短歌
集歌四六
原文 阿騎乃尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良自八方 古部念尓
訓読 阿騎の野に宿(やど)る旅人打ち靡き寝(い)も寝(ぬ)らしやも古(いにしへ)思ふに
私訳 阿騎の野に宿る旅人は薄や篠笹のように体を押し倒して自分から先に寝ることができるでしょうか。この阿騎の野では昔の出来事を思い出してしまうのに。
集歌四七
原文 真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師
訓読 ま草刈る荒野はあれど黄葉(もみぢは)し過ぎにし君し形見とそ来し
私訳 昔、大嘗宮の束草を刈り取った荒野はその時と同じですが、今は黄葉の葉が散り過ぎるように、そのようにお隠れになった君、その形見の御子といっしょにここに来ました。
集歌四八
原文 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
訓読 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立つそ見にかへり見すれば月西渡る
私訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの光が雲間から立つのが見えたので、振り返って見ると昨夜を一夜中に照らした月が西に渡って沈み逝く。
集歌四九
原文 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御羯立師斯 時者来向
訓読 日並し皇子し尊の馬並(な)めに御猟(みかり)立たしし時は来向かふ
私訳 昔、ここで日並皇子の尊が馬を並び立てた、その御狩をなされた、あの時と同じ時刻がやって来たようです。
注意 この歌群を安騎野での遊猟の歌と解釈する人がいるようですが、それは間違いです。集歌四九の歌は、昔、日並皇子が御狩を開始された、その同じ時刻になったと詠うだけです。これらの歌群には狩の情景はどこにも示していないことに気付いて、歌を鑑賞する必要があります。
藤原宮之役民作謌
標訓 藤原宮の役民(えのみたから)の作れる歌
注意 「藤原宮」は「藤井ヶ原宮」の略称で、香具山、耳成山、畝傍山、甘樫丘で囲まれた一帯に作られた王都
集歌五〇
原文 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須郎牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
訓読 八隅(やすみ)知(し)し 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら そ念(も)ほすなへに 天地も 寄りにあれこそ 磐走(いははし)る 淡海(あふみ)の国し 衣手の 田上し山し 真木さく 檜の嬬手(つまて)を 物(もの)の布(ふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流すれ 其を取ると 騒く御民(みたから)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居(ゐ)に 吾(あ)が作る 日し御門に 知らぬ国 寄す巨勢道ゆ 我が国は 常世にならむ 図負(あやお)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながらに有(な)らし
私訳 天下をあまねく統治される我が大王の天まで威光を照らす日の皇子が、新しい藤原の地で統治する国を治めようとして新たな王宮を御建てになろうと、現御神としてお思いになられると、天神も地祇も賛同しているので、岩が河を流れるような淡海の国の衣手の田上山の立派な檜を切り出した太い根元の木材を川に布を晒すように川一面に沢山、宇治川に玉藻のように浮かべて流すと、それを取り上げようと立ち騒ぐ民の人々は家のことを忘れ、自分のことも顧みずに、水に浮かぶ鴨のように水に浮かんでいる。その自分たちが造る、その天皇の王宮に、人も知らない遥か彼方の異国から寄せ来す、その「こす」と云う言葉の響きではないが、その巨勢の道から我が国は永遠に繁栄すると甲羅に示した神意の亀もやってくる。新しい時代と木津川に宇治川から持ち越してきた立派な木材を、百(もも)には足りない五十(いか)の、その「いか」と云う言葉の響きではないが、その筏に組んで川を遡らせる。そのような民の人々が勤勉に働く姿を見ると、これも現御神である大王の統治だからなのでしょう。
左注 右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮
注訓 右は、日本紀に曰はく「朱鳥七年癸巳の秋八月に、藤原宮の地に幸(いでま)す。八年甲午春正月に、藤原宮に幸(いでま)す。冬十二月庚戌の朔乙卯に、居を藤原宮に遷(うつ)せり」と云へり。
