以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。
前のお話 2. 野崎の目的/『研究コントローラー』
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2016年3月1日(火)
「それでは時間になりましたので、これよりJTS有機合成分野シンポジウムのクライマックス講演を始めたいと思います。東都科学大学理工学研究科の村松健一先生。宜しくお願いします。皆様、村松先生のことはよくご存知かと思いますが、私から極簡単にご略歴を紹介させていただきます。村松先生は都王大学理学部化学科のご出身で、今や多くの門下生が全国でPIとして活躍していらっしゃる、あの光田和夫先生の研究室のご出身です。博士号を取得された後、京阪大の助手をされ、その後渡米。日本に戻られてから今日にいたるまで、この科学大で教鞭をとられております。研究内容は一貫して、糖鎖の合成に着目していらっしゃり、天然にあります複雑な多糖類を全合成する研究をしていらっしゃいます。近年では糖とタンパク質のフォールディングに着目されており、新薬の開発にも力を入れていらっしゃるそうです。それでは、村松先生、宜しくお願いします」
「ただいまご紹介に預かりました、科学大の村松です。いやぁ、こちらの飯田橋キャンパスには普段あまり来ないもので少し緊張していますが、本日はこれだけ多くの皆様に発表させていただく機会を与えてくださいまして、有り難う御座います。宜しくお願いします」
東都科学大学の飯田橋キャンパスは、都会にあるぶん、とても狭い。この狭いキャンパスのなかの最も広い教室でJTSシンポジウムは始まった。私立、東都科学大学には、全国にいくつかキャンパスがあって、主には、都会の真ん中にある飯田橋キャンパスと、千葉にある運河キャンパスだ。私は普段、それなりに広い運河キャンパスにいるので、余計に今日のこのキャンパスは狭く感じる。この教室は、都会の中でどうにか広い教室を作りました、という感じだ。広いこと自体は良いのだが、教室そのものがかなり古くて、机や椅子から独特の木の匂いがする。昔の大学はみんなこんな感じだったのだろうか?とちょっとした私の想像を無視するように、村松が我が物顔でスライドを説明し始める。人殺しめ。こいつの顔を見ていると吐きそうになるほどの嫌悪感が襲ってくる。午後3時。だけど、くだらない学芸会もいよいよ終焉か。JTS, Japan Technology and Science Agencyは学術推進会と並ぶ研究費を獲得するための重要な組織であり文科省の傘下だ。年度末、JTSから研究費を獲得している研究者が分野ごとに発表会を行う。有機合成分野で高く評価されている私の研究室の指導教員である村松のクソじじぃが、このシンポジウムの最後の講演を務めている。一般入場者歓迎と銘打っているが、蓋を開ければ研究者と大学院生しかいない。その数ざっと200人前後。そして全員腐っている。村松は「3年連続で、私が大トリだ」と低いダミ声で自慢そうに話していたが、裏を返せば、この発表会は毎年こいつに媚び諂うための会と化しているわけだ。その証拠として、昨年のシンポジウムも、この東都科学大で行われている。村松に気を遣ってのことだろう。何故私は、このようなくだらない学芸会に出席しているのだろう?この最低な人間の講演を私が聴かなければいけない理由はどこにあるのか。さしあたり、私が村松研究室で唯一の女子であることに起因しているのだろう。修士号を取得し、来春から就職だというのに、私はまだこのくだらない男に束縛されている。世間的には、新薬の開発に力を入れていると宣言していれば正義の味方のような研究者に見えるのかもしれないが、実態は大学院生を奴隷のように使う、ただの悪魔。なにが「口に優しい、新感覚の甘いお薬を創ろう」だ。こいつの頭は隅々までラリっているんじゃないか? 人殺しめ。
「こちらの新規分子2についての二次元NMRチャートはこちらになっております。収率は93%となっており・・・」
研究内容のことなど無視して、聴いているフリをしていたからか、もうすでに一つ目の話題の終わりだ。村松が祥太くんのデータを示している。祥太くんはこのデータを、まだ少しだけ元気があったM1の始めの頃に出したはずだ。チャート図をぼんやり眺めながら、私は祥太くんとの、あの、電話でのやりとりを思い出さざるを得なかった。
―あ、もしもし?今、僕、どこにいると思う?
彼からの電話が蘇る。あれは肌寒さが増してきた昨年の11月、2週目くらいの日曜の夜だった。偶然、横浜の実家に帰っており、そろそろ夕飯かと思っていたところだったから、おそらく8時くらいだろう。
「どこにいるって、どういうこと?」
―目の前は海。ここから飛び降りたら、誰にも見つからないかもと思って。死に場所としては最適かな・・・。
妙に明るい口調が逆に私の全身を震え上がらせた。今日は絶対に失敗できない。祥太くんは以前にも何度か死にたいと私に電話をしてきて、そのたびにどうにかなだめてきたが、物理的に確実な死を目前に控えている上での電話はこれが初めてだった。私は電話口を少しだけ離して深呼吸し、自分に言い聞かせた。「失敗さえしなければ絶対に大丈夫だ」そして、確かに大丈夫だった。この時は。
私も相澤祥太くんも、東都科学大学の化学専攻の大学院生で、有機合成を専門とする村松研究室に所属している。二人とも修士課程の2年生。村松研で女子は私一人。村松研は博士課程の院生が八人もいるビッグラボだ。科学大は私立大学で、偏差値で言えば、日本一の単科大学である帝工大の滑り止めくらいの位置だ。だから、就職に関しては選ばなければ基本的には困らないはずだが、この研究室では4年生の就職活動が禁止されていた。私も祥太くんも配属されてすぐの学部4年生の頃から一刻も早く、この殺伐とした研究室から抜け出して就職したかったが、仕方なしに修士まで所属していた。村松研はいわゆるブラック研究室で、コアタイムは朝8時半から終電まで。土曜日のコアタイムも同じ時間である。日曜日はさすがに休みだったが、生活はこの3年間ひどいものであった。例えば、研究室で論文を読んでいると「そんなものは家に帰ってから寝る時間を削って読め!研究室では実験だけをしろ!」と助教の小平先生に怒られ、研究室にいる間はトイレに行くにも手を上げて「トイレに行ってきます」と小平先生に言わなければならない。女の私が、男社会のなかで「トイレに行ってきます!」と宣言をしてトイレに行かねばならないことはセクハラとも言えると思うが、皆がそうしているから文句も言えなかった。村松研は学部生の間でもブラックだという噂で不人気ではあるが、研究実績と就職のコネだけはあるので、そのわりには後輩も一定数は入ってきていた。研究室に慣れてきた頃、そのブラックさに直面すると、なんとかしてこの研究室から抜けなくちゃいけないという気持ちが強くなる、というのが村松研にいる学生の全員の特徴だ。
「どこの海にいるの?」
―逗子海岸の近く。大坪漁港のあたりは少し人がにぎわっているんだけど、そこからさらに奥にいったところ。
「私、いま青葉台の実家にいるから、一時間半くらいで逗子駅までは行けると思うけど」
―やっぱり優しいね。さすがに来てもらうのは悪いから、明日の夜、学校で話を聴いてもらってもイイ?
おい、ふざけるな。私がお前の気持ちを見通すことを、お前ごときが読んでいたわけか。この死ぬ死ぬ詐欺に私はいつまで付き合えばいいのだろう?かといって無視をするわけにもいかないし。というか、本当に海にいるのか?まぁ実際のところ、私自身も行く気は全然なかったけど。
「わかった。明日の夜ごはんの時ね」
昼食と夕食くらいしか、私たちに自由は無い。食事の時間すら、助教の小平先生がストップウォッチを構えて待っているのだ。そう言った後すぐに気がついたが、よく聴くと波の音が聞こえる。本当に海にいるんだ、と思った。私はまた全身が震えた。彼から「じゃあね」という、いつもの声を聞く間もなく、電話が切れた。どうやら電波が不安定だったようだ。
祥太くんのことは別に嫌いではないし、カラムもまともに立てられなかった私に合成を一から教えてくれたり、学部4年生の頃は単位が残っていた科目の課題を解いてくれたりした。彼はいわゆる便利くん。同じ研究室の唯一の同期だし、お互いに自然と話す機会は増えていった。だけど、それだけじゃなくて、話してみると価値観もそれなりにフィットしていた。祥太くんは口数が少ないほうだが、彼には壊れそうな乙女心というか、繊細さがある。顔もそれなりには整っていて、もう少し男らしいところがあれば惚れたかもしれないが、女子に死ぬ死ぬ詐欺をしかけるような、か弱い男は私のタイプじゃない。大学入学以降、化学にまったくついていけなくなってしまい、成績がダメダメで、仕方なく不人気の村松研に入ることになった私と違って、祥太くんは純粋に有機合成が大好きで村松研に入ってきている。そんな祥太くんの一面は尊敬できるのだが、この死ぬ死ぬ詐欺の電話には困り果てていた。そして、いつものイケない言葉が私の胸に宿る。いっそのこと一度死んでみたら?
