泡 盛 日 記

演劇人(役者・演出家)丹下一の日記です。

裁判員制度

2009-05-19 10:26:04 | 丹下一の泡盛日記
 今朝の毎日新聞によると、21日からスタートする「裁判員制度」に参加することに抵抗がある人が52%の過半数。そして制度に期待する人は45%で「悪くなる」の39%を上回っている。
 自分にはこういう数字が理解できない。
 参加は嫌だが市民参加の制度はよろしい。ではその人は「市民」ではないのだろうか?
 日本の政治が三流と評される根源がここにあるように思う。

 よくある「総論賛成、各論反対」ってやつもよくわからない。法案や企画がちょっとでも自分にマイナスな部分があると騒ぎ立てて(「僕を大事にして!」と叫んで)つぶしてしまう。
 停滞以外の何物でもない。
 そして、外から来る大きな変化に翻弄され対応しきれずに、たとえば全体を覆う「不況」という気分に責任を押し付けているように見える。
 またはその「気分」を大いに利用する。

 先日、インターネットの2チャンネルで「世間を騒がした責任はどうとるつもりなんだ!」という書き込みをみた。
 「世間を騒がす」とは懐かしい表現だ。
 たしかに世間を騒がすことはかつて「よいとはいえないこと」だった。今もそうなのか? 第一、「世間」って今でもあるのだろうか?
 自分は誰かが「世間」とか「世の中」と言ったら、それはその人自身のことだと思っている。
 「世間はこう思うでしょう?」は「私はこう思います」に置き換えて聞いているのだ。
 もちろん「我が国の法律では」とか「うちの会社の規定では」というのとは違う。
 「世間」はもともとあいまいな概念だったのが、今ではすっかりばらばらになってしまった。価値観の多様化。

 女優・沢村貞子さんの自伝で、第2次大戦中に社会主義活動に従事したとされて逮捕された沢村さんをお母さまが警察署にたずねいく場面がある。
 刑事が「貴様の娘はこれだけ世間を騒がしておる。申し訳ないとは思わんのか?」と怒鳴りつけられるのに対し、下町育ちの母上は「世間を騒がしているかもしれないが、うちの娘は罪を犯してなんかいません!」と言い返す(ことばはうろ覚え)。
 こんな凛とした大人になりたいものだ。(わし、もうすぐ生まれて半世紀だというのに)
コメント
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