集歌四六
原文 阿騎乃尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良自八方 古部念尓
訓読 阿騎の野に宿(やど)る旅人打ち靡き寝(い)も寝(ぬ)らしやも古(いにしへ)思ふに
私訳 阿騎の野に宿る旅人は薄や篠笹のように体を押し倒して自分から先に寝ることができるでしょうか。この阿騎の野では昔の出来事を思い出してしまうのに。
集歌四七
原文 真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師
訓読 ま草刈る荒野はあれど黄葉(もみぢは)し過ぎにし君し形見とそ来し
私訳 昔、大嘗宮の束草を刈り取った荒野はその時と同じですが、今は黄葉の葉が散り過ぎるように、そのようにお隠れになった君、その形見の御子といっしょにここに来ました。
集歌四八
原文 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
訓読 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立つそ見にかへり見すれば月西渡る
私訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの光が雲間から立つのが見えたので、振り返って見ると昨夜を一夜中に照らした月が西に渡って沈み逝く。
集歌四九
原文 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御羯立師斯 時者来向
訓読 日並し皇子し尊の馬並(な)めに御猟(みかり)立たしし時は来向かふ
私訳 昔、ここで日並皇子の尊が馬を並び立てた、その御狩をなされた、あの時と同じ時刻がやって来たようです。
注意 この歌群を安騎野での遊猟の歌と解釈する人がいるようですが、それは間違いです。集歌四九の歌は、昔、日並皇子が御狩を開始された、その同じ時刻になったと詠うだけです。これらの歌群には狩の情景はどこにも示していないことに気付いて、歌を鑑賞する必要があります。
藤原宮之役民作謌
標訓 藤原宮の役民(えのみたから)の作れる歌
注意 「藤原宮」は「藤井ヶ原宮」の略称で、香具山、耳成山、畝傍山、甘樫丘で囲まれた一帯に作られた王都
集歌五〇
原文 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須郎牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
訓読 八隅(やすみ)知(し)し 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら そ念(も)ほすなへに 天地も 寄りにあれこそ 磐走(いははし)る 淡海(あふみ)の国し 衣手の 田上し山し 真木さく 檜の嬬手(つまて)を 物(もの)の布(ふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流すれ 其を取ると 騒く御民(みたから)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居(ゐ)に 吾(あ)が作る 日し御門に 知らぬ国 寄す巨勢道ゆ 我が国は 常世にならむ 図負(あやお)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながらに有(な)らし
私訳 天下をあまねく統治される我が大王の天まで威光を照らす日の皇子が、新しい藤原の地で統治する国を治めようとして新たな王宮を御建てになろうと、現御神としてお思いになられると、天神も地祇も賛同しているので、岩が河を流れるような淡海の国の衣手の田上山の立派な檜を切り出した太い根元の木材を川に布を晒すように川一面に沢山、宇治川に玉藻のように浮かべて流すと、それを取り上げようと立ち騒ぐ民の人々は家のことを忘れ、自分のことも顧みずに、水に浮かぶ鴨のように水に浮かんでいる。その自分たちが造る、その天皇の王宮に、人も知らない遥か彼方の異国から寄せ来す、その「こす」と云う言葉の響きではないが、その巨勢の道から我が国は永遠に繁栄すると甲羅に示した神意の亀もやってくる。新しい時代と木津川に宇治川から持ち越してきた立派な木材を、百(もも)には足りない五十(いか)の、その「いか」と云う言葉の響きではないが、その筏に組んで川を遡らせる。そのような民の人々が勤勉に働く姿を見ると、これも現御神である大王の統治だからなのでしょう。
左注 右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮
注訓 右は、日本紀に曰はく「朱鳥七年癸巳の秋八月に、藤原宮の地に幸(いでま)す。八年甲午春正月に、藤原宮に幸(いでま)す。冬十二月庚戌の朔乙卯に、居を藤原宮に遷(うつ)せり」と云へり。