「分子2を骨格としたこれら五つの分子の候補のなかで、HeLa細胞に対して新規分子2-Bを作用した場合にのみアポトーシスが誘導されました。ですので、この2-Bの分子は癌治療薬として期待されるわけです。ここで、がん抑制因子として有名なPTEREというタンパク質の発現を増やしている可能性が高いと考え、まず分子2-Bと組み合わさるのかどうかを、分子動力学計算で考察することにしました。この計算は都王大学最新研究所の西岩先生との共同研究となっております」
教室内の半数がこっそり寝ている。それでも村松は、いつものダミ声で、ハキハキと研究内容を話している。その姿は魂を食過ぎた妖怪のようである。実際にこいつは、今までに何人の学生や若手研究者やテクニシャンを犠牲にし、魂を吸ってきたのだろう?人殺しめ。
実際に祥太くんがいなくなってしまうと、私の心はすっかり空しくなってしまった。いっそ死んでしまえば良いのに、と思った私自身をものすごく責めた。根本的な原因は村松研の環境にあるのだろうが、最後の一押しとなる原因は私にあるのだろう。結局、私は村松と同じ穴のムジナ。私も最低だ。
祥太くんがおかしくなり始めたキッカケは、M1の終わり頃だ。祥太くんは村松に突然、研究テーマを強制的に変えられてしまったのだ。しかも、祥太くんが出してきたそれまでのデータはこのシンポジウムでも発表されているほどに重要だったにも拘らず、村松から
「君は手を動かしていただけで、あれは小平くんのアイディアだろう?」
と言われてしまったらしい。アイディアを創るためには論文を読まねばいけないはずで、その時間を与えなかったのは小平先生本人なのに、それを主張しても一切聞き入れてもらえなかったという。ちょうど論文を書けるだけのデータが溜まって、英語で原著論文を書こうというところだったのに、上からの指示で小平先生が祥太くんのデータで書くことになってしまい、しかも祥太くんの名前は一切載せてもらえなかったらしい。祥太くんが実験を主体的に行っていたにも拘らず。祥太くんは業績的には論文が出ていないことになるし、そのせいで学推も取れず、真面目な彼にはそれがショックだったのだろう。この一件以降、祥太くんはゼミで村松や小平先生から集中的にいびられるようになる。おそらくオーサーシップを主張したことが村松研にとっての反逆者と見なされたのだろう。それを見ていた上級生たちも、祥太くんにオフェンスしておけば安泰、というような空気ができてしまった。それが原因で、彼はおかしくなっていった。そして、ゼミで一言も喋らない私に、唯一の同期の私に、死ぬ死ぬ詐欺をするようになる。実際に会っていてもそうだったし、電話で連絡してきても「死にたい、死にたい」とつぶやいていた。
夜に海から電話してきた翌日、私は祥太くんと夕飯を食べた。といっても、大学の近くの蕎麦屋だ。都心から電車で1時間、茨城に近い千葉の運河キャンパスでは飲食店は少なかったが、近くに小さな学生街があって、そこにある蕎麦屋に行ったのだ。学生街らしく、大盛りが安い。このような場所で、また私に死ぬ死ぬ詐欺をするのか?と思いきや、なんと祥太くんは私に告白してきたのだ。言葉は実にシンプル。
―今まで隠していたけど、好きだから僕と付き合ってください。
たった、それだけだ。言葉数が多くない祥太くんが、誠心誠意、男になったように見えた。私は本当にビックリして3秒間ほど彼の目を見つめてしまった。祥太くんからの好意は薄々感じていたが、このタイミングで、告白されるとは思わなかった。私はしばらく悩んだ。正確に言うと、悩んだフリをしてみせた。結論は気持ちの上では決まりきっている。ここで断ったら、祥太くんは死んでしまうのかもしれない。だが、ここで断ってしまえば、気まずくなって、私は彼の死ぬ死ぬ詐欺から解放されるかもしれない。祥太くんと話さなくなるのは残念だが、そろそろ潮時な気もする。どうせ卒業も近い。なるべく可愛らしさを保ちながら、でも、最後は明らかな冷徹さを持つことを意識して、
「えっとね、私、付き合っている人がいるから、他の人とは付き合えないです。ごめんなさい」
と私は応えた。本当だった。私の彼は、1つ年上で直樹といって、いま大手商社に務めている。文系の商社マン。私が学部3年の頃、ほんの少しだけやっていた就活で知り合った女友達が、サークルで飲み会をするから、よかったらおいで、と言われ、行ってみたら、そこに大学卒業間近の直樹がいた。その晩、直樹は私を誘ってきた。出会ってすぐだ。さすがに断ったが、その後もしつこく直樹は私をSMSで誘ってきた。あの頃、前の彼氏と別れたばかりで寂しかった私は、ほんの一度だけ夕飯に付き合うだけのつもりで、直樹の誘いに応じた。会う前は「絶対にご飯だけ!」と自分に言い聞かせたつもりだったが、次の朝、私は直樹と同じベッドで目を覚ますことになる。私の身体で興奮している直樹を感じとったとき、自分の価値が再起されたようで嬉しかったが、朝になり目を醒ましたときに後悔がどっと押し寄せてきた。そういえば、祥太くんのように「付き合ってくれ」と直樹から明確に言われた記憶も無いが、直樹との一度の過ちを無意味化するように、それから毎週土曜日にデートして直樹の部屋に行くようになった。お互いの家も電車で一本で、それなりに近かった。土曜日に部屋に行って日曜の夕方に帰る。学生のくせに忙しい私に社会人の彼はイライラしていたが、千葉での新人研修が終わり、名古屋の支社に勤務するようになると、むしろ直樹のほうが忙しくなり、月一のペースで直樹が私の部屋に来るようになった。今でも、ほとんど行為だけのデート。むしろ、直樹とデートらしいまともなデートをした記憶が無い。直樹のこと、本当に好きなのか?と言われたら、心から好き!とは言えないかもしれない。でも、直樹と私は、ステータスが合っているというか、現実的と言うか、フィットしている。祥太くんには悪いけれど、私は直樹のもの。これは私のせいではないし、現実だから仕方ない。祥太くんは
―そう。
とだけ言うと、大盛りのざる蕎麦をずるずるすすり始めた。それから何を話したのかはあまり覚えていない。蕎麦屋を出ると、私たちは無言で研究室に帰った。おそらく、これが最終的なキッカケで、祥太くんは研究室に来なくなってしまったのだろう。研究室に味方がいなくなってしまったのだから、当然とも言える。でも確か、この後も研究室で一度だけ見かけた。「大丈夫?」と私が訊くと、祥太くんは「大丈夫」と言った。そのあとに、「味方になってくれそうな人ができたかも」と言っていた。まさか彼女か?と思ったが、直樹みたいなチャラチャラした男ならともかく、祥太くんに、そんなにすぐに彼女ができるわけない。私への気持ちはマジだったっぽいし。「そうなんだ、よかったね」と私が言うと、祥太くんは英語でこう返してきた。 ”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them.” 私は、つい鼻で笑ってしまった。後でgogleで調べると、この言葉はヘミングウェイの名言らしい。英語が苦手な私に、わざわざ英語の台詞を言ってしまうところが、まさにお前がモテない決定的な欠点なのだが、彼にはそれがわからないのだろうか?
そして、それ以降、祥太くんは研究室にまったく来なくなった。そのことを小平先生も上級生も問題にしていた。他人事のように言う彼らに対して、お前らも原因なのに、と私は思っていたが、特に何も言わなかった。祥太くんは12月に入ってからもいっさい研究室に来なくなってしまい、修士論文どうするのだろう?と思っていると、研究室の上級生が「相澤くんの両親、捜索願を出しているらしいよ?」との噂を聞いた。私は罪悪感を覚えたが、自分には非は無い、と自分自身に言い聞かせ続けた。第一、蕎麦屋でコクるか?普通。このあたりの性格の悪さが、私は村松と同じ精神構造なのかもしれない。
「というわけで、結論としましては、分子2-Bについてアポトーシス誘導が促進される性質が決定的と言えると思います。ですので、今後の予定としては、この新薬を使って動物実験を開始していく予定です。もう認可は下りています」
学芸会が収束にさしかかった。聴講者の8割以上はすっかり飽きて生あくびをしている。経緯を思い出すのに疲れてしまったが、これが終われば私は女友達と2週間の卒業旅行にヨーロッパに出かける。その後は私もいっさい研究室に行くつもりはない。もう関係ないし。研究生活はこれで終わりだ。清々しい気持ちに自分の心を持っていき、すっかり疲れきっている自分の身体を立て直すために、自分の座っている椅子を少しずらした。すると、突然、まったく知らない、自信に満ちた声がどこからともなく聞こえてきた。
「戸山くん、そろそろ出番だ。君には2番目に発言してもらう。村松の発表だから他に質問は出ないと思うが、1番目の質問に便乗して誰かが質問するかもしれない。念のため、挙手のタイミングを間違えないように」
え?誰の声?戸山って誰?発言してもらうって、どういうこと?というか、どこから声が聞こえてきたのか?疑問でいっぱいになって、私は辺りを見回した。すぐに、次の言葉が聴こえてきた。同じ声だ。
「吉岡くん、君は1番目の質問を担当してもらう。まずはどうでもいい質問に見せかけて、ヤツを安心させる。配役としては戸山くんよりも簡単だ。ヤツにとっては質問がでること自体が非日常。だが、とにかく落ち着いて堂々と質問してくれれば良い」
声の主は、どうやら、質疑応答をさせたいらしい。でも何のために?自分で質問すればいいじゃないか?そう思っていると、村松が発表として最後の言葉を告げる。
「以上です。皆様、ご清聴、有り難う御座いました。本研究は当研究室の有能なスタッフと学生の協力により行われております。この場を借りて感謝申し上げます。有り難う御座いました」
