集歌一〇六
原文 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
訓読 二人行けど去き過ぎ難き秋山を如何にか君し独り越ゆらむ
私訳 二人で行っても思いが募って往き過ぎるのが難しい秋の二上山を、どのように貴方は私を置いて一人で越えて往くのでしょうか。
大津皇子贈石川郎女御謌一首
標訓 大津皇子の石川郎女に贈れる御(かた)りし歌一首
集歌一〇七
原文 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沽 山之四附二
訓読 あしひきの山し雌伏(しふく)に妹待つと吾(われ)立(た)そ沽(か)れ山し雌伏に
私訳 「葦や檜の茂る山の裾野で愛しい貴女を待っている」と伝えたので、私は辛抱してじっと立ったままで貴女が忍んで来るの待っています。その山の裾野で。
注意 原文の「吾立所沽」の「沽」は、標準解釈では「沾」の誤記として「吾立ち沾(ぬ)れぬ」と訓じます。これに呼応して「山之四附二」は「山の雫に」と訓じるようになり、歌意が全く変わります。
石川郎女奉和謌一首
標訓 石川郎女の和(こた)へ奉(たてまつ)れる歌一首
集歌一〇八
原文 吾乎待跡 君之沽計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
訓読 吾(あ)を待つと君し沽(か)れけむあしひきの山し雌伏(しふく)に成らましものを
私訳 「私を待っている」と貴方がじっと辛抱して待っている、その葦や檜の生える山の裾野に私が行ければ良いのですが。
注意 原文の「君之沽計武」の「沽」は、標準解釈では「沾」の誤記として「君が沾(ぬ)れけむ」と訓じます。これに呼応して「山之四附二」は「山の雫に」と訓じるようになり、歌意が全く変わります。
大津皇子竊婚石川女郎時、津守連通占露其事、皇子御作謌一首
標訓 大津皇子の竊(ひそ)かに石川女郎と婚(まぐは)ひし時に、津守(つもりの)連(むらじ)通(とほる)の其の事を占へ露(あら)はすに、皇子の御(かた)りて作(つく)らしし歌一首
集歌一〇九
原文 大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之
訓読 大船し津守し占に告らむとはまさしに知りに我が二人宿(ね)し
私訳 大船が泊まるという難波の湊の住吉神社の津守の神のお告げに出て人が知ってしまったように、貴女の周囲の人が、私が貴女の夫だと噂することを確信して、私は愛しい貴女と同衾したのです。
日並皇子尊贈賜石川女郎御謌一首 女郎字曰大名兒也
標訓 日並(ひなみしの)皇子(みこの)尊(みこと)の石川女郎に贈り賜はる御りし歌一首
追訓 女郎(いらつめ)の字(あさな)は大名兒(おほなご)といへり。
集歌一一〇
原文 大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
訓読 大名児(おほなご)を彼方(をちかた)野辺(のへ)に刈る草(かや)の束(つか)し間(あひだ)も吾(われ)忘れめや
私訳 大名児よ。新嘗祭の準備で忙しく遠くの野辺で束草を刈るように、ここのところ逢えないが束の間も私は貴女を忘れることがあるでしょうか。
注意 標題の万葉仮名の「大名兒」を漢字表記すると「媼子」となります。つまり、石川女郎とは石川媼子(蘇我媼子)と表記されます。この石川媼子なる人物は、歴史では藤原不比等の正妻で房前の母親です。また、蘇我媼子は皇子の母方親族ですから日並皇子尊の着袴儀での添臥を行ったと考えられます。
原文 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
訓読 二人行けど去き過ぎ難き秋山を如何にか君し独り越ゆらむ
私訳 二人で行っても思いが募って往き過ぎるのが難しい秋の二上山を、どのように貴方は私を置いて一人で越えて往くのでしょうか。
大津皇子贈石川郎女御謌一首
標訓 大津皇子の石川郎女に贈れる御(かた)りし歌一首
集歌一〇七
原文 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沽 山之四附二
訓読 あしひきの山し雌伏(しふく)に妹待つと吾(われ)立(た)そ沽(か)れ山し雌伏に
私訳 「葦や檜の茂る山の裾野で愛しい貴女を待っている」と伝えたので、私は辛抱してじっと立ったままで貴女が忍んで来るの待っています。その山の裾野で。
注意 原文の「吾立所沽」の「沽」は、標準解釈では「沾」の誤記として「吾立ち沾(ぬ)れぬ」と訓じます。これに呼応して「山之四附二」は「山の雫に」と訓じるようになり、歌意が全く変わります。
石川郎女奉和謌一首
標訓 石川郎女の和(こた)へ奉(たてまつ)れる歌一首
集歌一〇八
原文 吾乎待跡 君之沽計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
訓読 吾(あ)を待つと君し沽(か)れけむあしひきの山し雌伏(しふく)に成らましものを
私訳 「私を待っている」と貴方がじっと辛抱して待っている、その葦や檜の生える山の裾野に私が行ければ良いのですが。
注意 原文の「君之沽計武」の「沽」は、標準解釈では「沾」の誤記として「君が沾(ぬ)れけむ」と訓じます。これに呼応して「山之四附二」は「山の雫に」と訓じるようになり、歌意が全く変わります。
大津皇子竊婚石川女郎時、津守連通占露其事、皇子御作謌一首
標訓 大津皇子の竊(ひそ)かに石川女郎と婚(まぐは)ひし時に、津守(つもりの)連(むらじ)通(とほる)の其の事を占へ露(あら)はすに、皇子の御(かた)りて作(つく)らしし歌一首
集歌一〇九
原文 大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之
訓読 大船し津守し占に告らむとはまさしに知りに我が二人宿(ね)し
私訳 大船が泊まるという難波の湊の住吉神社の津守の神のお告げに出て人が知ってしまったように、貴女の周囲の人が、私が貴女の夫だと噂することを確信して、私は愛しい貴女と同衾したのです。
日並皇子尊贈賜石川女郎御謌一首 女郎字曰大名兒也
標訓 日並(ひなみしの)皇子(みこの)尊(みこと)の石川女郎に贈り賜はる御りし歌一首
追訓 女郎(いらつめ)の字(あさな)は大名兒(おほなご)といへり。
集歌一一〇
原文 大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
訓読 大名児(おほなご)を彼方(をちかた)野辺(のへ)に刈る草(かや)の束(つか)し間(あひだ)も吾(われ)忘れめや
私訳 大名児よ。新嘗祭の準備で忙しく遠くの野辺で束草を刈るように、ここのところ逢えないが束の間も私は貴女を忘れることがあるでしょうか。
注意 標題の万葉仮名の「大名兒」を漢字表記すると「媼子」となります。つまり、石川女郎とは石川媼子(蘇我媼子)と表記されます。この石川媼子なる人物は、歴史では藤原不比等の正妻で房前の母親です。また、蘇我媼子は皇子の母方親族ですから日並皇子尊の着袴儀での添臥を行ったと考えられます。