誰でも評価を強いられてしまえば、自分には何かを評価できるだけの能力があるはずだ、と信じてしまいたいものだ。
一度それを誤魔化して、とにかく評価を実行して誰からも「お前なんかがそんな評価をして!」と否定されないと、それで成り立っていると勘違いしてしまい、自分の単純な好き嫌いと正しい評価の区別ができなくなってしまうのだ。
思考と感情を完全にわけたうえで、社会的価値観に立ち返った場合には、自分の個人的な感情は一切介してはならない。なぜなら、思考とは他人に説明するために存在するツールだからである。自分が毎日不快に思うんだとしても、雇うべき人を雇わなくてはいけないときはあるだろうし、逆に、どんなに生き方が好きだと思っても、完全に断絶しなくてはいけない瞬間も存在するだろう。それがプライベートで行われる交友関係や恋愛とは異なる「社会的な評価」というやつだ。
そもそも立場を含まない評価なんて存在しないから、パーセンテージで語ることも避けなくてはならない。自分の決定へのオフェンスに対して、常にレスポンスできるだけの能力が無ければ、他人を評価することなんてできないのだ。
しかし、多くの人が、そんなことを一切考えずに、日常の中で自由に評価することに慣れてしまっている。それが集団へのより善きにおいての「評価」を行えているか?というチェックよりも、自分が単純に気に入っているかどうか?めんどくさくないかどうか?という、自分の本来の「好き」にすら到達しない、目の前の判断に終始していることが殆どである。
「これを認めてしまっても、自分の以前(これまで)の努力(らしき行為)が無意味化されないだろうか?」という自分勝手な感情を、いっさい介在させない評価を、俺は久しく観ていない。ほぼどんな人も、自分の選択やそれに向かう過程を肯定しうるような評価を下したがり、レゾンデートルは守られるべきであるという前提に立った、殆ど評価とは呼べない選択を繰り返しているに過ぎない。だから、新しいものが創造されないのだ。
さらに、「相手については、すべて把握しているはずだ」もしくはそうありたいと願う気持ちは、(ストーカー的だし)一般に気持ち悪いという共通認識があるにも拘らず、立場の弱い者や自分に脅威がありうる人に対しては、平気でここを当然視して相手を判断したがるクズが圧倒的大多数なのだ(見て観ぬフリも含む、世の99.5%)。だから、「あの人のことだから、どーせケンカでもしすぎたんじゃないだろうか?」とか、「どーせ、あの人はそこまで考えられてないんだから、ここまでやらなくてもいい」とか、「どーせ、○○なんだから、こう考えているに違いない」とか、あらゆる疑念を自分にとってわかりやすいモデルに落とし込み、総体的な多種類の感情を単純に一人ひとりに(キャラづけさせて)振り分けてしまうことで他人を正しく判断できているはずだと思い込みたい衝動を、世間が肯定化する。そして、「そういう(勘違いされるような)イメージすら、もたれてはいけないのだ」「世間のイメージを裏切ってはいけないのだ」という言葉に落とし込むのだ。
なぜ、クズに合わせなくてはいけない?ここに考慮する必要は一切ないのだ。
弱者を蹴落とすことで自分を維持・向上させることに決定的に躊躇できるマトモな人は、常に正しい評価をする。それは、自分は評価者という立場から退散するという選択も含め、かなり正確である。
圧倒的大多数のクズを、無理矢理に(論理の)直前で肯定化するための文句ばかりを蔓延させて、「(弱者を蹴落とすことを厭わないで)上手くやる」ことをしない善人をバカ呼ばわりする社会は、疲弊に向かうだけなのである。
俺は、社会がどんなにクズになっていってしまって、マトモな人が極少数だとしても、その人たちだけのためになるような価値観をシェアしたい、、と言ってしまえば、感情を一個人に還元できるという発想と全く同じ。重要なのは、マトモさが殆どで構成された人がいることも否定は出来ないしその人のためにと真っ先に考えなくてはいけないが、一方で、大抵の場合はみんなの気持ちの総量として、クズの部分がかなりマジョリティで、そこから僅かに流れ出るマトモさに訴えかけ続けることを諦めないこと。
あらゆる種類の気持ちや価値観を完全に一個人に還元させない上での評価に価値があると思えていることこそが、俺の市場価値だと思っているし、俺のレゾンデートルであるとも思っている。
ここに賛同者が(わずかでも)集まり始めれば、マトモな評価のレゾンデートルも大きく育つだろうと思う。そして、その花が作る種こそが、明るく未来を創るだろうと思う。