村松の発表は終わったらしい。謝辞に祥太くんの名前は無かった。当然か。12月から今日まで一度も研究室に来ていないし、修士論文も書かなかったのだから。それよりも謎の声が気になる。
「それでは、せっかくの機会ですので、どなたか質問やコメントがある方は挙手をお願いします」
会場でただ一人、手を天に突き上げている者がいた。見るからに体育会系の男が、メガネとマスクをしている。ニット帽をかぶっていて、顔の全容が分からない。私服なところを見ると、学生だろうか?すると、その男にマイクが行き渡る前に村松が話し始めた。
「ほう。私の発表では普段、質問など出ないんですが。まぁいいでしょう。どれどれ、どんな質問か、聴くだけ聴きましょうか?」
会場から失笑が聴こえる。村松に対するものが半分、質問者を嘲るものが半分、というところだろう。謎の声が応じるように、
「吉岡くん、ひるむなよ。どっちにしてもヤツの研究人生は今日で終わりだ。丁寧な表現で、分子2-BのNMRチャートはないんですか?と言え。その後は、あるにしても、ないにしても、有り難う御座いました、と丁重に言えばそれでイイ」
と言った。ヤツとは、村松のことだろうか?研究人生は終わる?本当にそうなら是非やってもらいたいところだけれど、実際のところ、どういう意味なのだろうか?と思っていると、体育会系の男はマイクを持って喋り始めた。
「貴重なお話有り難う御座いました。非常に簡単な質問で恐縮なのですが、2番目のお話について、分子2-Bの二次元NMRチャートを拝見したいのですが、もしデータをお持ちでしたら見せていただけないでしょうか?」
村松は「なんだそんなことか」と言いながら補足スライドを出す。その間に、謎の声がまた指示を出した。とても早口だ。
「よし、ボロを出した。やはり測定日は2014年の12月になっている。吉岡くん、君のカメラがスライドをよく映してくれているが、横軸のプロトンNMR、 5.4 ppm付近にあるカルテットのピークに視点を合わせてダブルクリックしてくれ。ズームが欲しい。ダブルクリックはさっき教えたように、上の歯と下の歯を二回リズミカルに合わせればイイ。そして、村松が分子2の二次元NMRチャートに戻ったら、今度も横軸のプロトンNMR、3.1 ppm付近にあるシングレットのピークに視点を合わせてダブルクリックを頼む。戸山くん、次は君だ。まずは、ELISAの蛍光検出について質問するところから始めよう。吉岡くんが送ってくれたピークを私のPCで解析しているから、少し時間を稼いでほしい。1分もあれば十分だ」
その後、謎の声は、一字一句違わぬように質問してくれ、と指示を出した。やがて吉岡と呼ばれていた大男は質問を終え、司会者が「他に質問がある方?」と言うと、なんと私の左隣の男の子が手を上げた。またマスクとメガネだ。帽子はかぶっていなかったが、顔につけているものは、先ほどの質問者とかぶっている。村松は「今日は質問が多いな」と笑っていたが、今度は会場は笑わなかった。
「ELISAでの検出についてです。各新規分子をHeLa細胞に導入し、抽出したCell-freeに含まれるPTEREの発現量をELISAで解析していたと思うのですが、他の新規分子についても、PTEREの発現量は上がっている、という結論で良いのでしょうか?」
村松は顔をほんの少しだけしかめながら答えた。
「確かにそういう解釈も可能だが、発現量は分子2-Bに比べると圧倒的に少ない。この蛍光量を見てもらえばわかるが、10分の1ほどにしか発していない」
また謎の声が指示を出している。その指示通りに質問者は質問をした。
「では、分子2の骨格が寄与している可能性はどれほどあるのでしょうか?」
「それはもちろん、確実なことはわからないよ。だが、MDの結果からすると、分子2の骨格がPTEREのヘリックス構造にくっつき、その後にBの骨格の一部がPTEREのプロモーター領域における関連タンパク質に結合する、という知見を得ている」
悪いが後少しテキトウに時間を稼いでくれ、と謎の声は言った。
「そもそもPTEREがアポトーシスの指標になると考えた場合、ということですよね?MDに関しても、他のタンパク質の存在に関しては一切考慮していないようですし、いま仰ったような非常に単純なポジティブフィードバックが働いているという根拠はどこにあるのですか?」
「私は合成屋だ。生物のことはわからないし、計算のこともわからない。ただ、実際に細胞数は減少しているし、そのグラフも見せたはずだが」
ここで司会者が話に割って入ってきた。
「村松先生のご研究は、このような新規分子を独自に開発された点で非常に有用だと言うことですね。その点を理解して発言されたほうが良いと思いますが」
すると、戸山という私の隣の人物は緊張しながらもさらりと応えた。
「でも、不要なものを合成したって仕方ないでしょ?」
この発言に対して、村松が怒鳴るように返した。
「君はどこの研究室の学生だ?分子2-Bが有用なことは明らかだ。それは、データが総体的に物語っている」
謎の声がささやいた。
「よし確証が取れた。本題に入ろう。名前と所属は決して言うな。無視でイイ。あとは私の喋る通りに発言してくれればイイ」
私の隣にいる戸山という人物は、ほんの少しだけうなずいた。そしてマスクの中で「わかりました」と言ったのが、私には聴こえた。
「そのデータというのは、主にはNMRのデータについてですか?そもそも、分子2と分子2-Bについての二次元NMRはどなたが解析されたのでしょうか?」
するとまたもや司会者が割って入ってきた。
「質問はサイエンティフィックな内容についてのみでお願いします」
「いえ、これはサイエンティフィックな質問ですよ」
司会者は、やれやれという表情を見せたが、村松は瞬時にさらりと応えた。
「この二次元NMRはうちの助教の小平くんがとってくれたはずだが、何かそれが重大なのかね?」
「両方ともですか?なるほど。では小平先生に聞いた方がいいのかもしれませんが、なぜ分子2の横軸3.1 ppmのシングレットのピークと、分子2-Bの横軸5.4 ppm付近のカルテットのうちの一つのピークが、まったく同じようにみえるのですか?」
村松は急に青ざめ、一番小さな、ダミ声で、次のように答えた。
「質問の意味が分からない」
「言葉のままの意味です。二つのNMRチャートを並べて出してみてください」
「何故私が君のような若造のために、そんなことをしなければならない?!」
「研究内容を理解するのに大事なことだからです。おそらく本当の経緯はこうです。分子2については本当は小平先生ではない別の人がNMRを取った。そして、分子2-BについてはNMRを一度もとっていない。小平先生と村松先生が、分子2-BのNMRチャートを分子2のNMRチャートを参考に捏造したんだ。小平先生が合成したと言っている分子2-Bは数種類の化合物ライブラリーから、プロトコル通りにHPLCで単離・精製したと言っているから、本人的にはそれで目的分子が得られたと思ったのだろうと思います。不純物が完全には取り除かれていないにも拘らず。その後のHeLa細胞へのアッセイに関しては不純物が入った状態で導入しているから、むしろその不純物が影響してアッセイのバックグラウンドが形成されてしまったのでしょう。本当は分子2-Bには何の特異性もないのに。さらに、もっともらしいBの骨格のELISAデータだけを、これまた捏造した。当然、細胞数の減少も嘘です。つまり、今日の発表には、サイエンスがいっさい含まれていなかったことになります。みんな寝るわけですね」
「この野郎、何を根拠にそんなことを言っているんだ!ふざけるな!司会者、この無礼な若造をつまみだせ!」
村松は激昂している。完全にキレている。いつも機嫌は良くないが、こんなに怒っている村松を私は初めて見た。今にも暴力を振るいそうな所作になっている。だが、謎の声は予想外の反応に出ている。
「あーはっはっはっ、あはははは」
笑っている。高笑いに大笑い。まるで、支配しているのは俺なのだから、こんなこと当たり前じゃないか、と言わんばかりに、笑っている。私の左隣の男の子が、マスクの中で小さく言った。
「笑ってる場合じゃないっすよ、野崎先生。早くなんとかしてください」
「わかったよ」
しかし、またもや予想外のことが起こる。また別の、マスクとメガネをつけた、今度は女の子が、いつのまにかマイクをとって、次のように喋りだしたのだ。
「とにかくNMRのデータを二つ合わせて、皆さんの前で見せてみてください、村松先生?分子2-Bの測定日は2014年の12月。本当にNMRをとっていたなら、是非とも拝見したいですね。あの時は世界的にも窒素不足で、運河キャンパスのNMR-500メガヘルツは液体窒素を維持できなかったはずですから」
「お前らなんかに、私がそんなことをする義務はない!!」
そう言いながら、村松はマイクを床に投げつけた。発表のための机もひっくり返し、回線が切れて、スライドが映らなくなった。村松は興奮して、ついに質問者の女の子のもとにかけよろうとしている。謎の声がうんざりしながら囁いた。
「まったく、困ったお嬢様だ。私の指示以外の行動をして。吉岡くん、戸山くん、取り押さえられるほうで構わないから、村松を取り押さえてしまってくれ。心配ない。警察を連れて、私がそっちに行く」
その声に応じるように、戸山という人物と吉岡という人物は、最後の質問者の女の子に向かっていく村松のもとに急いだ。それを感じ取った村松は戸山という人物に殴り掛かろうとしている。怒りに任せて繰り出された村松の右手は、戸山の両手に抑え込められ、あっという間に村松がやってきた方向側に投げ飛ばされた。倒された村松は暴れなくなったらしい。しばらく沈黙が続いたが、聴講者の誰かが「すみおとしだ」と言ったのが聴こえた。その瞬間に、後方の扉が開いた。
