たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

嬉し涙溢れるこの瞬間

2017-12-23 03:18:07 | Weblog
 ヒトは誰しも、純粋さだけを発現し続けることはできないし、不純さだけを発現し続けることもできない。
 打算を一切含まない会話など存在しないし、逆に、真心を一切含まない行為など存在しない。あくまでも、比率の問題なのだ。

 誰だって、子供くらいにはクリスマスの奇跡やサンタクロースの存在を信じていてほしいという願いを持っている。と、同時に、純粋な気持ちを普段自分が発現できていないぶん、子ども達にそれらについて純粋であってほしい、と押し付けるエゴも持っている。
 いつだって、願いとエゴは微妙で、それらをコントロールする純粋さと不純さの割合は、どんなに正確に測定しようと思っても、なかなか掴めないものだ。

 それが、願いなのかエゴなのか、その気持ちが、純粋なのか不純なのか。
 離れられない、光と闇。誰もが、絶対矛盾的自己同一性を抱えている。

 純粋さと不純さは、共存している状態こそが、実は自然なのだ。

 これが、時間変化するし、多体系にもなる。
 入口は純粋な気持ちからだったとしても、行為を繰り返して試行回数を増すほどに不純さの要素が入ってくることもあるし、その逆ももちろんある。
 相手の純粋さだけを抽出して付き合おうとすれば、必ず不純さが無視できなくなってしまい、「この部分さえなければ最高なのに」と結論づけたがる関係性は、いつだって長続きはしない。誰かを敵認定してしまえば、その瞬間だけラクにはなるけど、そのぶんそこから得られる新たな知見に自分から逃げてしまうことになってしまう。100%無意味な集団など存在しないし、100%正義の集団なんて存在しない。

 そんな性質のこの世界の中で、好きな人を選んだり、嫌いなものを決めたりしなくちゃいけない。
 しかし、「あなたの不純なところも含めて好きです」という言葉がどこか薄っぺらい一方で、「あなたの純粋な部分が好きです」というのも、不純さを見抜けない、ただの無知っぽく聞こえて、「好き」を説明することはとても難しい(当然、「嫌い」も)。

 俺は、「好き」とか「嫌い」って判断基準は、純粋さや不純さというパラメータを超えた先にあるんじゃないかと思う。この純粋さと不純さの要素を決めている「人格」というやつが、どうであるか。これは、イイとか悪いとかでは語れないし、経験でも努力でも環境でも遺伝子でも、どうにもならない「何か」であると思うのだ。

 その「何か」が2人以上の関係性で共鳴するとき、それを「運命」と言いたがる。
 レ点をつけて「命を運ぶ」この言葉は、泡沫であることも多いし、永遠に続く可能性もある。永遠に続く場合、つまり、時間依存性の無い「運命」は「ホンモノ」だと定義されるが、、そんなことはどうでもいいくらいに、嬉し涙溢れるこの瞬間(いま)を、噛みしめていたいと思う。

 その涙は、自分が想像していたよりも、ほんのちょっとのエゴしか入っていなかった。多分な純粋さが含有している涙に自分で驚きながらも、本当に好きなんだと、また噛みしめていく。
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