一度それを誤魔化して、とにかく評価を実行して誰からも「お前なんかがそんな評価をして!」と否定されないと、それで成り立っていると勘違いしてしまい、自分の単純な好き嫌いと正しい評価の区別ができなくなってしまうのだ。
思考と感情を完全にわけたうえで、社会的価値観に立ち返った場合には、自分の個人的な感情は一切介してはならない。なぜなら、思考とは他人に説明するために存在するツールだからである。自分が毎日不快に思うんだとしても、雇うべき人を雇わなくてはいけないときはあるだろうし、逆に、どんなに生き方が好きだと思っても、完全に断絶しなくてはいけない瞬間も存在するだろう。それがプライベートで行われる交友関係や恋愛とは異なる「社会的な評価」というやつだ。
そもそも立場を含まない評価なんて存在しないから、パーセンテージで語ることも避けなくてはならない。自分の決定へのオフェンスに対して、常にレスポンスできるだけの能力が無ければ、他人を評価することなんてできないのだ。
しかし、多くの人が、そんなことを一切考えずに、日常の中で自由に評価することに慣れてしまっている。それが集団へのより善きにおいての「評価」を行えているか?というチェックよりも、自分が単純に気に入っているかどうか?めんどくさくないかどうか?という、自分の本来の「好き」にすら到達しない、目の前の判断に終始していることが殆どである。
「これを認めてしまっても、自分の以前(これまで)の努力(らしき行為)が無意味化されないだろうか?」という自分勝手な感情を、いっさい介在させない評価を、俺は久しく観ていない。ほぼどんな人も、自分の選択やそれに向かう過程を肯定しうるような評価を下したがり、レゾンデートルは守られるべきであるという前提に立った、殆ど評価とは呼べない選択を繰り返しているに過ぎない。だから、新しいものが創造されないのだ。
さらに、「相手については、すべて把握しているはずだ」もしくはそうありたいと願う気持ちは、(ストーカー的だし)一般に気持ち悪いという共通認識があるにも拘らず、立場の弱い者や自分に脅威がありうる人に対しては、平気でここを当然視して相手を判断したがるクズが圧倒的大多数なのだ(見て観ぬフリも含む、世の99.5%)。だから、「あの人のことだから、どーせケンカでもしすぎたんじゃないだろうか?」とか、「どーせ、あの人はそこまで考えられてないんだから、ここまでやらなくてもいい」とか、「どーせ、○○なんだから、こう考えているに違いない」とか、あらゆる疑念を自分にとってわかりやすいモデルに落とし込み、総体的な多種類の感情を単純に一人ひとりに(キャラづけさせて)振り分けてしまうことで他人を正しく判断できているはずだと思い込みたい衝動を、世間が肯定化する。そして、「そういう(勘違いされるような)イメージすら、もたれてはいけないのだ」「世間のイメージを裏切ってはいけないのだ」という言葉に落とし込むのだ。
なぜ、クズに合わせなくてはいけない?ここに考慮する必要は一切ないのだ。
弱者を蹴落とすことで自分を維持・向上させることに決定的に躊躇できるマトモな人は、常に正しい評価をする。それは、自分は評価者という立場から退散するという選択も含め、かなり正確である。
圧倒的大多数のクズを、無理矢理に(論理の)直前で肯定化するための文句ばかりを蔓延させて、「(弱者を蹴落とすことを厭わないで)上手くやる」ことをしない善人をバカ呼ばわりする社会は、疲弊に向かうだけなのである。
俺は、社会がどんなにクズになっていってしまって、マトモな人が極少数だとしても、その人たちだけのためになるような価値観をシェアしたい、、と言ってしまえば、感情を一個人に還元できるという発想と全く同じ。重要なのは、マトモさが殆どで構成された人がいることも否定は出来ないしその人のためにと真っ先に考えなくてはいけないが、一方で、大抵の場合はみんなの気持ちの総量として、クズの部分がかなりマジョリティで、そこから僅かに流れ出るマトモさに訴えかけ続けることを諦めないこと。
あらゆる種類の気持ちや価値観を完全に一個人に還元させない上での評価に価値があると思えていることこそが、俺の市場価値だと思っているし、俺のレゾンデートルであるとも思っている。
ここに賛同者が(わずかでも)集まり始めれば、マトモな評価のレゾンデートルも大きく育つだろうと思う。そして、その花が作る種こそが、明るく未来を創るだろうと思う。