「どうも、3人とも、おつかれさま。あとは警察の方に任せましょう。質問者の3人は今すぐにこの部屋から出て行くように。これは命令です。あとで落ち合いましょう。場所は例のスマホに連絡します」
長身の男が入ってきた。かっこ良い。が、少し姿勢が悪い。いかにも頭が良さそうな顔をしている。そして何よりも自信に満ち溢れている。そして、その声色は、突然聴こえてきた謎の声そのものだった。警察と思われる人物2人が、暴れていた村松を取り押さえた。取り押さえられながら、村松が立ち上がる。それと同時に、質問していた3人は会場から姿を消した。この長身の男は教室の正面に到着し、村松を見下ろすように話し始めた。
「私のことはご存知ですか?」
村松は怒りに任せながら、
「野崎正洋。お前が黒幕か」
と言った。野崎正洋と呼ばれた長身の人物は終始笑顔だ。
「黒幕とは物騒ですね」
会場にいる誰もが事態を理解し始めたのか、「あいつが野崎か」「研究コンサルタントの野崎だ」「村松先生、ついにやられたな」等と、かなりざわつき始めている。野崎は、その喧騒を沈めるようにマイクを持って、次のように言った。
「皆さん、村松先生を警察の方に連行していただいた後、私のほうから今回の研究不正について解説をさせて頂きます。その前に、村松先生、私に何か言いたいことはありますか?」
すると村松は挑むように、野崎に言い放った。
「こんなくだらないことで、私に研究不正の烙印を突きつけるつもりか?事実だとしても、あれは大学院生が行ったことで、我々スタッフは何も知らなかった」
「都合が悪くなると、そうやって、すぐに立場の弱い者に責任を押し付けるんですね。その次に切り捨てる駒は小平先生ですか?貴方はわかってて研究不正をしている。ウラはとれているし、言い逃れはできないですよ?それに、たとえ、わかっていなかったとしても、貴方の管理の問題だ」
「ふざけるな。私は世界の村松だ。私の存在がどれだけの若手の雇用を守っていると思う?こんなことをして、些細なことで不正だなんだっていちゃもんをつけて、この分野が廃れてしまったらどうするつもりだ?だいたい野崎、お前は他人の研究を批評してばかりで、あーだこーだ文句を言ってるだけで、ものづくりをしていないじゃないか。科学大の連中も皆そうだ。奴らも文句ばかりで、手も動かさず、労働力にすらならない!私は、ものすごい悪いこの環境の中で、誰よりも精一杯、オリジナリティを持って、研究活動をしてきたのだ!ふざけるなっ!!」
「私は、ただ、サイエンスに不必要な無能な人間を排除しているだけです。いくら私が有能なコンサルタントでも、捏造を肯定化するような人間が主催する研究室を立て直すことはできません。それに、貴方は権威と文章作成力で研究資金を稼いでいるという勘違いをしているみたいですが、稼いでいるのは国民であって、貴方自身は一円も自分で研究費を稼いでいない」
言葉を切って、野崎は、大衆が自分の言葉を吟味している時間の沈黙を楽しむような素振りをした。そして、笑顔を消し、リズムを崩して、いきなり、
「お前ごときが、思い上がるな!」
と言って、野崎は村松を指さした。
「野崎先生、もう良いでしょう?連れて行きますよ?」
警察の一人が、野崎にそう言った。
「待て。何の容疑だ?」
「暴行容疑ですよ。任意同行をお願いします」
警察は無機質に応えた。野崎は笑顔に戻り、次のように言い捨てた。
「村松先生。このシンポジウムには、実はマスコミの連中が潜り込んでいる。マスコミの連中に質問者の顔と名前がバレるとマズいので、彼らには早々に立ち去ってもらった。マスコミにも私以外は存在していなかったように書け、とお願いしてある。明日の一面はおそらく、”科学大教授、研究不正暴かれ、シンポジウムで大暴れ”だろうな」
村松が連れて行かれる。もはや意気消沈していて、すっかり小さくなってしまったように見えた。その後ろ姿に野崎が追い打ちをかける。
「最後にコンサルタントとしてアドバイスしておこう。サイエンスは感情的になった方の負けなんですよ。まぁ、もう、サイエンスをすることの無い貴方に言っても仕方ないか」
人殺しの村松は連行された。いい気味だ、と思いながら、一方で、これで正しいのだろうか?という気持ちを、私は少しだけ抱き始めた。村松は確かに性格が悪いし、捏造も本当なのだろうが、村松をそういう環境に追い込んだのは別の作用だ。村松一人を祭り上げるのは、正しいことなのだろうか?
その後、野崎は自分のパソコンを広げ、さきほどのNMRのデータが捏造である根拠を次々に挙げていった。一番の決定的な根拠は、やはり、二種類の物質についての一部のピークが、違う物質なのにも拘らず、ぴったりと重なったこと。野崎は短い時間で、二つのピークを同じ大きさにし、積分値まで求めていた。その値は完全に一致していた。確かに実験研究ではこういうことはあり得ない。最後に野崎は、
「以上のデータは、Chemical Review LettersとJournal of the European Chemical Societyに掲載されています。おそらくRetractionになるかと思いますが。皆さん、突然の余興、失礼致しました。では、私はこれで」
急に野崎が教室を出て行く。行ってしまう。この人なら。この人ならどうにかしてくれるかもしれない。祥太くんの声が聞こえる。”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them.” 私は、野崎という研究コンサルタントを追いかけた。教室よりは日の光が入ってくる廊下には意外にもまだ野崎の他に誰もいなかった。野崎に話を訊いてもらうためには、引き止めるためにはどうすればいい?狭い廊下を短い歩幅で走りながら、直感的に答えが出てきた。そして、建物の出口付近で、野崎に追いついた。私はすぐに野崎に小声でささやいた。
「吉岡くんと戸山くん」
すると、野崎は驚いたように私を見つめた。
「どこでそれを。君は聴いていたのか?」
野崎はそう言った後も、驚いた表情を維持している。直感を働かせてここまで走ってきた私には、直感的にこの表情が嘘であることが分かる。驚いて開いたはずの口に比べて、瞳孔が一切開いていない。まさか私にわざと聴かせていた?どうやって?なんのために?
「まぁいい。しかし、私を追ってきたのは、それだけじゃないだろう?私に何か用か?」
逆に驚いた私は、言葉を振り絞るように、小声で応えた。
「祥太くん・・・、相澤祥太くんのことで、知ってほしいことがあるんです」
野崎は薄く笑みを浮かべながら、すべてを理解した様子で話し始めた。
「ということは、君は、みゃーこさん、だね?」
私は思わず目を見開き、口をあんぐり開けてしまった。”みゃーこ”は私のSNS上の名前だ。野崎は何故それを知っている?
「そうです。本名は・・・」
野崎はそっと人差し指を私の口元に近づけて、
「待った。どこで誰が聴いているかわからない。ここではそれは言わない方が良い。相澤くんのことは、私が調べている。就職してしまう君は、とにかく彼氏と幸せになりなさい」
私はまた胸がドキっとした。何故野崎はそこまで私の情報を得ているのだろう?わからないが、このままでは引き下がれない気がした。
「待ってください。私、私、彼のことが、心配で心配で。だって、だって、私のせいで・・・」
抑えきれない感情がわき上がりそうになる。その感情に合わせて、「でも・・・」から始まる論理的な言い訳が私を追いかけてくる。そして、その矛盾に耐えきれず、世界が濡れていく。野崎は私の気持ちをすべて悟っているように、ゆっくりと説き始めた。
「いや、それでも君は何も悪くない。それほどの気持ちがあるのなら、彼は貴女を好きになって、心から良かったと思うはずだ。それだけで彼は救われる。男は女が思っているほど弱くはない。心配するな」
私は、スカートのポケットからハンカチを出して目に当てながら、小さく頷いた。すると、野崎は意外なことを言ってきた。
「まぁ、今日の質問者の名前も聴かれているし、仕方ない。このパラレルスマホを君にも渡しておこう。それはハッキングの心配が無いスマホだ。何か他に情報が入ったり、私に連絡したくなったら、いつでもそれで私に連絡してくれ。使い方はシンプルだから、みゃーこさんなら簡単に分かるはずだよ。じゃあ、またね」
野崎は行ってしまった。私の研究生活の最後に無難に終わるはずだったシンポジウムは、かなり無難じゃない出来事になってしまった。私は体良く祥太くんを利用し、自分だけ修士号をとって就職する。そして3年ぐらいしたら、直樹か、直樹みたいな彼氏と結婚するのだろう。そんなことを思いながら、あの野崎とかいう研究コンサルタントの後ろ姿を見つめた。そして、演技なのか本音なのか自分でもよくわからない自分の涙を完全に拭った。
野崎から指定されたカフェで、俺ら三人のRC研究生は、もう1時間以上待っている。俺らが教室を出てからすぐにパラレルスマホに連絡があったが、時間がかかっているらしい。三人ともコーヒーを飲み干してしまって、ウェーターが持ってきた水を飲んでいる。それにしても、初仕事。普段、ゼミや研究会で喋るほうではあるが、流石に俺は緊張した。まさか最後に、俺の合気道の得意技「隅落とし」をすることになるとは思わなかった。そして、野崎は警察やマスコミを自由に動かせるほど実力が認められているとも思っていなかった。警察が絡んでいるなら、このRCの話も大丈夫なんじゃないだろうか?
