のような陽気でしたが、ここに吹き渡る風がとても気持ちよかった。
景色も良くて、古代にここにこういう大きな寺が作られたのもわかるような。

創建は奈良時代。
ということは国家鎮護の仏教だったはずで、お寺が大学みたいな教育機関でもあった頃。

今行くと、熊本の市街からも離れた辺鄙な山の中にあるイメージですが、奈良〜平安初期にかけてはある程度交通の便もよかったはず。熊本にあった国府は今の国府電停のあたりなんでしょうから、そこからは相当離れてますが。


研究が進んでもっと色々わかったら楽しいですね。

つらてこられてよかった。
お父さんありがとう。



鮎帰西福寺 日光の棚田 木々子

2021年10月16日 |   └─くまもと
荒瀬の道の駅で鮎を食べたあと、また坂本橋を渡って油谷川をさかのぽります。
この辺りもいわゆるバックウォーター現象により被害の大きかったところです。
川沿いの家屋は撤去が進んており、景色が一変していました。

昔の製紙工場跡地にできた大きな児童公園「くまがわワイワイパーク」は災害ゴミの集積所になっていました。
この山の上には祖母のお墓もあるのですが、今回はお墓参りはスルー。
更に上流へ向かいます。
父は行きたいところがあるようです。


鮎帰にある西福寺。ここのご住職に会いたかったようですが、あいにくお留守でした。





念仏者九条の会というのがあるのですね。


現代の感覚だと鮎帰は球磨川沿いの鉄道や国道からも離れた山奥と思ってしまいますが、江戸時代以前はむしろ街道沿いの文化の出入口だったかもしれないそう。

ずい分前からバスも通らなくなり、住民の足は乗り合いタクシーだそうです。



油谷川。大きな岩がゴロゴロ。



鮎帰からさらに上流へ向かい、ヘアピンカーブの続く山道を登っていくと「日光(にちこう)」という集落があります。棚田が有名なところ。
祖母の生家があるのてすが、はじめてきました。


かなり上ったところにある集落、日当たりがいいですね。でも、学校に通うのは大変だろうなぁ。



棚田は更にその上にあります。


何枚かは水田でしたが、芋、そばなどの畑の方が多くなってました。
こんなところにこんな棚田を作るのは相当な苦労があったことでしょうね。


かなり高いところだと思うのですが、水源がよくありましたよね。



ちょうど稲刈りが終わったところでした。



そばの花。



油谷川沿いを離れ、今度は中谷川沿いを登って木々子を目指します。こちらは祖父の生家があったところ。今もその家があるのかどうか、親戚付き合いもなくなっていてわからないようです。



木々子集落も谷を随分上がったところにありますが、山の中にちょっとした平地が広がっていて、家もまだまだたくさんありました。暮らしやすそう。



木々子の隣の衣領(えり)集落。
伯母の家がありました。何度か遊びに来たことがあるので懐かしく写真を撮りました。この丸木橋は、伯母の家の前にあったもので、ここを渡って川向うの畑で野菜などを作ってました。今見ると恐ろしいようですね。



道の駅の復興商店語彙で見た木々子の七夕飾り。なぜ木々子にだけこういうものが伝わっているんだろうと思ってたのですが、行ってみてわかりました。地形的にも他の集落とは違い、戸数も多いし独特の文化が育ちやすかったと思われます。(もっと他に歴史的な理由があるかな?)



被災しているところばかりを見るのも心苦しく、上流の日光や木々子へ行けて良かった。どちらも私のルーツに繋がってくる場所でした。



「さかもと鮎やな」で鮎の塩焼き定食

2021年10月14日 |   └─くまもと
帰省の2日目、父が「坂本に行ってみようかね」というので一も二もなく賛成。水害のあと初めて行きます。
「荒瀬で鮎を食べられるかも」と母。
クラファンに参加した「さかもと鮎やな」のことですね。やった!

