トシの読書日記

読書備忘録

祈りと再生の物語

2013-01-07 16:41:44 | あ行の作家
大江健三郎「懐かしい年への手紙」読了



クリスマスから年末、年始にかけて毎年のことながらバタバタとずっと仕事をしておりまして、今日、やっと休みがとれました。それはさておき…



「万延元年のフットボール」、「同時代ゲーム」に続く、いわゆる「四国の村の森」シリーズ、第3弾であります。

四国の山深い村に生まれ育った「僕」が大学入試のため、東京に移り住み、在学中から作家活動を始め、そして結婚し、いよいよ東京に居をかまえ、その間にも「村」の敬愛する「ギー兄さん」とのつながりを保ち続け、心の交流を図るという、これはもう完全に自伝ですね。多分にフィクションは混じえてありますが、事実に即しているエピソードもかなりの量、含まれているものと思われます。


その「ギー兄さん」というのが、まずは架空の人物なんですが、著者のあとがきで言うように、これは大江健三郎の理想の姿なわけですね。小説家などにはならずに、大学で語学と歴史の勉強をし、故郷の森へ帰って村の歴史を研究し、伝承していく。これが大江健三郎のとるべき道であったのではないか、という思い。このあたり、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」と通底するものがあります。これがまた本書のテーマでもあると思います。


印象に残った部分を引用します。


〈僕は自分がやがてはまるごとそこに入って行く、ひとつの大きな夢を前方にひかえている、とも感じていた。(中略)僕がというより人間がこれまでに書き・現に書いている、また将来に書くはずのすべての小説の内容は、その夢につくされているのだ。(中略)僕の生も仕事も、すべてはその夢を見つくす日に向けてしらふの眠りを積みたてるための、自分になしうるかぎりの準備であったのだから。つまり人はそのように生き・そのように仕事をするのだと、究極の夢があきらかに知らしめるのでもある…〉


〈Kちゃんよ、本当に人の心をうつ私の遍歴を小説を描きうるとするならば、それはきみの自己の死と再生の物語でなくてはならないのじゃないか?しかしひとりの作家がそれを書きうるのは、生涯ただ一度のことにちがいない。それよりほかは、みな途中で山登りを断念する物語になるのじゃないか?ダンテにしてからがそうだよ。〉


自分が理想とする架空の人物から、自分自身に向けて批判の矢を放つ。なかなか手の込んだ手法であります。大江は、自分の子、妻、また肉親を巻き添えにしながら私小説を書き続けることに、いくばくかの逡巡があるのでしょう。でもしかし、自分は書かなければならないという使命感にも似た気持ち。小説家とは、かくも苦しい仕事なんだと暗澹たる気持ちにおそわれます。


年の初めにちょっと重いものを読んでしまいました。次はちょっと軽めのものをいってみます。



書店で以下の本を購入


黒井千次「高く手を振る日」
古井由吉「木犀の日」
ジャネット・ウィンターソン著 岸本佐知子訳「さくらんぼの性は」