指定されたカフェは超がつくほどの高級カフェ。なんと個室だ。こんな店が本当に存在しているとは思わなかった。席料だけで2万円となっている。野崎正洋の名前を言うと、二つ返事でこの個室に案内された。椅子(というよりソファー)や机から高級感が漂い、窓の無い薄暗い室内も手伝って、ここで寝てしまいたくなるような雰囲気だ。だが、そんな場合じゃない。斉藤結衣佳だ。あの面接の途中で出て行った彼女がどうしてここにいる?吉岡が質問し始めた。
「斉藤さんは、結局、RCの話を受けるってことなんですか?」
「うーん、というより、私のパパが野崎先生に投資しているの。うちのパパ、斉藤自動車の会長で」
なんだと?あの日本トップの売り上げを誇る大企業、斉藤自動車グループか。こいつ、金持ちだと思っていたら、本当にガチの金持ちだったのか。斉藤は続けた。
「私の友達が京阪大で大学院生をやってるんだけど、行方不明になっちゃったの。自分で調べたかったんだけど、パパが野崎先生に任せなさい、って。でも直接、野崎先生に相談したら違うんじゃないかと思って、私も大学院生だから潜入くらいできます、調査させてください、って申し出たんだけど、条件をクリアしたらいいよ、って言われてしまって」
「それはどんな条件だったんですか?」
吉岡が訊いた。斉藤が応える。
「結衣佳くんは、力があるわけじゃないから演技力を見せてくれ、って。私がRCの面接で、話を受けない演技をしたにも拘らず、他の二人の候補者が話を受けたら、結衣佳くんを合格にする、って。だから世間知らずのお嬢様の演技をして、金持ちの論理を振りかざせばイイかと思って、おどおどしていたんだけど、どうやらヒットしたみたいね。条件はクリアしたはずなんだけど、それでも野崎先生は、女の子だし、斉藤会長の愛娘だから、って反対されていたんだけど、今日はどう転んでもどうでもいい練習だったみたいだから、私も参加を許されたってわけ」
なるほど、だから今日はメイクもばっちり。雰囲気ブスじゃなく、完璧に可愛いお嬢様になっている。しかし、あの所作が全部演技だとは。女とは恐ろしいものだ。
「みんな、遅れてごめんね。意外と説明に時間がかかってしまった。結衣佳くん以外はとても良かったよ」
野崎が個室に入ってきた。斉藤は少し怒りながら、野崎に言った。
「野崎先生、ひどい!だって仕方ないじゃないですか。あれくらい言わないと、村松を警察に引き渡せないと思って」
野崎は少しあきれながら応えた。
「村松を暴行で警察に連行させるつもりはなかったよ。他にも研究費流用に関する不正を掴んでいたし、結衣佳くんの勝手な行動は私にとって邪魔でしかない」
「そんなぁ」
と斉藤は甘い声を出した。野崎は何かを察したように、こう言った。
「まぁでも、村松を分かりやすい方法で警察に引き渡せたからヨシとしよう」
「やったー。私、合格ですか?」
「というよりも、お父さんを出されてしまえば、私にはどうにもできないし、選択肢は無い。共同研究先は京阪大医学部か。まぁ、研究テーマに関しては、後で考えることにしよう」
斉藤がガッツポーズをしている。そんなに、こんなに危ないことを、やりたいか?まったく。世間知らずってのは、コイツの場合、演技しなくても本当にそうなのかもしれないな。その斉藤が話題の本論を今日のJTSシンポジウムに戻して、こう言った。
「ねえねえ、野崎せんせーい」
まるで小学生が先生をバカにして呼ぶように斉藤は言った。
「村松って、光田学派でしょ?光田学派はブラックで有名だし、今日みたいに叩けばなんでも出てきそうよね」
野崎はそのコメントが気になるようで、やや強い口調で自分の論を説き始めた。
「確かに、光田和夫先生の門下生たちは、現在あの分野でPIになっている先生が多く、ブラック研究室である可能性が高いとネット上でも噂されている。だが、そのように、光田学派がブラックだ、という風に決めつけるのは非常にナンセンスだ。光田学派のなかで、まともに大学院生の指導をしている研究室はたくさんある。ましてや、あのような捏造行為をしているのは、光田学派のなかで村松研だけだろう」
確かにその通りだ。PIの先生たちが学推などで俺らを審査する際、論文の数や指導教員がどの派閥に属しているか?だけで審査している!などと批判する一方で、学生や若手側が、PIの先生達を彼らが持っている言葉や履歴だけで判断するのなら、その思考不足は共通じゃないか。
「今日は、あくまで練習。至極どうでもいい。失敗しても構わないゲームだった。まぁ、助教の小平先生も、MDをやった都王大の西岩先生も、研究不正認定されるだろうけどね」
村松は共同研究先の先生達に対しても研究費を一部私的流用していたらしい。それで口止めをし、捏造を繰り返していたようだ。サイエンスに対してのまっすぐな気持ちが、どの分野にも足りていない、ということなのだろうか。
「もしかしたら、我々が追っている例の多発的な失踪事件に、村松研でも一部通じているのかもしれないが、まだそれは調査してみないとわからないことだ。とりあえず、今日は皆にスマートグラスの威力を知ってもらえれば良かった。そして私がしなければならなかったことも達成された。お疲れさま。家でゆっくり休んでくれたまえ。また、個別に連絡する」
そう言うと、野崎は皆に退室を促した。スマートグラスの威力って・・・、ほとんど野崎の威力じゃないか。
その後、俺にだけ話しかけてきた。
「さっきはああ言ったが、少しは有機合成分野の性質がわかったところもあると思う。戸山くんが共同研究に行く慶明大学の山岡研の主催者、山岡忠雄教授は村松教授と仲が悪かったことで有名だ。今日のことは隅々まで忘れないように」
その言葉を聞いて俺は少しだけ憂鬱になりそうになった。そんなあやふやな気持ちを抱き、ほとんど暗くなってしまった空を眺めながら、3人と駅まで向かった。
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4. RCの意味/『研究コントローラー』につづく
この文章を書くにあたって、事前に読んでくださった方、相談にのってくださった方、誠に有り難う御座いました。
最後まで書ききれたらと思いますが、、やっぱりアクセス数次第ですね笑。
前のお話 2. 野崎の目的/『研究コントローラー』
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2016年3月1日(火)
「それでは時間になりましたので、これよりJTS有機合成分野シンポジウムのクライマックス講演を始めたいと思います。東都科学大学理工学研究科の村松健一先生。宜しくお願いします。皆様、村松先生のことはよくご存知かと思いますが、私から極簡単にご略歴を紹介させていただきます。村松先生は都王大学理学部化学科のご出身で、今や多くの門下生が全国でPIとして活躍していらっしゃる、あの光田和夫先生の研究室のご出身です。博士号を取得された後、京阪大の助手をされ、その後渡米。日本に戻られてから今日にいたるまで、この科学大で教鞭をとられております。研究内容は一貫して、糖鎖の合成に着目していらっしゃり、天然にあります複雑な多糖類を全合成する研究をしていらっしゃいます。近年では糖とタンパク質のフォールディングに着目されており、新薬の開発にも力を入れていらっしゃるそうです。それでは、村松先生、宜しくお願いします」
「ただいまご紹介に預かりました、科学大の村松です。いやぁ、こちらの飯田橋キャンパスには普段あまり来ないもので少し緊張していますが、本日はこれだけ多くの皆様に発表させていただく機会を与えてくださいまして、有り難う御座います。宜しくお願いします」
東都科学大学の飯田橋キャンパスは、都会にあるぶん、とても狭い。この狭いキャンパスのなかの最も広い教室でJTSシンポジウムは始まった。私立、東都科学大学には、全国にいくつかキャンパスがあって、主には、都会の真ん中にある飯田橋キャンパスと、千葉にある運河キャンパスだ。私は普段、それなりに広い運河キャンパスにいるので、余計に今日のこのキャンパスは狭く感じる。この教室は、都会の中でどうにか広い教室を作りました、という感じだ。広いこと自体は良いのだが、教室そのものがかなり古くて、机や椅子から独特の木の匂いがする。昔の大学はみんなこんな感じだったのだろうか?とちょっとした私の想像を無視するように、村松が我が物顔でスライドを説明し始める。人殺しめ。こいつの顔を見ていると吐きそうになるほどの嫌悪感が襲ってくる。午後3時。だけど、くだらない学芸会もいよいよ終焉か。JTS, Japan Technology and Science Agencyは学術推進会と並ぶ研究費を獲得するための重要な組織であり文科省の傘下だ。年度末、JTSから研究費を獲得している研究者が分野ごとに発表会を行う。有機合成分野で高く評価されている私の研究室の指導教員である村松のクソじじぃが、このシンポジウムの最後の講演を務めている。一般入場者歓迎と銘打っているが、蓋を開ければ研究者と大学院生しかいない。その数ざっと200人前後。そして全員腐っている。村松は「3年連続で、私が大トリだ」と低いダミ声で自慢そうに話していたが、裏を返せば、この発表会は毎年こいつに媚び諂うための会と化しているわけだ。その証拠として、昨年のシンポジウムも、この東都科学大で行われている。村松に気を遣ってのことだろう。何故私は、このようなくだらない学芸会に出席しているのだろう?この最低な人間の講演を私が聴かなければいけない理由はどこにあるのか。さしあたり、私が村松研究室で唯一の女子であることに起因しているのだろう。修士号を取得し、来春から就職だというのに、私はまだこのくだらない男に束縛されている。世間的には、新薬の開発に力を入れていると宣言していれば正義の味方のような研究者に見えるのかもしれないが、実態は大学院生を奴隷のように使う、ただの悪魔。なにが「口に優しい、新感覚の甘いお薬を創ろう」だ。こいつの頭は隅々までラリっているんじゃないか? 人殺しめ。
「こちらの新規分子2についての二次元NMRチャートはこちらになっております。収率は93%となっており・・・」
研究内容のことなど無視して、聴いているフリをしていたからか、もうすでに一つ目の話題の終わりだ。村松が祥太くんのデータを示している。祥太くんはこのデータを、まだ少しだけ元気があったM1の始めの頃に出したはずだ。チャート図をぼんやり眺めながら、私は祥太くんとの、あの、電話でのやりとりを思い出さざるを得なかった。
―あ、もしもし?今、僕、どこにいると思う?