天気が良い。良すぎてまだ夏のよう。
でも、田んぼは黄色く色づいてる。

熊本から八代を経由して球磨川沿いの坂本へ行く。八代の宮地側から西部大橋を渡って219号線へ向かう途中、段駅あたりで線路の草取りをする人々がいた。JR肥薩線も去年の水害で壊滅的に被災して不通になっているのだけど、きっと近隣のみなさんがキレイにしたいと言うことで草取りしてるのだろう。




深水橋のあったところに来た。
跡形もなくなっていた。


深水橋の親柱。



深水橋のたもとには親戚の家があったらしいが、早くに無人となり荒廃激しく判然としなかった…




219号線は災害復旧のダンプなどが多く走る。親によると「お盆に来たときより少ない」とのこと。週末だからかな?

仮設の坂本橋を渡る。
川の中には、まだ流されたもとの坂本橋の残骸が見える。



坂本橋を渡ったすぐのところにあるみねとま医院も解体工事中だった。ここ子供の頃にお世話になったなぁ。



坂本駅。
浸水したとはいえ、こうしてみると駅舎は無事のようだけど…



線路へ行くと、ホームよりも高く砂利が積まれていた。これからどうなるのだろうか??



坂本から藤本集落へ県道側を走る。
話には聞いていたけど、県道が途中から崩れてなくなっているので、並走する肥薩線が道路になっていた。(写真右手が元の県道)



藤本小学校跡。
懐かしいのでいつも寄ります。
この運動場は水害の時に SOS の表示が出ていたところ。



藤本小学校が創立百年を迎えたときの記念碑。このとき在校していたので、なつかし!



葉木橋を渡って荒瀬の道の駅へ。
道の駅には「復興商店街」ができていました。そせて、さかもと鮎やなもここで営業していました。

テントの下で鮎を焼いています。





食堂はこの中。





復興商店街には「木々子(きぎす)の七夕飾り」がありました。

去年の水害で流されたけど
見つかった看板(新聞記事になっていました)



鮎の塩焼き定食が1650円。
鮎の甘露煮、田楽、天ぷらまでついてる鮎づくし定食は3300円デシタ。
(写真は1650円の)



久しぶりに鮎食べたー!
ご飯も鮎ご飯、お味噌汁にも鮎が入ってました。それに懐かしい生姜の味噌漬け。坂本の親戚がよく漬けてました。懐かしい味。


堪能してお腹いっぱい。
このあとはその名も「鮎帰(あいがえり)」へ向かいます。


あゆがえり?
あいがえり?




上熊本駅は漱石センセイ推しだった

2021年10月11日 |   └─くまもと
コロナも随分状況が改善したので、今のうちに!と思い、2泊3日で帰省してきました。

あまりゆっくりする時間もありませんでしたが、初日には「池辺寺跡」を見学したり、2日目は去年水害で大被害を被った球磨川へ行くこともできました(球磨川のアユを食べました^^)。そして3日めは、単独行動で熊本市内を散歩しました。
まずは、その記録を写真でつづってみたいと思います。

目的は上通の蜂楽饅頭を買うことだったのですが、たまたま乗った電車が「上熊本」行きだったので、行ったことのないところを歩くのもいいかなと思って、終点「上熊本駅」を起点に少し歩き回りました。



上熊本駅。
ここに来たのは初めてのようです。
同じ始発駅でも健軍の電停とは違いますね。
車庫もあり、単独軌道もあり。

(わが輩ポストってなんだろ?)

わが輩通り界隈マップ。
これで散策するのはかなり難しいマップ!


ここから「草枕」の旅も出かけられるらしい。
むかしは徒歩だったんですよね。



JRの上熊本駅駅舎。
木の風合いが素敵です。


日曜だけど人影まばらな上熊本駅構内。
くまモンハロウィン扮装。かわいい。


上熊本は漱石先生推しなんですね。



こちらは熊本電鉄の上熊本駅。
くまモンラッピング電車が来てました。
「鉄」なおじさまがバシバシ写真撮ってた。私も負けずに撮る!


道を渡ると小さな緑のコーナーあり、そこに銅像が。上熊本に下り立つ若き日の漱石先生だ。イケメンですね。
2ショット写真撮りました。
漱石ファンは上熊本に行かなきゃですね。



ここから、京町台地に上がって熊本城経由で上通を目指します。
初めての土地。ワクワク。

京陵中学校。名前は知ってたけど、ここにあるのか~。門のわきの楠が立派!

