たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

絶対矛盾的自己同一 2

2013-02-04 02:20:23 | Weblog
 誰か絶対的な人が、すべてを指示してくれたり、イイことや悪いこととは何かを判別してくれたりすることを、みんな望んでいるし、俺も例外じゃない。
 いくつになっても人は人の子。守ってくれる存在が欲しいものだ。

 だけど、大人になるにつれて、そんな絶対的に正しい人なんてこの世には存在しないことを知ることになる。知っているのに、それでも「日本は年功序列だから」「年上には穏便にしなくちゃ」って言葉で誤魔化す。
 絶対的な存在がもう存在しないってことは不幸なことだし、目を背けたいことだから、年上には気を遣えるだけ遣って、年下に対しては自分は絶対的じゃなきゃいけないんだ、っと無駄な方向に努力して、上から押さえつける。

 みんな、自分の未来の成功モデルを、手っ取り早いところに求め過ぎなんだよね。

 だから、研究者の卵は、たった1人の先生についていって、1つの狭い分野の系や単一の生物種の研究にしか着手できない。アマチュアミュージシャンは、1人のアーティストやかなり狭くコアな音楽ジャンルばかり詳しくなって、バンドならバンド、アカペラならアカペラって、誰もジャンルを超えようとはしない、「少しも」ね。。
 だから、集団のなかで、少しの不条理は我慢できるし、論理性の欠如が生まれるし、薄暗闇になっていく。

 もっと具体的な例を示そう。
 物理学から生命系の分野へ転向する人は、最近、俺の周りでも多い。
 高校生には最初に教えるが、物理学には、定量的(数学的な論理性の形容)と定性的(理科的な論理性の形容)、っという基本の考え方があって、これらを対等に扱う。このなかで、定量的なほうが苦手な人たちが、生物分野にやってくることが多い。
 にも拘らず、物理学から生命系に転向した人は、実際の生物を扱わず、情報科学的なことをしたり、数値計算をしたりする人が、多数を占める。手っ取り早く、物理から生物に転向した人の成功モデルを自ら定めてしまったのかな、っと俺は推察しているが、せっかく変化したなら、もう少しだけでも、どっぷり生物をきちんと理解しようという意気込みを見せて欲しいなって思う。

 あ、そうそ、研究室所属前の理系大学生は、大学の教員に対して「ダメだなー」「全然わかってねーんじゃねーの?」とか言うことも多いのに、研究室に配属されると、自分の指導教員や他の研究室の先生の悪い部分やダメな部分を、友達や信頼している人にさえ、みんな言わなくなるのも、イイ例かもね。
 純粋経験から具体化したときに、純粋経験をすべて捨ててしまうのはもったいなくない?だって、過去の自分と今の自分、未来の自分と今の自分は、確かに違うけれど、確かに連続的なのだから。

 何かに対して、即物的な矛盾があったなら、そこに対して、そのままにしていてはいけないんじゃないかな。
 もう少し上手な絶対矛盾的自己同一を使い方を、多くの人が持っていたらイイのに。

 自らの未来の成功モデルは、自らの頭や心で創造するしかない。
 尊敬する人は1人に定めない。各々の尊敬する人のイイ部分を抽出して自分の成功モデルを築くっていうと、それはまたそれでちょっと違くって、その時間帯、その時間帯で、絶対的に尊敬する人を変えるのだ。状態を一意に定めないっていうと、今度は正確過ぎて、伝わらないかな。

 矛盾を矛盾のまま抱えながら、それでも、その関係をそのまま維持しようとすることが、真の矛盾であり、絶対矛盾的自己同一の一つの側面だと思うけど、そういう点では、俺も何もカワラナイ。
 ただ、せめて、自分の生徒や後輩に対しては、自分を絶対的な存在の一つとして提供したいから、めいいっぱい論理性と想いを詰めながら、本当の意味で謙虚になることを心がけている。

 本当は、絶対的な存在は、いつだって、自分の理想の中にいるし、それは決して1人ではなくて、2人や2人以上でイメージされることも、絶対矛盾的自己同一なのだと思う。
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特異的な助けられ方

2013-02-02 00:37:37 | Weblog
 思考をどういうところに使うかを思考すれば、コスパーよく結果が得られる。
 なんでもかんでも思考すればイイってもんじゃないし、論理を突き詰めていけばイイってもんじゃない。系を掌握する上で重要だったり、多くのことに役に立つようなことで論理を展開していかなきゃね。

