たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

決定的証拠

2019-11-21 05:58:32 | Weblog
 長い眠りについていた自分自身をどのように取り戻すか。それこそが課題であった。
 助言を求めるために長い夜を過ごし、火傷をした猫のように恐れ、時に薄っぺらい情熱に委ねたこともある。大したことないと嘯きながら、心でいつも泣いてきた。

 取り憑いて離れない想いが、情熱で報われる孤独を信じさせ、ただ一つの願いに最適化させることに一生懸命になり、時に誰かを傷つけ、時に誰かを助けてきた。それは今から思えば、ちょうど半分半分だったように思う。根本的には何にも興味はない。ただ一つの願いを除いては、ね。
 贖罪は完了し、それが、巷にもありふれた気持ちであったのか、特異的な罪悪感であったのかは、今もよくわからない。間違いないこととしては、結局何も達成しなかったことだ。ただ経過しただけだった。目を覆いたくなる自分の罪悪感に耐えられないから、抑え込むことが容易になる。自分だけがどんどん変わっていき、変わらない時を刻む姿は、どんな残酷な風景よりも残酷に感じられた。

 誰かを本気で助けるということは、世界を変えようとするということだ。
 そう思い続けたし、今でもそう思う。でも、目の前に見えるものを冷静に見ようとすると、それで良かったのだろうか、とも思う。
 人は、自分が可能な範囲の事柄しか変えられない。確かに、その範囲の中では、着実に助ける方向に変えられたと思う。長い年月をかけて、その能力すらも会得し、海をも超え、同じ悲劇がこの世に訪れないように貢献できたと思う。けれど、上手く行けば行くほどに、最も変えたい何かを変えられていない自分に失望し続けていた。

 そして、最も長い時を経て、すべては完了した。
 今後も問題は生じるであろう。でもそれは、俺の責任の範疇にない。もちろん最初から責任なんて無いのだが、まったく認識できないレベルに昇格するという意味では、相対的にはものすごい違いだ。
 だからこそ、これ以上、自分自身を殺し続けるわけにはいかなかった。だからこそ、何か決定的証拠がどうしても必要だったのだ。

 そう、何をも憚らず、壊れるほど泣き尽くせたのは、もしかしたら、押し殺していた間に生きていた別の自分が、確実に死んでしまったことを自覚したからなのかもしれないね。
 みんな、過去の何かの事実が現在に影響していると考えすぎる。それと同じ数だけ、確定的未来の事実が現在に影響するのにね。そんな自分自身の振る舞いをどこまで事前に予想していたのかは、自分でもよくわからない。でも、最後のリフレインを予感した瞬間から、焦りや悲しみよりも、どのようにキーを手紙の上に置くかを考え続けることに忙しかった。

 本当に?その表現だと、さすがに矮小化させすぎていない?
 そんなに器用に、二元論的に語れるの?もっと本当に悲しんでいたんじゃない?

 決定的証拠のために利用したと言えば露悪的すぎるし、純粋な気持ちに身を委ねてみたと言えば偽善的だ。

 でも、今も、夢に出てくるのは貴女のほうで、もう関係ないのに世界を変えようとつい最適化しようとしてしまうのは貴女だ。無意識を支配してくる。そういう意味で、似た者同士だったのでは?と思いながら、少しだけかもしれないけれど本来の自分に戻してくれて有難う、と心からの祈りを捧げる。そして、そのさらに奥にある、もっともっと根源的な、直面すべき問題にも気がつかせた。
 前に進むために何をしたら良いのか、何に興味が持てそうなのか、新たに最適化する先を模索しながら、せっかくくれた揺らぎをさっきまでいた場所に収束させないように、ひとときの足踏みを楽しんでいるよ。

 別に、収束させたい気持ちに委ねちゃっても良いのにね。
 飽きっぽいのかも。同じ演技を二度することはできないし、ね。
コメント
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