ここにも漱石先生モノあり。
句碑です。


「すみれ程の小さき人に生れたし」




京町本丁漱石記念緑道。
界隈一帯は漱石先生で町おこしかな。
本「丁」というあたりが古い町という感じがしますね。
堺市も「丁」を使ってました。


なにかありま。




近寄ってみると「清正のまちと街路つくり」の案内板。
京町は加藤清正によって整備された町なのですね。地図は細川時代のもの。



「京町は清正公さんのおひざもと!!」だそうです。
ここまで来ると、漱石の影がうすらいだかな?



これは何だろう?


いかにも古そうな味噌屋さんがありました。創業寛政四年の池田屋醸造。



台地だから、阿蘇まで見渡せる。




「裁判所前」のバス停があり、横を見たら見覚えのある建物が。
「あ~これはここにあったんだ~!!」
よくニュースで出てくる、熊本地方裁判所ですね。レンガ造りの味のある建物です。水俣病とかハンセン病などの裁判は全国区のニュースだったので、見覚えがあります。

入り口もスタイリッシュ。



台地なのであちこち坂があり、いちいち名前がついています。
さすが、古い町ですね。





加藤神社は一時期、熊本城内ではなく京町にあったんですね。



けっこうな高低差。
住んでる人は大変でしょうね。






磐根橋。ここをわたると熊本城。



案内板によるとむかしは堀の役目もしていたそうです。そして電車が開通したころ、さらに掘り下げられたらしいです。
目が眩むほどの高さ。

ここを渡って熊本城へ。





まだまだ地震からの復旧は道遥か・・・のようです。





それでも今年のGWごろから天守の周りには入られるようになっているみたい。時間がなくて行きませんでしたが、天守が美しくそびえているのはいいですね~。



この二の丸からの眺めは(平成の大改修で長塀ができる前の)私の子供時代の熊本城の姿です。







熊本城から、賑わいを取り戻していた城彩苑を抜けて下通へ。
そこそこの賑わい。
パルコが無くなってた!


こちらは上通り。
道幅の違いもあるけど、こちらの方がにぎわってるような??
私が熊本にいた30年前ごろは上通にはあまり魅力を感じなくて下通にばっかり行ってましたが、いまは上通の方に魅力を感じます。
なぜかな?



そしてようやく目的地、鋒楽饅頭へ。


みんな大好きほうらくまんじゅうですね。こことこむらさきと紅蘭亭とかっぱのまるぶんがあるから上通が好きなのかも?


最後にお約束のアングル。
通町筋から市電に乗って帰宅します。


10月とは思えないほどの陽ざしに気温。
暑さにくらくらしながら散策を終えました。育った町熊本ですが、知らないところがまだまだ多くて歩くの楽しい。

今度はちゃんと下調べをして漱石先生の「わが輩界隈」を歩いてみたいと思いました。


天草で伊勢海老 GOTOくまもとその7 

2020年12月11日 |   └─くまもと
 今年の3月に両親の傘寿のお祝いの会をするはずでした。お店も予約してあったのですが、コロナでだんだんだんだん雲行きが怪しくなり、2週間ぐらい前になって延期を決めました。その後の状況から、家族全員で集まって(兄弟3人の家族みんなで帰省して)お祝いを開くのは諦めるしかなくなりました。

 そこで今回の帰省では両親を温泉ぐらいには連れて行きたいなと思いました。連れて行くと言っても運転は父がするので連れて行ってもらうという感じなのですが(笑)。はじめは熊本空港から近い菊池あたりで…と思っていたのですが、「泊まりでどこか行くなら天草で伊勢海老を食べたい」という父の提案により、行き先が天草になりました。どうも知り合いが天草に入って伊勢海老を食べてきたという話を聞いたようです。

伊勢海老か〜食べたことがないような気がする。


 とりあえず行き先を天草に決め宿選び。あまり遠いと帰りに渋滞にハマったらいやだなということで、大矢野島あたりを探します。計画段階ではまだ第三波の気配はなく、むしろ混雑の方を心配していました。実際、GOTOを利用しようと思うとなかなか予約が難しい状況でした。

