竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉集 集歌66から集歌70

2020年01月15日 | 新訓 万葉集
太上天皇幸于難波宮時謌
標訓 太上天皇の難波宮に幸(いでま)しし時の謌
集歌六六 
原文 大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 枕宿杼 家之所偲由
訓読 大伴の高師(たかし)の浜の松し根を枕(まくら)き寝(ぬ)れど家(いへ)しそ偲(しの)ゆ
私訳 難波の大伴にある高師の浜の、その松の根を枕として浜辺を眺めながら野宿をしていても、大和の家だけが偲ばれます。
左注 右一首置始東人
注訓 右の一首は、置始(おきそめの)東人(あづまひと)
注意 「高師浜」は現在の大阪府高石市高師浜付近です。

集歌六七 
原文 旅尓之而 物戀尓 鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思
訓読 旅にしにもの恋しきに鳴(さへづる)も聞けずそありせば恋ひに死なまし
私訳 貴女に逢えない旅路にあるものだから、無性に恋しさが募り、鳥がしきりに囀る鳴くのもこの耳に聞こえてこないようでは、恋い焦がれる貴女への想いで死んでしまうと万遍も思うでしょう。
注意 原文の「物戀尓 鳴毛」は標準解釈の「物恋しきに鶴(たづ)が鳴(ね)も」に合わせるために、すべての伝本表記とは関係なく「物戀之伎尓 鶴之鳴毛」と校訂します。
左注 右一首高安大嶋
注訓 右の一首は、高安(たかやすの)大嶋(おほしま)。

集歌六八 
原文 大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉
訓読 大伴の御津の浜(へ)になる忘れ貝家(へ)になる妹を忘れに念(おも)へや
私訳 大伴の御津の浜に採れる貝殻の片方だけが残された忘れ貝よ、その伝承ではないが、私が家に愛しい貴女だけを残してきたが、その貴女を私が忘れてしまったとでも思いますか。
左注 右一首身人部王
注訓 右の一首は、身人部(むとべの)王(おほきみ)

集歌六九 
原文 草枕 客去君跡 知麻世婆 岸之垣布尓 仁寶播散麻思乎
訓読 草枕旅行く君と知らませば岸し垣生(かきふ)ににほはさましを
私訳 草を枕にするような苦しい旅を行く貴方と知っていましたら、この岸の垣のところで私が貴方を歓迎してあげましたものを。
左注 右一首清江娘子進長皇子 姓氏未詳
注訓 右の一首は清江(すみのえの)娘子(をとめ)の長皇子に進めたる 姓、氏はいまだ詳(つばび)らかならず
注意 集歌六六の歌の標題の「太上天皇幸于難波宮時」は、文武三年(六九九)正月の御幸であって、持統太上天皇が崩御された慶雲三年(七〇六)の時ではありません。集歌六六の歌以下、集歌六九の歌までの歌々は、集歌六四の歌が詠われた文武天皇の慶雲三年の難波御幸にゆかりとして紹介したのか、掲載の順に疑問があります。

太上天皇幸于吉野宮時、高市連黒人作謌
標訓 太上天皇の吉野宮に幸(いでま)しし時に、高市連黒人の作れる謌
集歌七〇 
原文 倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流
訓読 大和には鳴きにか来らむ呼子(よぶこ)鳥(とり)象(ころ)の中山呼びぞ越ゆなる
私訳 大和にはここから鳴くために飛んで来るのでしょうか。呼子鳥とも呼ばれるカッコウよ。秋津野の小路にある丘から「カツコヒ(片恋)、カツコヒ」と想い人を呼びながら越えて行きました。
注意 当時、流行した博打の一種である樗蒲(ちょぼ、かりうち)で、その出目である一伏三起を「ころ」と云い「象」と記します。なお、集歌七〇の歌の標題の「太上天皇幸于吉野宮時」とは、持統太上天皇の吉野宮への御幸を示しますから、推定で大宝元年(七〇一)六月の吉野宮への御幸の時となります。
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