たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

向かい風を追い風に変えながら

2018-10-18 23:29:22 | Weblog
 「賢くなりたい」と言う若い子は案外多い。
 賢いことが得であると騙されているのだ。

 「賢くなりたい」と言ってくる子に、俺が何度も繰り返す言葉は、「賢くなっても、何一つ良いことは無い、むしろ賢くなるための修行でツラいだけ損だけど、それでも良いの?」ということ。
 これだけ更新頻度が落ちて、Twitterでアナウンスしなくても、いまだに「このページ」を定期的に見てくれている、賢明な読者にはわかるだろうが、自分の胸に手をあてて考えて欲しいのよね。「賢かったから、得をしたことが、はたして、これまでに一度でもあっただろうか?」と。

 民主主義国家では、多数決によってモノゴトが決定される。多数決とは、すなわち「みんながやっている普通」が採用され続けるということだ。多くの他人よりも賢くなってしまった人にとって、平均的なみんなはただのバカなので、いちいちバカの考えそうなことを考えながら選択をしなくてはいけなくなる。極端に言ってしまえば、「バカが普通だと思っている、極めて生産性が低いバカげたことに対して、付き合ってやれる」賢いヤツ(それは即ちバカ)や、その構造だけはよくわかっているバカが、決定権を持ちやすいということである。

 そして、賢くなればなるほど、この構造の絶望感に打ちひしがれる。
 「どんな場所に行っても、どんな時代であっても、この構造が保存されている」ってね。

 だったら、最初から、こんな構造に気がつかないほうが良い。意識できないように、井の中の蛙で一生過ごすほうが良いじゃないか、と思うのだ。

 系を正しくみるためには、系外へと「引いてみる」ことが重要になる。でも引いて見すぎてしまうと、目に余るほどの、不平等や理不尽を実感するようになってしまう。そして、構造を認識することはできても、何もできず、何も変えられそうもない自分自身の無能さに、また絶望するのである。

 ならば、目の前のことを、自分自身が好きなように、とことん楽しむほか無い。賢くて楽しむためには、スマホが急に壊れても「スマホが壊れた」とただ嘆くのではなく、せっかくだからと分解して修理しようと楽しむような、向かい風を追い風に変えながら、空を飛んでいくしかないのだ。
コメント
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