たかはしけいのにっき

日々の「日記」を書いています。
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「辞めればいいじゃん」って軽々しく言わないで! -ブラック環境について-

2016-10-25 01:46:51 | Weblog
 ブラックな環境下にいる本当に心ある人にとって、「ブラックな環境だと思っているなら、さっさと辞めればいいじゃん」という言葉はものすごく傷つく。
 これはレアなケースではないし、それなりの多数派として存在している程度の「心ある人」であって、何かのエクスキューズではない。だから、一概に、短絡的に「ブラックなら逃げればイイじゃん」と言い切れないだろう。

 確かに個人個人が完全に自由状態であることをベースとしているリバタリアン的な思想からすると、「そんなに文句あるなら、やめればいいじゃん」は、一見、至極正しいかのように感じる。
 しかし、ちょっと考えてみて欲しい。ブラックな環境をそのまま享受している人の思考回路を。その人たち全員が、ただ単に、怠惰であり、惰性であり、意見を主張したり、その場を離れるための準備をする、などという無難じゃない行為を具現化できない無能だから、その場所を離れないわけではないだろう。
 だって、実際にそういう人の中で、まともに他人のことを思いやれる人に話を訊いてみると、「自分がいなくなったら、その分の仕事を誰かがしなくちゃいけなくて困るから」「私がいなくなると、この研究テーマを引き継ぐ人がいなくなっちゃうから」と、目立たないながらも、確実に誰かのためになろうとしている優しい心の存在に気がつくだろう。こういうクズじゃない人が、あらゆる社会の側面で支えになっている事を、行動力のある人は決して忘れてはいけないのだ(みんながみんな、辞めてしまえば、すべては成り立たなくなる)。ブラックな研究室を勢いで辞めたり、ブラック企業を真っ正面から批判できる、行動力のある目立つ人は、確かに大きい枠組みでみると社会に貢献しているケースはあるのだが、実のところ自分のことしか考えていなかったりする場合もそれなりに多い。

 実は、厭だったら辞めればいいじゃないか、という言葉は、それだけでは二重に間違っている。この言葉には、人間は本来自由意志があるのだから何でもかんでも好きに選べるはずでしょ?(つまりいつでも辞められるはずでしょ?)というリバタリアン的な発想と、そういうブラック環境に対する強烈な反抗と拒絶が結果的に社会全体における最大多数の最大幸福に繋がるという功利主義の側面を、同時に併せ持っているかのように見えるが、前者は(突き詰めたときに、ただの)自分勝手、後者は(かなり)ただの理想論に近く、実際のところ、本当にたった一人で、そこまで背負い込めているのだろうか?日本国民の中で考えたとしても、1億人以上いるわけで、1人の人間では、マトモに考えて1億分の1くらいしかより良くできないはずだし、せいぜいよくても100万分の1。
 そんな世間全体から観ると、ほんのちょっとの「より良く」のために、目の前の、より知っている、もしかしたらものすごく大事な人かもしれない人に対して、多大なる迷惑をかけながら、とにかく自分がいなくなりさえすれば、それでいいのだ、とは言い切れないのではないだろうか?

 これは大昔にここで書いた事があるが、俺は、華岡青洲を心からは尊敬できない。どんなにその後により多くの人にとって役に立つ全身麻酔を開発しようとも、自分の母を死なせ、自分の妻を失明にするという犠牲は、生涯悔やむに値する罪なんじゃないかと俺は思う(し、華岡青洲本人もそう思ったのではないかと思う)。
 より大いなる善のために、目の前の誰かを犠牲にすることは、結局人を後悔させるし、そこまで行かなくても、そこまで気が行っていなかったとしても、単純な優しい気持ちから、その場所にいる人たちを見捨てたくなく、でも自分には具体的にどうすることもできなく、仕方なく、ブラックな上司やブラックな教授の指示に従う事で、他人に迷惑をかけないように、そのなかで他人をより良くできるようにと、邁進している人は確かに(それなりの多数派として)存在しているし、そういう人に対して、「辞めりゃいいじゃん」は少々思慮が足りないのではないだろうか。

 いや、だからこそ、そんな優しいヤツが損をしているのは観ていられないからこそ、自分が被害者であることを認識して、「さっさと、辞めてくれ!」と言いたい気持ちはわかるし、俺自身もそういう思いでいる。
 ただし、真面目で優しくて損している人であるからこそ、「助けて!」と具体的に声を上げていなかったとしても、どうにかしなくちゃいけないと俺にやる気を起こさせ、俺が愛しく想えるのだと思うのだ。

 だから、俺は、ブラック環境から脱出した後になったときに、その自分がいたブラック環境にまだ居続けている他人の事を「大丈夫かな?」っと、おそらく思えないであろう人に対しては、積極的に助ける気が失せるのである。
 もちろん、求められている以上、(俺に学びがあるから)助けるが、こういう人を助ければ助けるほど、もしかしたら、巡り巡って、本当に助けなくちゃいけない、俺が本当に助けたい人が、その瞬間に辛い想いをするんじゃないだろうか、と想像してしまうからだ。

 どんな環境で、どんな選択をするにしても、そこに働く気持ちこそが大事なのである。
 ブラック研究室、ブラック企業に身を置いてしまったときに、逃げようと思うも善し、(自分はまだ我慢できるから)居続けようと思うも善し、である。そこに誰かへの善意さえ本気で働いているなら、あなたのどの選択も常に正しいし、俺が責任を持って肯定化しようと思う。

 そう、どんな選択をしようとも、任意の人生において、失敗は原理的に存在しないのだから。
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