 例えば、ある公園の砂場の砂の一つひとつに適切な初期条件と運動方程式を当てはめて、様々な環境変化に耐えうる、美しい論理構築をしたとしても、論理構築がとても難しい割に、それは何も役に立たないことは自明であろう。

 だから、物理では「任意の」が好きなのだ。一般性を上げるために。

 しかし、他分野に来ると一変する。
 俺の大好きな物理が、その特異的な実験系にとって、、いや、物理学以外を専攻している、その実験系を研究している人本人にとって、都合のイイようにしか利用されず、他の系にはいっさい適用できないような理論構築の仕方をする。それだけならまだイイのだが、それがその研究内容の根幹であったりすることもあって、それは流石に乱暴なんじゃないかなっと思う。
 すべての物質、すべての系で、実現しうるような理論的枠組みじゃないなら、それはあくまで各論に過ぎず、価値がないように感じられても仕方ない。だって、この世の殆どの人は、砂場の砂の時間発展に興味は無いのだから。

 ただ、どんなことだって無駄では無いことに注意しておかないといけない。
 無意味な難しい問題、つまり高級なパズルは、俺に、イヤなことを考えたり想いださせたりする時間を与えないでくれる。
 そういう意味では、無意味に難しい問題ってのは、癒し系なのだと思う(笑)。

 そんな俺の特異的な思考回路を見抜いて、救いの手を差しのべてくれた人に助けられながら、嬉しさと優しさを取り戻す一方で、助けられたという事実で、ちょっとだけ情けなくなったりしてみて。。
 大切な人にあたらないようにするにはインタラクションを持たないことがイイと思っていたけど、結局、信頼関係が深い人から助けられていることを感じると、具体的な問題に対してきちんと正面から向き合った方が良いんだと思う。

 自分のことをわかるのは自分だけだし、自分を判断できるのも自分だけ。その思考に対しても、思考すべきところを思考しようとする賢さが必要だね。
 どんな集団といたって、最終ラインはいつも自分自身に委ねられているのだから、強くならなきゃ。
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演技と本当の間

2013-02-01 01:41:20 | Weblog
 一回の因果関係を鏤めただけの理論(こういうものは「理論」とは呼べないが)では、真実を見抜くことはできない。
 それじゃぁ拡散してゆくばかり。まとまりがあって新規性があって美しい理論を築くことはできない。

 転移現象を扱ったりする際に必要な網羅的に理解しようとする力や、何十回もの因果関係に耐えうるだけの圧倒的な思考の体力が必要であり、それが無い限りは、経験したこともないことに対して、真実を見抜き、その上で得られた問題点に具体的な指針を立てることなんてできない。
 もっともっと、本当の意味で思考力を上げまくって、慧眼さを高めなきゃ。

 俺には、経験してもいないことに対して論理性だけでアプローチする力が、絶対に必要なのだ。

 網羅的に理解しようとすれば、どのランダムな揺らぎが作用しているのかを、原理的に知ることができなくなる。ミクロな物理についてどんな完全系で組むことも可能になってしまうから。
 そして、因果関係は繰り返せば繰り返すほど、曖昧で誤差率が高まっていく。これは誤差の伝播のかけ算から、言わずもがな。

 この部分の問題について、論理から離れて、神のみぞ知る解を求めるためには、直観力が必要で、思考力だけでなく、こういう力も慧眼さに効いてくる。
 どちらかあればイイというわけじゃないらしい。どちらも一方のデメリットをカバーしてくれるから。すると、任意の事象に対して論理性だけでアプローチすることが可能となるはず、、かも。。笑

 一人で考える時間が長くなっているので、根本的な問題について考えることが多く、いつのまにか指針を上手く言葉にできていることに驚く。それは、学年が上がったから?それとも、別の場所を知ったから?
 そういう時に、今できることができているのか不安になるけど、いま現在、演技と本当の間で、離れているということ自体が、1つのメッセージであり、それを享受してくれさえすれば、次にできること、取るべき行動が見えてくる。離れていることだって、一過性かもしれないんだし。

 別に裏切ってるわけじゃないんだよ?、、ってわかっているから、問題なんだったりして…。
 まぁもし裏切った裏切られたって思ってるんだったら、それでも俺は(俺だって負けたくないから)イイけど。
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