そこにどんな短絡的なご利益があったとしても、長時間かけて自らが蝕まれていくシステムからは、絶対に走って逃げなきゃいけないのに、僕らはどうしてもそれに甘んじてしまう。
その長時間が数時間であれ数週間であれ数年であれ数十年であれ、一過性の心地良さから、不利益を論理的に抽出することで毒だと認知して、離れようと直観的に決断するのには、それなりの直観力と論理力を必要とする。
幻の上に形成されていた信頼関係は、長ければ長いほど人を傷つけるし、確かに存在していたホンモノから勢いをつけて逃げるために、極端なことをしがちだ。
そんな時にいつだって必要なのは、何かの特効薬ではなく、きちんとした休息と思考だ。どうして、自分は"心地良い毒"の虜になってしまったのか。どうして、それが目の前に提供されてしまったのか。そんな理不尽を提供してきた人は、どうしてそんなふうになってしまうのか。きちんと掘り下げて掘り下げて、考え続けて考え続けて、きちんと底まで手をつく必要がある。
きちんと休息し、考えるべきことを考えられれば、あらゆる執着からは解放され、自分のことだけでいっぱいいっぱいになってしまっている頭のメモリーに、空きメモリーが正しく作られる。そうなれば、構築された新たな論理体系とともに、他者に正しく興味を持つことができる。休息と思考をせず、特効薬で誤魔化し続け、自分の欲望に最適な誰かを求め続けていても、いつまでも幸せには到達しない。
それをもはや一瞬でできるようになってしまっている俺は、知的好奇心こそが最大の"心地良い毒"になってしまっており、目的が「正しく知ること」になりがちになる。
知ることは、あらゆる不安から解放される一方で、多くの人が素朴に抱く不安からは共感されない境地に達してしまう。それだけならまだ良いが、知ることそのものがフィードバックして、社会全体の理不尽さを露呈させる。そして、究極的に行き着く先が「突然生まれさせられて、いつ死ぬかもわからない」という圧倒的な理不尽に直面させられる。考えれば考えるほど、この真実に行き着く確率が高まる。
そう、学習は、短絡的なご利益として、目の前の恐怖や不安からは解放されることができるが、長い目で見ると、孤独感を深め、より大きな理不尽に気がつくだけなのである。だからこそ、多くの人は「忙しさ」を手に掴み、自らの頭で考えることを自ら放棄するのだ。
研究することや知を探求することが好きだと、「満足しないこと」が常態化し、それに心地良さを求めるがあまり、幸せに到達できない。
「もっともっと」と真実を渇望するがあまり、目の前のことで満足できないから、探求し続けてしまい、具体的な他者よりも普遍性に着目しがちになり、目の前の幸福に気がつくことができなくなってしまうのだ。
・・・けどさ、別にそれでも良いんじゃないか、って思うのよね。別に、研究したり探求したりすることが悪いわけではないし、満足と切り分けて考えられれば良いはずなわけですよ。それにそもそも、幸せとは到達するようなものなのだろうか?、とも思うしね。
だからこそ、この"心地良い毒"からは逃げられないし、生涯逃げられない気もする。
そして、(ここからが言いたいことなのですがw)実はそれは、ユニバーサルな"心地良い毒"にも適応されるものなのかもしれない、、よね?だって、どーせいつかは死んじゃうんだから、いつまでも認識できないなら、幻でも同じでしょ?
それに、、どんなに「心地良い毒」であったとしても、そこに確かに存在したホンモノの気持ちまで、ニセモノなわけではないのだから。。
その長時間が数時間であれ数週間であれ数年であれ数十年であれ、一過性の心地良さから、不利益を論理的に抽出することで毒だと認知して、離れようと直観的に決断するのには、それなりの直観力と論理力を必要とする。
幻の上に形成されていた信頼関係は、長ければ長いほど人を傷つけるし、確かに存在していたホンモノから勢いをつけて逃げるために、極端なことをしがちだ。
そんな時にいつだって必要なのは、何かの特効薬ではなく、きちんとした休息と思考だ。どうして、自分は"心地良い毒"の虜になってしまったのか。どうして、それが目の前に提供されてしまったのか。そんな理不尽を提供してきた人は、どうしてそんなふうになってしまうのか。きちんと掘り下げて掘り下げて、考え続けて考え続けて、きちんと底まで手をつく必要がある。
きちんと休息し、考えるべきことを考えられれば、あらゆる執着からは解放され、自分のことだけでいっぱいいっぱいになってしまっている頭のメモリーに、空きメモリーが正しく作られる。そうなれば、構築された新たな論理体系とともに、他者に正しく興味を持つことができる。休息と思考をせず、特効薬で誤魔化し続け、自分の欲望に最適な誰かを求め続けていても、いつまでも幸せには到達しない。
それをもはや一瞬でできるようになってしまっている俺は、知的好奇心こそが最大の"心地良い毒"になってしまっており、目的が「正しく知ること」になりがちになる。
知ることは、あらゆる不安から解放される一方で、多くの人が素朴に抱く不安からは共感されない境地に達してしまう。それだけならまだ良いが、知ることそのものがフィードバックして、社会全体の理不尽さを露呈させる。そして、究極的に行き着く先が「突然生まれさせられて、いつ死ぬかもわからない」という圧倒的な理不尽に直面させられる。考えれば考えるほど、この真実に行き着く確率が高まる。
そう、学習は、短絡的なご利益として、目の前の恐怖や不安からは解放されることができるが、長い目で見ると、孤独感を深め、より大きな理不尽に気がつくだけなのである。だからこそ、多くの人は「忙しさ」を手に掴み、自らの頭で考えることを自ら放棄するのだ。
研究することや知を探求することが好きだと、「満足しないこと」が常態化し、それに心地良さを求めるがあまり、幸せに到達できない。
「もっともっと」と真実を渇望するがあまり、目の前のことで満足できないから、探求し続けてしまい、具体的な他者よりも普遍性に着目しがちになり、目の前の幸福に気がつくことができなくなってしまうのだ。
・・・けどさ、別にそれでも良いんじゃないか、って思うのよね。別に、研究したり探求したりすることが悪いわけではないし、満足と切り分けて考えられれば良いはずなわけですよ。それにそもそも、幸せとは到達するようなものなのだろうか?、とも思うしね。
だからこそ、この"心地良い毒"からは逃げられないし、生涯逃げられない気もする。
そして、(ここからが言いたいことなのですがw)実はそれは、ユニバーサルな"心地良い毒"にも適応されるものなのかもしれない、、よね?だって、どーせいつかは死んじゃうんだから、いつまでも認識できないなら、幻でも同じでしょ?
それに、、どんなに「心地良い毒」であったとしても、そこに確かに存在したホンモノの気持ちまで、ニセモノなわけではないのだから。。