今頃、『私はダニエル・ブレイク』かよ、4年前の映画だろ。なぁに、俺にとっちゃ昨日の映画だ。いやこの先ずっと今の映画であり続けるさ。
と、開き直って始めるが、いい映画だよなぁ。まさに、ケン・ローチ監督だ。社会に振り回される優しく正直者のジイサンの奮闘の悲話だが、真っ直ぐだねぇ、ほんと正攻法だぜ。医者から働くなと言われ、役所ではたらい回しされ、それでも必死に努力して、できないネットでの書類申請に挑み、求職の実績作りに歩き回る。同じように公的支援からはじき出され途方に暮れる母子を手助けしつつ、なんとか、生きるすべを探し求めるが、ついには・・・。
報われず、落ちこぼれる社会的弱者、いや立場は弱いが人は逞しい、のもがき苦しむ姿、どうしたって是枝監督の『万引き家族』と比較したくなる。どっちにも万引き出てくるし、子供たちいるし、血縁なしのつながりってところも似通ってる。貧しい人たちのやさしさに心寄せてて、両監督の根っこは同じだよなぁ、って感じた。
ただ、ケン・ローチは真っ向勝負だよな。是枝さんの屈曲とはずいぶん隔たってる。職安の無理難題の連続についに切れてダニエルが建物の壁に抗議の落書きをする、ここが一つの見せ場だが、万引き家族にゃあんな正々堂々の抗議なんて出てこないもの。
ダニエルのブチ切れ行動、これが通りがかりの多くの人たちの共感を呼ぶ。期せずして突然の抗議集会になっちまう。突然の連帯!が出現する。『万引き家族』はあくまで個別事案にとどまるわけさ。
二人の資質の違いてのも大きいんだろうが、イギリス、日本、社会構造の相違てのが大きいんじゃないかって思うんだ。
階級社会のあるなし、ってことだ。日本で暮らしてると、労働者階級、なんて言葉だけで実態、ほぼゼロだが、どうもイギリスは大いに違うようなんだぜ。ジョン・レノンの『ワーキングクラスヒーロー』なんて名曲あるくらいだし、映画にもこの階級意識をもとに幾つも名作が作られてる。『長距離ランナーの孤独』、『ブラス』、『フルモンティ』、『リトルダンサー』。どれも心打つ映画だったよな。はっきりと階級が分かれていて、しかも、その階級意識を大切にしている。去年ベストセラーになった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を書いたブレィディみかこなんて、その労働者階級に憧れてイギリス社会に飛び込んだって話しだしな。
で、ケン・ローチは、言うまでもなく、この労働者階級に足をしっかと据えて作品作ってるわけだ。その確固たる基盤が、彼の直球勝負を支えてるんだよ。労働者階級に対する愛と信頼だろうな。そして、理不尽は別の階級からやってくる。ここらが、ややもすると、単純な区分けになっちまう理由でもある。そう、黒白はっきりし過ぎてる。『ダニエル・ブレイク』に関して言えば、彼の葬儀に参列する人たちはどこまでも優しく愛に満ちている。それに対して職安の管理者や売春組織にかかわる人間たちの素っ気ない描かれ方!正邪がはっきりしている。
『万引き家族』じゃそうはいかない。疑似家族の絆はせつなく愛おしいんだが、ダニエルのように、胸を張って闊歩し、堂々と主張なんてできない。誰もが脛に傷持つ身だ。周囲の下積みの人たちも自分のことで精いっぱいだ。とてもじゃないが、腕を組んでシュプレヒコール(ダニエルに爵位を!)叫んだりしない。せいぜいが、駄菓子屋のジイサンのようにそっと菓子を渡してくれるくらいのことだ。
ケン・ローチ的なすっきりとした社会観に強く引き付けられる。だから、涙が止まらない。でも、心の底じゃ、物足りないものを感じてる。そんなすきりしちゃいないだろ。ダニエルのようなとこんとん愛すべき人間なんていやしないさとも感じる。
とは言っても、貧困と格差は日本でだって同じこと、せめてもっと格差を指摘する意識持てよ、とも感じる。曖昧に能力の差とか、自己責任で我慢したりせず、社会を構造的にとらえれば、そこから見えてくることは多いはずなんだぜ。
「コロナ貧困で若い女性が風俗に入ってくる、楽しみだぁ!」なんてほざく芸人がテレビの人気番組のMCだなんて、とんでも社会のいい加減さを見過ごしたりはしないはずだぜ!