 予約したのは大矢野の「海星」という旅館。温泉もあります。GOTOに参加している施設はしっかりコロナ対策してるはずなのでむしろ安心です。毎日満員電車で通勤している私から見ると、旅行そのものは感染リスクは高くないと思います。天草なんて熊本市内より人は少ないだろうし、自家用車での移動ですし。一番のリスクは「私が実は罹っていてウイルスを持ち込む」ってことです。

 両親はなんと言っても傘寿の高齢ですから、私がうつしたら洒落になりません。罹ってないとは思うけど、万が一私が罹っていても大丈夫なように、両親の前では常に不織布マスクつけてました。流石に食事のときは外しますが、なるべく離れて座ったり、大声は出さないようにしたり、更に自分が触ったところを消毒して回ったり、車は常に窓を開けて換気をしたり。東京の生活でもやらないほどの注意ぶりでした。

 帰省から2週間以上が経過しましたが、おかげさまで私も両親も特に体調の変化もなく元気にしています。自分の対策は万全だったと思うものの、何事もなくホッとしました。




 宿の夕食です。
伊勢海老に天然鯛のお造り。クルマエビの踊食い(きゃー)までありました。伊勢海老は夕食にお刺身で食べ、翌朝にお味噌汁になって出てきました。贅沢でした。

 食事会場での対策はしっかりとられていて、宴会場を壁で仕切って1部屋に4組までのテーブルが用意されています。しかも時間がずらしてあったのか、同時に食べるのは2組まで。もともとお客が多くはなかったのでしょうけど、東京や横浜では考えられないくらいの距離の取り方です。同時に食べているお客までの距離は10メートル近く?寂しいくらいでしたが安心でした。






天草四郎がコロナ対策しています。
天草ならではですね。



宿の部屋からみた日の出。
この入り江にある船着場から「談合島(湯島)」への船が出ているそうです。
島原の乱のときに天草と島原の揆軍が相談をした島とつたわっています。
天草四郎はここ大矢野出身だったそうです。





 ここのところみるみる感染者が増えていて、GOTO事業は見直しと言われていますね。これだけ感染者が増えてしまってはGOTO事業の中断はやむを得ないとは思いますが、ワクチンができて治療もできるようになったら、またガンガン旅がしたいです。

 前にも書いたように旅自体が感染リスクを上げるとは思いません。でもいまは医療の充実に全力を向けるべき時だと思いますので、政策として臨時の予算を使うのは医療関係に集中させた方がよいでしょう。一市民としては、引き続き感染しないように心がけて生活するしかありません。

与謝野鉄幹晶子夫妻と高濱集落 GOTOくまもとその6

2020年12月09日 |   └─くまもと
崎津集落を見学したあとは、大矢野島の今夜の宿へ向かう。
せっかくだから天草西海岸の「これぞ天草」という景色を見ようということになった。ここから父のガイドは「五足の靴」の話に。
 
「五足の靴」メンバーが訪ねた大江天主堂は道から眺めるだけにとどめて先を急ぐ。父には目当てがあるようだ。「十三仏」に行くらしい。
十三体のお地蔵さんが並んでいる海岸を想像した。

途中高浜という集落へ。
焼き物の看板が目立つようになる。漁港のように見えるけれど焼き物の町でもあるようだ。しかも磁器。全然知らなかったが、天草は良質の陶石の産地でもあるそうだ。

「ここに与謝野晶子たちが滞在した家があるとたい」
地図を見ると旧上田家というのが近くにある。
行ってみると広めの駐車場の先に長塀がある、さらに奥には磁器の窯元も。



上田家というのはこのあたりの庄屋だったらしい。
自由に入ってよいらしく、入り口にはタイルに染めた案内板があり、中に入ると古いが立派な建物と庭がある。








ここは五足の靴メンバー与謝野鉄幹・晶子夫妻が滞在したらしい。
その説明の展示もある。
むかしの文化人は、こういう土地の名士の家に滞在するものなのですね。
漱石が「草枕」に書いた小天温泉の家も個人宅だった。







