たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

冷めさせないで

2017-05-02 00:06:55 | Weblog
 人にはそれぞれ与えられた課題がある。
 それらは絶対に個々人で解くことができるものだと思うが、あまりに自分の課題を外注するケースが多くなってしまっているのが現代社会の難しいところの根本原因である。

 自分固有の課題に注力せずに、他人や権威的な集団に帰属することで、間接的な達成を目指そうとしてしまうのだ。これはかなり間違っている。
 自分の課題は、決して「俺の言うことがきけないなら出て行け」という空気を出し続ける環境では達成されない。ここにアジャストすることで、後輩や子供や生徒などに自分の課題を託すことは、あまりにも身勝手すぎるのだ。
 もっと酷いケースでは、自分の怠惰さや抱えている問題や心の闇を、自分が所属している集団そのものに外注してしまうことすらある。自分のダメさを研究室や会社や社会のダメさに重ね合わせることで肯定化しようとする「外注」には進歩がない。

 自らの、良い部分も悪い部分も、純粋な部分も不純な部分もすべて直視・対処しながら、自らに与えられた課題にきちんと自分で向き合わないと、「従うからカネが手に入る」という、欲望に支配された「見せかけの自由」から脱することは決して出来ない。それに対して、「社会人として〜」「大人として〜」と誤魔化していても仕方ないだろう。社会人や大人とは、自分の純粋さを(将来の)子供に外注することで、とにかく上司に従い続けながら自分自身は不純さだけを享受することではなく、ありとあらゆる摂動に対しての耐性があり、社会の流行に合わせなくても責任をもって自分の考えを実行できる人のことである。

 手っ取り早く言ってしまえば、神様はあなたが(原理的に)解けない課題を与えない。これは(俺が目に見えないものを信じているわけではなく)、課題だと認識できることについては、必ず解きうるということである。(高校までの)数学では、問題文を読んで図が描けた時点で8割は解けていると言われることがある。それと同じで、人生についての課題も認識できた時点で大きな一歩になっていることは間違いないと思うのである。

 しかしながら、100人に1人、いや10000人に1人くらいの確率で、その個人では圧倒的に解けない課題を与えられてしまうこともある。
 こういう場合はいかにしたらいいのか?

 圧倒的な課題を目の前にすると、やる気をなくしがちになってしまう。ここでやる気をなくしてしまうようでは課題は絶対に解けないままだが、それも仕方ないことだろう。何せかなりのレアケースなのだから。
 だが、課題が圧倒的であることを大義名分にすることで、その課題の前にひれ伏し続けるにも限度があると、俺は思うのだ。あまりに何年もだと、課題そのものに、自分の大きな課題の大変さを外注し続けるというオートキャタリシスになってしまうからだ。

 もし、これが現状の最も正解に近い解釈だと証明されてしまうのだとすれば、俺は一気に冷めるだろう。
 だが、俺はそうじゃないと信じている。貴女の単純で純粋な怪物への優しさが発現されているからだ、という解釈こそが、最も正解に近いことを、俺は信じている。

 まぁどちらにしても、証明の日は、すぐそこまで迫ってきているのだけど。

 ・・・と、こう宣言すると、まるで冷めうる解釈が真実なように仕組んで演技して、俺をそのめちゃくちゃ大きな課題から遠ざけようとする、俺への見くびりが含まれた優しさが、俺にはたまらなく心地よいことを、いつかはきちんと伝えなくちゃいけないだろうと思う。
 なぜなら、その課題は、俺の課題でもあるような気がしてならないからだ。
コメント
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