彼からの電話が蘇る。あれは肌寒さが増してきた昨年の11月、2週目くらいの日曜の夜だった。偶然、横浜の実家に帰っており、そろそろ夕飯かと思っていたところだったから、おそらく8時くらいだろう。
「どこにいるって、どういうこと?」
―目の前は海。ここから飛び降りたら、誰にも見つからないかもと思って。死に場所としては最適かな・・・。
妙に明るい口調が逆に私の全身を震え上がらせた。今日は絶対に失敗できない。祥太くんは以前にも何度か死にたいと私に電話をしてきて、そのたびにどうにかなだめてきたが、物理的に確実な死を目前に控えている上での電話はこれが初めてだった。私は電話口を少しだけ離して深呼吸し、自分に言い聞かせた。「失敗さえしなければ絶対に大丈夫だ」そして、確かに大丈夫だった。この時は。
私も相澤祥太くんも、東都科学大学の化学専攻の大学院生で、有機合成を専門とする村松研究室に所属している。二人とも修士課程の2年生。村松研で女子は私一人。村松研は博士課程の院生が八人もいるビッグラボだ。科学大は私立大学で、偏差値で言えば、日本一の単科大学である帝工大の滑り止めくらいの位置だ。だから、就職に関しては選ばなければ基本的には困らないはずだが、この研究室では4年生の就職活動が禁止されていた。私も祥太くんも配属されてすぐの学部4年生の頃から一刻も早く、この殺伐とした研究室から抜け出して就職したかったが、仕方なしに修士まで所属していた。村松研はいわゆるブラック研究室で、コアタイムは朝8時半から終電まで。土曜日のコアタイムも同じ時間である。日曜日はさすがに休みだったが、生活はこの3年間ひどいものであった。例えば、研究室で論文を読んでいると「そんなものは家に帰ってから寝る時間を削って読め!研究室では実験だけをしろ!」と助教の小平先生に怒られ、研究室にいる間はトイレに行くにも手を上げて「トイレに行ってきます」と小平先生に言わなければならない。女の私が、男社会のなかで「トイレに行ってきます!」と宣言をしてトイレに行かねばならないことはセクハラとも言えると思うが、皆がそうしているから文句も言えなかった。村松研は学部生の間でもブラックだという噂で不人気ではあるが、研究実績と就職のコネだけはあるので、そのわりには後輩も一定数は入ってきていた。研究室に慣れてきた頃、そのブラックさに直面すると、なんとかしてこの研究室から抜けなくちゃいけないという気持ちが強くなる、というのが村松研にいる学生の全員の特徴だ。
「どこの海にいるの?」
―逗子海岸の近く。大坪漁港のあたりは少し人がにぎわっているんだけど、そこからさらに奥にいったところ。
「私、いま青葉台の実家にいるから、一時間半くらいで逗子駅までは行けると思うけど」
―やっぱり優しいね。さすがに来てもらうのは悪いから、明日の夜、学校で話を聴いてもらってもイイ?
おい、ふざけるな。私がお前の気持ちを見通すことを、お前ごときが読んでいたわけか。この死ぬ死ぬ詐欺に私はいつまで付き合えばいいのだろう?かといって無視をするわけにもいかないし。というか、本当に海にいるのか?まぁ実際のところ、私自身も行く気は全然なかったけど。
「わかった。明日の夜ごはんの時ね」
昼食と夕食くらいしか、私たちに自由は無い。食事の時間すら、助教の小平先生がストップウォッチを構えて待っているのだ。そう言った後すぐに気がついたが、よく聴くと波の音が聞こえる。本当に海にいるんだ、と思った。私はまた全身が震えた。彼から「じゃあね」という、いつもの声を聞く間もなく、電話が切れた。どうやら電波が不安定だったようだ。
祥太くんのことは別に嫌いではないし、カラムもまともに立てられなかった私に合成を一から教えてくれたり、学部4年生の頃は単位が残っていた科目の課題を解いてくれたりした。彼はいわゆる便利くん。同じ研究室の唯一の同期だし、お互いに自然と話す機会は増えていった。だけど、それだけじゃなくて、話してみると価値観もそれなりにフィットしていた。祥太くんは口数が少ないほうだが、彼には壊れそうな乙女心というか、繊細さがある。顔もそれなりには整っていて、もう少し男らしいところがあれば惚れたかもしれないが、女子に死ぬ死ぬ詐欺をしかけるような、か弱い男は私のタイプじゃない。大学入学以降、化学にまったくついていけなくなってしまい、成績がダメダメで、仕方なく不人気の村松研に入ることになった私と違って、祥太くんは純粋に有機合成が大好きで村松研に入ってきている。そんな祥太くんの一面は尊敬できるのだが、この死ぬ死ぬ詐欺の電話には困り果てていた。そして、いつものイケない言葉が私の胸に宿る。いっそのこと一度死んでみたら?
「分子2を骨格としたこれら五つの分子の候補のなかで、HeLa細胞に対して新規分子2-Bを作用した場合にのみアポトーシスが誘導されました。ですので、この2-Bの分子は癌治療薬として期待されるわけです。ここで、がん抑制因子として有名なPTEREというタンパク質の発現を増やしている可能性が高いと考え、まず分子2-Bと組み合わさるのかどうかを、分子動力学計算で考察することにしました。この計算は都王大学最新研究所の西岩先生との共同研究となっております」
教室内の半数がこっそり寝ている。それでも村松は、いつものダミ声で、ハキハキと研究内容を話している。その姿は魂を食過ぎた妖怪のようである。実際にこいつは、今までに何人の学生や若手研究者やテクニシャンを犠牲にし、魂を吸ってきたのだろう?人殺しめ。
実際に祥太くんがいなくなってしまうと、私の心はすっかり空しくなってしまった。いっそ死んでしまえば良いのに、と思った私自身をものすごく責めた。根本的な原因は村松研の環境にあるのだろうが、最後の一押しとなる原因は私にあるのだろう。結局、私は村松と同じ穴のムジナ。私も最低だ。
祥太くんがおかしくなり始めたキッカケは、M1の終わり頃だ。祥太くんは村松に突然、研究テーマを強制的に変えられてしまったのだ。しかも、祥太くんが出してきたそれまでのデータはこのシンポジウムでも発表されているほどに重要だったにも拘らず、村松から
「君は手を動かしていただけで、あれは小平くんのアイディアだろう?」
と言われてしまったらしい。アイディアを創るためには論文を読まねばいけないはずで、その時間を与えなかったのは小平先生本人なのに、それを主張しても一切聞き入れてもらえなかったという。ちょうど論文を書けるだけのデータが溜まって、英語で原著論文を書こうというところだったのに、上からの指示で小平先生が祥太くんのデータで書くことになってしまい、しかも祥太くんの名前は一切載せてもらえなかったらしい。祥太くんが実験を主体的に行っていたにも拘らず。祥太くんは業績的には論文が出ていないことになるし、そのせいで学推も取れず、真面目な彼にはそれがショックだったのだろう。この一件以降、祥太くんはゼミで村松や小平先生から集中的にいびられるようになる。おそらくオーサーシップを主張したことが村松研にとっての反逆者と見なされたのだろう。それを見ていた上級生たちも、祥太くんにオフェンスしておけば安泰、というような空気ができてしまった。それが原因で、彼はおかしくなっていった。そして、ゼミで一言も喋らない私に、唯一の同期の私に、死ぬ死ぬ詐欺をするようになる。実際に会っていてもそうだったし、電話で連絡してきても「死にたい、死にたい」とつぶやいていた。
夜に海から電話してきた翌日、私は祥太くんと夕飯を食べた。といっても、大学の近くの蕎麦屋だ。都心から電車で1時間、茨城に近い千葉の運河キャンパスでは飲食店は少なかったが、近くに小さな学生街があって、そこにある蕎麦屋に行ったのだ。学生街らしく、大盛りが安い。このような場所で、また私に死ぬ死ぬ詐欺をするのか?と思いきや、なんと祥太くんは私に告白してきたのだ。言葉は実にシンプル。
―今まで隠していたけど、好きだから僕と付き合ってください。
たった、それだけだ。言葉数が多くない祥太くんが、誠心誠意、男になったように見えた。私は本当にビックリして3秒間ほど彼の目を見つめてしまった。祥太くんからの好意は薄々感じていたが、このタイミングで、告白されるとは思わなかった。私はしばらく悩んだ。正確に言うと、悩んだフリをしてみせた。結論は気持ちの上では決まりきっている。ここで断ったら、祥太くんは死んでしまうのかもしれない。だが、ここで断ってしまえば、気まずくなって、私は彼の死ぬ死ぬ詐欺から解放されるかもしれない。祥太くんと話さなくなるのは残念だが、そろそろ潮時な気もする。どうせ卒業も近い。なるべく可愛らしさを保ちながら、でも、最後は明らかな冷徹さを持つことを意識して、
「えっとね、私、付き合っている人がいるから、他の人とは付き合えないです。ごめんなさい」
と私は応えた。本当だった。私の彼は、1つ年上で直樹といって、いま大手商社に務めている。文系の商社マン。私が学部3年の頃、ほんの少しだけやっていた就活で知り合った女友達が、サークルで飲み会をするから、よかったらおいで、と言われ、行ってみたら、そこに大学卒業間近の直樹がいた。その晩、直樹は私を誘ってきた。出会ってすぐだ。さすがに断ったが、その後もしつこく直樹は私をSMSで誘ってきた。あの頃、前の彼氏と別れたばかりで寂しかった私は、ほんの一度だけ夕飯に付き合うだけのつもりで、直樹の誘いに応じた。会う前は「絶対にご飯だけ!」と自分に言い聞かせたつもりだったが、次の朝、私は直樹と同じベッドで目を覚ますことになる。私の身体で興奮している直樹を感じとったとき、自分の価値が再起されたようで嬉しかったが、朝になり目を醒ましたときに後悔がどっと押し寄せてきた。そういえば、祥太くんのように「付き合ってくれ」と直樹から明確に言われた記憶も無いが、直樹との一度の過ちを無意味化するように、それから毎週土曜日にデートして直樹の部屋に行くようになった。お互いの家も電車で一本で、それなりに近かった。土曜日に部屋に行って日曜の夕方に帰る。学生のくせに忙しい私に社会人の彼はイライラしていたが、千葉での新人研修が終わり、名古屋の支社に勤務するようになると、むしろ直樹のほうが忙しくなり、月一のペースで直樹が私の部屋に来るようになった。今でも、ほとんど行為だけのデート。むしろ、直樹とデートらしいまともなデートをした記憶が無い。直樹のこと、本当に好きなのか?と言われたら、心から好き!とは言えないかもしれない。でも、直樹と私は、ステータスが合っているというか、現実的と言うか、フィットしている。祥太くんには悪いけれど、私は直樹のもの。これは私のせいではないし、現実だから仕方ない。祥太くんは
―そう。
とだけ言うと、大盛りのざる蕎麦をずるずるすすり始めた。それから何を話したのかはあまり覚えていない。蕎麦屋を出ると、私たちは無言で研究室に帰った。おそらく、これが最終的なキッカケで、祥太くんは研究室に来なくなってしまったのだろう。研究室に味方がいなくなってしまったのだから、当然とも言える。でも確か、この後も研究室で一度だけ見かけた。「大丈夫?」と私が訊くと、祥太くんは「大丈夫」と言った。そのあとに、「味方になってくれそうな人ができたかも」と言っていた。まさか彼女か?と思ったが、直樹みたいなチャラチャラした男ならともかく、祥太くんに、そんなにすぐに彼女ができるわけない。私への気持ちはマジだったっぽいし。「そうなんだ、よかったね」と私が言うと、祥太くんは英語でこう返してきた。 ”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them.” 私は、つい鼻で笑ってしまった。後でgogleで調べると、この言葉はヘミングウェイの名言らしい。英語が苦手な私に、わざわざ英語の台詞を言ってしまうところが、まさにお前がモテない決定的な欠点なのだが、彼にはそれがわからないのだろうか?