もう誰も住んでいないらしく傷みも気になったが往時の様子がしのばれる。
庭にアワビの殻がある。
崎津集落ではこれがキリシタンの法具になったらしい。

ここも山茶花が花盛り。




十三仏へ。


仏様が並んでいるわけではなく、展望スポットだった。
天草西海岸の雄大な景色が広がる。
東シナ海だ。
夕陽の名所らしいが、日没まではもう少しかかるか。









ここに与謝野夫妻の大きな歌碑がある。
晶子の歌のスケールの大きいことに父がしきりと感心していた。


鉄幹
天草の十三仏の山に見る 海の入日とむらさきの波

晶子
天草の西高浜のしろき磯 江蘇省より秋風ぞ吹く 






大矢野まで戻って、宿に入る前にちらっと見た夕陽。
たしかに美しい。


戸馳島 GOTOくまもと その5

2020年12月05日 |   └─くまもと
 宇土半島の南にある戸馳島に天草からの帰りにちょっと寄った。高校一年の春休みに行って以来だから何十年ぶりだろう??クラスメートに戸馳島の人がいて、彼の家に行くことになったのだった。高校時代はこういうクラス行事が多かった。仲良し同士で行くのではなくクラス全員で計画していくのだ。もちろん全員参加ではなかったと思うけれど、生徒だけで計画していくキャンプや遠足は少し大人になったような感じで楽しかった。

 さてその高校時代、戸馳島は橋でつながっておらず三角港まで鉄道で行ってそこから船に乗って渡してもらった。(と思ったが、戸馳島にかかる橋は1973年には開通していたらしい。ということは大人数だったから輸送しやすい船に乗ったのか???)今は立派な戸馳大橋という橋ができていた。花の栽培が盛んなようで、フラワーロードとかいう名前の道があった。父の車は横井迦南の句碑のある海水浴場を目指していた。若宮海水浴場である。

 海水浴場はきれいに整備されていた。対岸の八代が間近に見えた。八代外港のキリン(クレーン)や八代市街地にある製紙工場の煙突の煙もハッキリ見える。八代が見えると何だか急に懐かしい。この角度から見たことはないが「故郷」という感じがする。


若宮海水浴場 松橋方面

八代方面

八代の十条製紙の煙がよく見える。
あ、いまは日本製紙になってるんだっけ。


海水浴場にある横井迦南の句碑
「不知火」を見る人々の様子を詠んだらしい。
これをみて、母が八代の方から「不知火」を見た話をしてくれた。



戸馳神社
銀杏の散り落ち葉がきれいだった。

境内にある仁王石像


元文三年(1738年)とある。






 島ではほとんど住民を見なかった。橋ができて便利になったら逆に人口流出するというのは日本各地で発生している現象で、ここも例外でないのだろう。

 今はどうなのか知らないが、私の高校時代は戸馳島のような熊本市外から市内の高校に入るのは相当成績優秀な人に限られていた。5%枠とか言ったっけ?クラスに1〜2人くらいの郡部出身者がいて皆高校生専門の下宿屋から通っていた。

 今にして思えば、高校一年の春休みの戸馳島訪問は、彼の親御さんの思いで実現したのだろう。かわいい息子が15歳で親元を離れるとき相当心配だっただろう。町の暮らしになじめるか?クラスメートたちは息子と仲良くやってくれるだろうか。でも彼は明るい性格で楽しく学校生活を送っていた。1年が無事におわったとき「友達を島に呼びなさい。クラス全員でもいいぞ」という話になったのではないだろうか。
島で何をやって遊んだとか全く覚えていないのだけれど、ご両親に歓迎してもらって、帰りに花をたくさんお土産にもらったことを覚えている。戸馳島は花の栽培が盛んな島、クラスメートの家も花を育てていた。

 卒業以来一度も会っていないが、教師になったと聞いている。職場はうちの実家の近くのはず、ばったり会ったらわかるだろうか。


YOKOの好きなもの羅列

(順不同)地図、河岸段丘、保存樹木、宮本常一、縄文時代と日本の古代、文明開化と江戸時代、地方語、水曜どうでしょう、シャーロック・ホームズ、SHERLOCK(BBC)、陳昇、John Mellencamp、Kate Bush、イ・スンファン、カンサネ、1997年以前の香港映画、B級コメディー映画、SNL、The Blues Brothers、台湾、旅行の計画、イタリア、エステ、宮部みゆき、ショスタコーヴィチの交響曲5番、森川久美、のだめカンタービレ、くまモン
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