誰か絶対的な人が、すべてを指示してくれたり、イイことや悪いこととは何かを判別してくれたりすることを、みんな望んでいるし、俺も例外じゃない。
いくつになっても人は人の子。守ってくれる存在が欲しいものだ。
だけど、大人になるにつれて、そんな絶対的に正しい人なんてこの世には存在しないことを知ることになる。知っているのに、それでも「日本は年功序列だから」「年上には穏便にしなくちゃ」って言葉で誤魔化す。
絶対的な存在がもう存在しないってことは不幸なことだし、目を背けたいことだから、年上には気を遣えるだけ遣って、年下に対しては自分は絶対的じゃなきゃいけないんだ、っと無駄な方向に努力して、上から押さえつける。
みんな、自分の未来の成功モデルを、手っ取り早いところに求め過ぎなんだよね。
だから、研究者の卵は、たった1人の先生についていって、1つの狭い分野の系や単一の生物種の研究にしか着手できない。アマチュアミュージシャンは、1人のアーティストやかなり狭くコアな音楽ジャンルばかり詳しくなって、バンドならバンド、アカペラならアカペラって、誰もジャンルを超えようとはしない、「少しも」ね。。
だから、集団のなかで、少しの不条理は我慢できるし、論理性の欠如が生まれるし、薄暗闇になっていく。
もっと具体的な例を示そう。
物理学から生命系の分野へ転向する人は、最近、俺の周りでも多い。
高校生には最初に教えるが、物理学には、定量的(数学的な論理性の形容)と定性的(理科的な論理性の形容)、っという基本の考え方があって、これらを対等に扱う。このなかで、定量的なほうが苦手な人たちが、生物分野にやってくることが多い。
にも拘らず、物理学から生命系に転向した人は、実際の生物を扱わず、情報科学的なことをしたり、数値計算をしたりする人が、多数を占める。手っ取り早く、物理から生物に転向した人の成功モデルを自ら定めてしまったのかな、っと俺は推察しているが、せっかく変化したなら、もう少しだけでも、どっぷり生物をきちんと理解しようという意気込みを見せて欲しいなって思う。
あ、そうそ、研究室所属前の理系大学生は、大学の教員に対して「ダメだなー」「全然わかってねーんじゃねーの?」とか言うことも多いのに、研究室に配属されると、自分の指導教員や他の研究室の先生の悪い部分やダメな部分を、友達や信頼している人にさえ、みんな言わなくなるのも、イイ例かもね。
純粋経験から具体化したときに、純粋経験をすべて捨ててしまうのはもったいなくない?だって、過去の自分と今の自分、未来の自分と今の自分は、確かに違うけれど、確かに連続的なのだから。
何かに対して、即物的な矛盾があったなら、そこに対して、そのままにしていてはいけないんじゃないかな。
もう少し上手な絶対矛盾的自己同一を使い方を、多くの人が持っていたらイイのに。
自らの未来の成功モデルは、自らの頭や心で創造するしかない。
尊敬する人は1人に定めない。各々の尊敬する人のイイ部分を抽出して自分の成功モデルを築くっていうと、それはまたそれでちょっと違くって、その時間帯、その時間帯で、絶対的に尊敬する人を変えるのだ。状態を一意に定めないっていうと、今度は正確過ぎて、伝わらないかな。
矛盾を矛盾のまま抱えながら、それでも、その関係をそのまま維持しようとすることが、真の矛盾であり、絶対矛盾的自己同一の一つの側面だと思うけど、そういう点では、俺も何もカワラナイ。
ただ、せめて、自分の生徒や後輩に対しては、自分を絶対的な存在の一つとして提供したいから、めいいっぱい論理性と想いを詰めながら、本当の意味で謙虚になることを心がけている。
本当は、絶対的な存在は、いつだって、自分の理想の中にいるし、それは決して1人ではなくて、2人や2人以上でイメージされることも、絶対矛盾的自己同一なのだと思う。
いくつになっても人は人の子。守ってくれる存在が欲しいものだ。
だけど、大人になるにつれて、そんな絶対的に正しい人なんてこの世には存在しないことを知ることになる。知っているのに、それでも「日本は年功序列だから」「年上には穏便にしなくちゃ」って言葉で誤魔化す。
絶対的な存在がもう存在しないってことは不幸なことだし、目を背けたいことだから、年上には気を遣えるだけ遣って、年下に対しては自分は絶対的じゃなきゃいけないんだ、っと無駄な方向に努力して、上から押さえつける。
みんな、自分の未来の成功モデルを、手っ取り早いところに求め過ぎなんだよね。
だから、研究者の卵は、たった1人の先生についていって、1つの狭い分野の系や単一の生物種の研究にしか着手できない。アマチュアミュージシャンは、1人のアーティストやかなり狭くコアな音楽ジャンルばかり詳しくなって、バンドならバンド、アカペラならアカペラって、誰もジャンルを超えようとはしない、「少しも」ね。。
だから、集団のなかで、少しの不条理は我慢できるし、論理性の欠如が生まれるし、薄暗闇になっていく。
もっと具体的な例を示そう。
物理学から生命系の分野へ転向する人は、最近、俺の周りでも多い。
高校生には最初に教えるが、物理学には、定量的(数学的な論理性の形容)と定性的(理科的な論理性の形容)、っという基本の考え方があって、これらを対等に扱う。このなかで、定量的なほうが苦手な人たちが、生物分野にやってくることが多い。
にも拘らず、物理学から生命系に転向した人は、実際の生物を扱わず、情報科学的なことをしたり、数値計算をしたりする人が、多数を占める。手っ取り早く、物理から生物に転向した人の成功モデルを自ら定めてしまったのかな、っと俺は推察しているが、せっかく変化したなら、もう少しだけでも、どっぷり生物をきちんと理解しようという意気込みを見せて欲しいなって思う。
あ、そうそ、研究室所属前の理系大学生は、大学の教員に対して「ダメだなー」「全然わかってねーんじゃねーの?」とか言うことも多いのに、研究室に配属されると、自分の指導教員や他の研究室の先生の悪い部分やダメな部分を、友達や信頼している人にさえ、みんな言わなくなるのも、イイ例かもね。
純粋経験から具体化したときに、純粋経験をすべて捨ててしまうのはもったいなくない?だって、過去の自分と今の自分、未来の自分と今の自分は、確かに違うけれど、確かに連続的なのだから。
何かに対して、即物的な矛盾があったなら、そこに対して、そのままにしていてはいけないんじゃないかな。
もう少し上手な絶対矛盾的自己同一を使い方を、多くの人が持っていたらイイのに。
自らの未来の成功モデルは、自らの頭や心で創造するしかない。
尊敬する人は1人に定めない。各々の尊敬する人のイイ部分を抽出して自分の成功モデルを築くっていうと、それはまたそれでちょっと違くって、その時間帯、その時間帯で、絶対的に尊敬する人を変えるのだ。状態を一意に定めないっていうと、今度は正確過ぎて、伝わらないかな。
矛盾を矛盾のまま抱えながら、それでも、その関係をそのまま維持しようとすることが、真の矛盾であり、絶対矛盾的自己同一の一つの側面だと思うけど、そういう点では、俺も何もカワラナイ。
ただ、せめて、自分の生徒や後輩に対しては、自分を絶対的な存在の一つとして提供したいから、めいいっぱい論理性と想いを詰めながら、本当の意味で謙虚になることを心がけている。
本当は、絶対的な存在は、いつだって、自分の理想の中にいるし、それは決して1人ではなくて、2人や2人以上でイメージされることも、絶対矛盾的自己同一なのだと思う。