そして、それ以降、祥太くんは研究室にまったく来なくなった。そのことを小平先生も上級生も問題にしていた。他人事のように言う彼らに対して、お前らも原因なのに、と私は思っていたが、特に何も言わなかった。祥太くんは12月に入ってからもいっさい研究室に来なくなってしまい、修士論文どうするのだろう?と思っていると、研究室の上級生が「相澤くんの両親、捜索願を出しているらしいよ?」との噂を聞いた。私は罪悪感を覚えたが、自分には非は無い、と自分自身に言い聞かせ続けた。第一、蕎麦屋でコクるか?普通。このあたりの性格の悪さが、私は村松と同じ精神構造なのかもしれない。
「というわけで、結論としましては、分子2-Bについてアポトーシス誘導が促進される性質が決定的と言えると思います。ですので、今後の予定としては、この新薬を使って動物実験を開始していく予定です。もう認可は下りています」
学芸会が収束にさしかかった。聴講者の8割以上はすっかり飽きて生あくびをしている。経緯を思い出すのに疲れてしまったが、これが終われば私は女友達と2週間の卒業旅行にヨーロッパに出かける。その後は私もいっさい研究室に行くつもりはない。もう関係ないし。研究生活はこれで終わりだ。清々しい気持ちに自分の心を持っていき、すっかり疲れきっている自分の身体を立て直すために、自分の座っている椅子を少しずらした。すると、突然、まったく知らない、自信に満ちた声がどこからともなく聞こえてきた。
「戸山くん、そろそろ出番だ。君には2番目に発言してもらう。村松の発表だから他に質問は出ないと思うが、1番目の質問に便乗して誰かが質問するかもしれない。念のため、挙手のタイミングを間違えないように」
え?誰の声?戸山って誰?発言してもらうって、どういうこと?というか、どこから声が聞こえてきたのか?疑問でいっぱいになって、私は辺りを見回した。すぐに、次の言葉が聴こえてきた。同じ声だ。
「吉岡くん、君は1番目の質問を担当してもらう。まずはどうでもいい質問に見せかけて、ヤツを安心させる。配役としては戸山くんよりも簡単だ。ヤツにとっては質問がでること自体が非日常。だが、とにかく落ち着いて堂々と質問してくれれば良い」
声の主は、どうやら、質疑応答をさせたいらしい。でも何のために?自分で質問すればいいじゃないか?そう思っていると、村松が発表として最後の言葉を告げる。
「以上です。皆様、ご清聴、有り難う御座いました。本研究は当研究室の有能なスタッフと学生の協力により行われております。この場を借りて感謝申し上げます。有り難う御座いました」
村松の発表は終わったらしい。謝辞に祥太くんの名前は無かった。当然か。12月から今日まで一度も研究室に来ていないし、修士論文も書かなかったのだから。それよりも謎の声が気になる。
「それでは、せっかくの機会ですので、どなたか質問やコメントがある方は挙手をお願いします」
会場でただ一人、手を天に突き上げている者がいた。見るからに体育会系の男が、メガネとマスクをしている。ニット帽をかぶっていて、顔の全容が分からない。私服なところを見ると、学生だろうか?すると、その男にマイクが行き渡る前に村松が話し始めた。
「ほう。私の発表では普段、質問など出ないんですが。まぁいいでしょう。どれどれ、どんな質問か、聴くだけ聴きましょうか?」
会場から失笑が聴こえる。村松に対するものが半分、質問者を嘲るものが半分、というところだろう。謎の声が応じるように、
「吉岡くん、ひるむなよ。どっちにしてもヤツの研究人生は今日で終わりだ。丁寧な表現で、分子2-BのNMRチャートはないんですか?と言え。その後は、あるにしても、ないにしても、有り難う御座いました、と丁重に言えばそれでイイ」
と言った。ヤツとは、村松のことだろうか?研究人生は終わる?本当にそうなら是非やってもらいたいところだけれど、実際のところ、どういう意味なのだろうか?と思っていると、体育会系の男はマイクを持って喋り始めた。
「貴重なお話有り難う御座いました。非常に簡単な質問で恐縮なのですが、2番目のお話について、分子2-Bの二次元NMRチャートを拝見したいのですが、もしデータをお持ちでしたら見せていただけないでしょうか?」
村松は「なんだそんなことか」と言いながら補足スライドを出す。その間に、謎の声がまた指示を出した。とても早口だ。
「よし、ボロを出した。やはり測定日は2014年の12月になっている。吉岡くん、君のカメラがスライドをよく映してくれているが、横軸のプロトンNMR、 5.4 ppm付近にあるカルテットのピークに視点を合わせてダブルクリックしてくれ。ズームが欲しい。ダブルクリックはさっき教えたように、上の歯と下の歯を二回リズミカルに合わせればイイ。そして、村松が分子2の二次元NMRチャートに戻ったら、今度も横軸のプロトンNMR、3.1 ppm付近にあるシングレットのピークに視点を合わせてダブルクリックを頼む。戸山くん、次は君だ。まずは、ELISAの蛍光検出について質問するところから始めよう。吉岡くんが送ってくれたピークを私のPCで解析しているから、少し時間を稼いでほしい。1分もあれば十分だ」
その後、謎の声は、一字一句違わぬように質問してくれ、と指示を出した。やがて吉岡と呼ばれていた大男は質問を終え、司会者が「他に質問がある方?」と言うと、なんと私の左隣の男の子が手を上げた。またマスクとメガネだ。帽子はかぶっていなかったが、顔につけているものは、先ほどの質問者とかぶっている。村松は「今日は質問が多いな」と笑っていたが、今度は会場は笑わなかった。
「ELISAでの検出についてです。各新規分子をHeLa細胞に導入し、抽出したCell-freeに含まれるPTEREの発現量をELISAで解析していたと思うのですが、他の新規分子についても、PTEREの発現量は上がっている、という結論で良いのでしょうか?」
村松は顔をほんの少しだけしかめながら答えた。
「確かにそういう解釈も可能だが、発現量は分子2-Bに比べると圧倒的に少ない。この蛍光量を見てもらえばわかるが、10分の1ほどにしか発していない」
また謎の声が指示を出している。その指示通りに質問者は質問をした。
「では、分子2の骨格が寄与している可能性はどれほどあるのでしょうか?」
「それはもちろん、確実なことはわからないよ。だが、MDの結果からすると、分子2の骨格がPTEREのヘリックス構造にくっつき、その後にBの骨格の一部がPTEREのプロモーター領域における関連タンパク質に結合する、という知見を得ている」
悪いが後少しテキトウに時間を稼いでくれ、と謎の声は言った。
「そもそもPTEREがアポトーシスの指標になると考えた場合、ということですよね?MDに関しても、他のタンパク質の存在に関しては一切考慮していないようですし、いま仰ったような非常に単純なポジティブフィードバックが働いているという根拠はどこにあるのですか?」
「私は合成屋だ。生物のことはわからないし、計算のこともわからない。ただ、実際に細胞数は減少しているし、そのグラフも見せたはずだが」
ここで司会者が話に割って入ってきた。
「村松先生のご研究は、このような新規分子を独自に開発された点で非常に有用だと言うことですね。その点を理解して発言されたほうが良いと思いますが」
すると、戸山という私の隣の人物は緊張しながらもさらりと応えた。
「でも、不要なものを合成したって仕方ないでしょ?」
この発言に対して、村松が怒鳴るように返した。
「君はどこの研究室の学生だ?分子2-Bが有用なことは明らかだ。それは、データが総体的に物語っている」
謎の声がささやいた。
「よし確証が取れた。本題に入ろう。名前と所属は決して言うな。無視でイイ。あとは私の喋る通りに発言してくれればイイ」
私の隣にいる戸山という人物は、ほんの少しだけうなずいた。そしてマスクの中で「わかりました」と言ったのが、私には聴こえた。
「そのデータというのは、主にはNMRのデータについてですか?そもそも、分子2と分子2-Bについての二次元NMRはどなたが解析されたのでしょうか?」
するとまたもや司会者が割って入ってきた。
「質問はサイエンティフィックな内容についてのみでお願いします」
「いえ、これはサイエンティフィックな質問ですよ」
司会者は、やれやれという表情を見せたが、村松は瞬時にさらりと応えた。
「この二次元NMRはうちの助教の小平くんがとってくれたはずだが、何かそれが重大なのかね?」
「両方ともですか?なるほど。では小平先生に聞いた方がいいのかもしれませんが、なぜ分子2の横軸3.1 ppmのシングレットのピークと、分子2-Bの横軸5.4 ppm付近のカルテットのうちの一つのピークが、まったく同じようにみえるのですか?」
村松は急に青ざめ、一番小さな、ダミ声で、次のように答えた。
「質問の意味が分からない」
「言葉のままの意味です。二つのNMRチャートを並べて出してみてください」
「何故私が君のような若造のために、そんなことをしなければならない?!」
