たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「数字では語りきれない」から始まるワナ

2019-12-02 05:39:16 | Weblog
 「数字では語りきれない」とはよく言われてきた言葉だが、同時に、発話者の立場や状況、能力などによって、かなり意味合いが変わってきてしまう言葉でもある。
 それが昨今、逆説的に語られ、「結局、数字があるかないかでしょ!」と開き直ることで、思考の怠惰を正当化することが慣習化してしまって久しい。

 確かに、理想論的に述べることに抵抗なく、「数字では語りきれないから」と述べ続けることによって、具体性のない曖昧な絵空事に付き合わされるのはごめんだ。
 だが、これを逆説的に捉え、フェルミ推定などを用いて部分的に定量化することに加え、立場を利用した合理化や反語的表現を巧妙に用いることで、”論理的であること”を全面にしながら、自身のインテリとしてのポジショニングを崩さないで語ろうとする”頭イイと思われたいバカ”が、やたらに多く存在してしまっているのも問題だ。

 数字で冷酷に他者を評価する受験のシステムでは、数字ひとつで大きく歩む人生が変わってしまう。合格最低点が60点だったとして、60点だった者と59点だった者の間には明確な実力の違いは存在しないだろう。テストが実力を完璧に描像できているという信仰を持つ者も少なくないが、大抵の良識ある人は「テストだって完璧ではないからなぁ」と思うだろう。しかしながら、「だから、一般入試では測れない人材を!」と推薦入試やAO入試を多くしてしまえば、目上のおじさんに媚を売る能力が高い人材が選出されるだけである。多様な評価基準を設定したつもりでいても、平気で”承認欲求”が露呈してしまうシステムであったりする。まぁ、人間が考えることなんて、そんなもんだよね。
 博士号を取った直後の論文数について「2と6は変わらない。そんなの先生の方針でいくらでも変わってしまうから」と言った先生がいた。『じゃあ何が重要なのか?』と訊くと、「やっぱり”何か”を持っているかどうかですよ」と言う。こういう人は、「0も1も10も、先生やテーマの依存性は(実は)かなりある」ということに気がつかず、ただ単純に自分に従順な人や自分が好きな人を採用しがちになり、自身が正当な評価をしていると勘違いしてしまう典型である。こうなった時にみんなどう思うかというと、「だったら、単純に数のほうがマシだ!」と思うはずだ。
 そして、あらゆる領域・業種・シチュエーションで、「とりあえず、数字に最適化すりゃーいいんだろ!」となっていくのである。

 そう、、確かに数字は、あらゆる事柄を描像することができる。「数字で語りきれない」という人の殆ど(おそらく99.9%以上)は、単純に数学(や物理学)が苦手なだけである。
 世界に数字(数学)ほど精緻に事柄を表現できる言語は存在しない。代わりに何か他の言語(日本語や英語)で表現できるとでも言うのか?断言しても良いが、(なんとなくでも)定量化してみることほど現象理解に対して有益な作業は他にないのだ。

 Twitterのフォロワー数にしても、YouTubeのチャンネル登録数にしても、確かにそれだけでは適切なその人(やチャンネル)の評価基準を判断することはできないだろう。
 アンチが多いのかもしれないし、コアなファンがいるのかもしれないし、知名度が高いだけの可能性もある。例えば、少し前だが、ベッキーさんとゲスの極み乙女の川谷絵音さんが不倫で話題になったが、ああいった時に、ベッキーさんは知名度だけが高く、川谷さんはコアなファンが多いことがよくわかったんじゃないかと思う。騒動以前の数字だけでみればベッキーさんの圧勝であっただろう。だが、仕事の影響として、最小限で済み、ファンもそんなに離れなかったのは、川谷さんの方であったと思う。(もちろん、恋愛については責任を女性側が取らされる社会情勢、ということもあるので一概には言えないかもしれないが)
 こういったことを定量化しようとする場合は、おそらく何らかの摂動が必要なのだ。上記した例のように何か問題が露呈してしまうとか、クラファンを募集してどれくらいお金を継続的に支払ってくれる人がいるか、とかね。芸能人のクラファンは意外と成功しない、というのは、この辺りにヒントがあるようにも思う(つまり、知名度は圧倒的に高いがコアなファンは少ないから、お金を払ってまで応援してくれる人は少ない、ということなのかも、ってことね)。
 
 この潜在的な、もしくは本質的な”値”を、いかにして摂動を与える以前に引きづり出してくるか?ということについては、中々に難しい。特に誰かをジャッジするための定量化である場合、時間依存性もあるし、評価そのものがやる気を変えてしまったりもするので、摂動を与えることで定量化できますよ、というのは根本的な解決にはなっていないだろう。
 だが、ここで、「だから、数字では語りきれないのさ」と思考停止をしてしまったり、「とはいってもさ、やっぱり(見かけの)数字は大事だよね、とりあえず」と思考停止してしまうからこそ、”頭イイと思われたいバカ”達が闊歩し、さもそれが”賢い大人としての振る舞い”のように語られてしまうのかもしれない。そんな問題認識はできているつもりではいるのだが、俺も、「時間をかけて、ゆっくりと考え続けるしかないよね」ということ以上のことは、残念ながら言えない。

 長い人生において、何かのクライテリアでジャッジされた数字は、一過性の意味しか持ち得ない。だからこそ、そんなに気にしなくて良い。所詮、風の前の塵に同じ。「勝って兜の緒を締めよ」とは良く言ったもんだが、そこで深々と考え続けたところで、偶発的に数字を得てしまいうる状況において、未来の何かに向けて本質的な最適化ができるとは思えない。
 例えば、自身の実力ではなく、大手企業のおじさんに上手に最適化することで年収1500万円という数字を持っている若者が、「これは俺の実力ではありえないから、手放す。実力との差額分は寄付する」ということを、多くの人はできないのだ。自分に適切な額のお金を受け取ることに最適化することができている人なんて、少なくとも俺は見たことがない。それよりも、目を瞑って「社会の中で、上手にコミュニケーションすることができることも、実力のうちなんだ。みんながみんなできるわけじゃない。俺はこの額に値する実力を有している」と思い込みながら、目の前の数字を使って誰か弱者にマウントを取ったりする方がラクだ。それは、あるちょっとした摂動、例えば倒産などが起こっただけで、脆くも崩れ去ってしまうリスクの高いことなのだと、どんなに頭でわかっていたとしてもね。

 だとしたら、自分自身については、なんでもかんでもラッキーなだけなのではないか、と思いながら、今を楽しみ、未来が楽しめるような方向性に向かっていく方が、柔軟かつ頑健であると思うのだ。
 そして、他者を評価・批評する場合には、目の前の数字だけにとらわれないこと。それと同じくらいに、こいつは成功しているからダメなんだ、とか、こいつは失敗しているから実はすごいヤツだ、というような、単純に符号を逆に捉えた思考にもとらわれないこと。もちろん、ケースバイケースで逃げるのもダメだし、将来はAIで判断できるからあと少しの我慢、ってのもダメです。数字の中の一縷の閃きや淀んだ濁りを見落とさないように注意して、常に決めつけないこと、が重要になるのではないかと思う。

 色々書いたけど、一言で要約してしまうなら、「決めつけないで!」っていつもの心の声なのかもね。
 まぁその前に、「その程度の思考力で」ってエクスキューズがつくけどさ笑。
コメント
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