「研究内容を理解するのに大事なことだからです。おそらく本当の経緯はこうです。分子2については本当は小平先生ではない別の人がNMRを取った。そして、分子2-BについてはNMRを一度もとっていない。小平先生と村松先生が、分子2-BのNMRチャートを分子2のNMRチャートを参考に捏造したんだ。小平先生が合成したと言っている分子2-Bは数種類の化合物ライブラリーから、プロトコル通りにHPLCで単離・精製したと言っているから、本人的にはそれで目的分子が得られたと思ったのだろうと思います。不純物が完全には取り除かれていないにも拘らず。その後のHeLa細胞へのアッセイに関しては不純物が入った状態で導入しているから、むしろその不純物が影響してアッセイのバックグラウンドが形成されてしまったのでしょう。本当は分子2-Bには何の特異性もないのに。さらに、もっともらしいBの骨格のELISAデータだけを、これまた捏造した。当然、細胞数の減少も嘘です。つまり、今日の発表には、サイエンスがいっさい含まれていなかったことになります。みんな寝るわけですね」
「この野郎、何を根拠にそんなことを言っているんだ!ふざけるな!司会者、この無礼な若造をつまみだせ!」
村松は激昂している。完全にキレている。いつも機嫌は良くないが、こんなに怒っている村松を私は初めて見た。今にも暴力を振るいそうな所作になっている。だが、謎の声は予想外の反応に出ている。
「あーはっはっはっ、あはははは」
笑っている。高笑いに大笑い。まるで、支配しているのは俺なのだから、こんなこと当たり前じゃないか、と言わんばかりに、笑っている。私の左隣の男の子が、マスクの中で小さく言った。
「笑ってる場合じゃないっすよ、野崎先生。早くなんとかしてください」
「わかったよ」
しかし、またもや予想外のことが起こる。また別の、マスクとメガネをつけた、今度は女の子が、いつのまにかマイクをとって、次のように喋りだしたのだ。
「とにかくNMRのデータを二つ合わせて、皆さんの前で見せてみてください、村松先生?分子2-Bの測定日は2014年の12月。本当にNMRをとっていたなら、是非とも拝見したいですね。あの時は世界的にも窒素不足で、運河キャンパスのNMR-500メガヘルツは液体窒素を維持できなかったはずですから」
「お前らなんかに、私がそんなことをする義務はない!!」
そう言いながら、村松はマイクを床に投げつけた。発表のための机もひっくり返し、回線が切れて、スライドが映らなくなった。村松は興奮して、ついに質問者の女の子のもとにかけよろうとしている。謎の声がうんざりしながら囁いた。
「まったく、困ったお嬢様だ。私の指示以外の行動をして。吉岡くん、戸山くん、取り押さえられるほうで構わないから、村松を取り押さえてしまってくれ。心配ない。警察を連れて、私がそっちに行く」
その声に応じるように、戸山という人物と吉岡という人物は、最後の質問者の女の子に向かっていく村松のもとに急いだ。それを感じ取った村松は戸山という人物に殴り掛かろうとしている。怒りに任せて繰り出された村松の右手は、戸山の両手に抑え込められ、あっという間に村松がやってきた方向側に投げ飛ばされた。倒された村松は暴れなくなったらしい。しばらく沈黙が続いたが、聴講者の誰かが「すみおとしだ」と言ったのが聴こえた。その瞬間に、後方の扉が開いた。
「どうも、3人とも、おつかれさま。あとは警察の方に任せましょう。質問者の3人は今すぐにこの部屋から出て行くように。これは命令です。あとで落ち合いましょう。場所は例のスマホに連絡します」
長身の男が入ってきた。かっこ良い。が、少し姿勢が悪い。いかにも頭が良さそうな顔をしている。そして何よりも自信に満ち溢れている。そして、その声色は、突然聴こえてきた謎の声そのものだった。警察と思われる人物2人が、暴れていた村松を取り押さえた。取り押さえられながら、村松が立ち上がる。それと同時に、質問していた3人は会場から姿を消した。この長身の男は教室の正面に到着し、村松を見下ろすように話し始めた。
「私のことはご存知ですか?」
村松は怒りに任せながら、
「野崎正洋。お前が黒幕か」
と言った。野崎正洋と呼ばれた長身の人物は終始笑顔だ。
「黒幕とは物騒ですね」
会場にいる誰もが事態を理解し始めたのか、「あいつが野崎か」「研究コンサルタントの野崎だ」「村松先生、ついにやられたな」等と、かなりざわつき始めている。野崎は、その喧騒を沈めるようにマイクを持って、次のように言った。
「皆さん、村松先生を警察の方に連行していただいた後、私のほうから今回の研究不正について解説をさせて頂きます。その前に、村松先生、私に何か言いたいことはありますか?」
すると村松は挑むように、野崎に言い放った。
「こんなくだらないことで、私に研究不正の烙印を突きつけるつもりか?事実だとしても、あれは大学院生が行ったことで、我々スタッフは何も知らなかった」
「都合が悪くなると、そうやって、すぐに立場の弱い者に責任を押し付けるんですね。その次に切り捨てる駒は小平先生ですか?貴方はわかってて研究不正をしている。ウラはとれているし、言い逃れはできないですよ?それに、たとえ、わかっていなかったとしても、貴方の管理の問題だ」
「ふざけるな。私は世界の村松だ。私の存在がどれだけの若手の雇用を守っていると思う?こんなことをして、些細なことで不正だなんだっていちゃもんをつけて、この分野が廃れてしまったらどうするつもりだ?だいたい野崎、お前は他人の研究を批評してばかりで、あーだこーだ文句を言ってるだけで、ものづくりをしていないじゃないか。科学大の連中も皆そうだ。奴らも文句ばかりで、手も動かさず、労働力にすらならない!私は、ものすごい悪いこの環境の中で、誰よりも精一杯、オリジナリティを持って、研究活動をしてきたのだ!ふざけるなっ!!」
「私は、ただ、サイエンスに不必要な無能な人間を排除しているだけです。いくら私が有能なコンサルタントでも、捏造を肯定化するような人間が主催する研究室を立て直すことはできません。それに、貴方は権威と文章作成力で研究資金を稼いでいるという勘違いをしているみたいですが、稼いでいるのは国民であって、貴方自身は一円も自分で研究費を稼いでいない」
言葉を切って、野崎は、大衆が自分の言葉を吟味している時間の沈黙を楽しむような素振りをした。そして、笑顔を消し、リズムを崩して、いきなり、
「お前ごときが、思い上がるな!」
と言って、野崎は村松を指さした。
「野崎先生、もう良いでしょう?連れて行きますよ?」
警察の一人が、野崎にそう言った。
「待て。何の容疑だ?」
「暴行容疑ですよ。任意同行をお願いします」
警察は無機質に応えた。野崎は笑顔に戻り、次のように言い捨てた。
「村松先生。このシンポジウムには、実はマスコミの連中が潜り込んでいる。マスコミの連中に質問者の顔と名前がバレるとマズいので、彼らには早々に立ち去ってもらった。マスコミにも私以外は存在していなかったように書け、とお願いしてある。明日の一面はおそらく、”科学大教授、研究不正暴かれ、シンポジウムで大暴れ”だろうな」
村松が連れて行かれる。もはや意気消沈していて、すっかり小さくなってしまったように見えた。その後ろ姿に野崎が追い打ちをかける。
「最後にコンサルタントとしてアドバイスしておこう。サイエンスは感情的になった方の負けなんですよ。まぁ、もう、サイエンスをすることの無い貴方に言っても仕方ないか」
人殺しの村松は連行された。いい気味だ、と思いながら、一方で、これで正しいのだろうか?という気持ちを、私は少しだけ抱き始めた。村松は確かに性格が悪いし、捏造も本当なのだろうが、村松をそういう環境に追い込んだのは別の作用だ。村松一人を祭り上げるのは、正しいことなのだろうか?
その後、野崎は自分のパソコンを広げ、さきほどのNMRのデータが捏造である根拠を次々に挙げていった。一番の決定的な根拠は、やはり、二種類の物質についての一部のピークが、違う物質なのにも拘らず、ぴったりと重なったこと。野崎は短い時間で、二つのピークを同じ大きさにし、積分値まで求めていた。その値は完全に一致していた。確かに実験研究ではこういうことはあり得ない。最後に野崎は、
「以上のデータは、Chemical Review LettersとJournal of the European Chemical Societyに掲載されています。おそらくRetractionになるかと思いますが。皆さん、突然の余興、失礼致しました。では、私はこれで」
急に野崎が教室を出て行く。行ってしまう。この人なら。この人ならどうにかしてくれるかもしれない。祥太くんの声が聞こえる。”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them.” 私は、野崎という研究コンサルタントを追いかけた。教室よりは日の光が入ってくる廊下には意外にもまだ野崎の他に誰もいなかった。野崎に話を訊いてもらうためには、引き止めるためにはどうすればいい?狭い廊下を短い歩幅で走りながら、直感的に答えが出てきた。そして、建物の出口付近で、野崎に追いついた。私はすぐに野崎に小声でささやいた。
「吉岡くんと戸山くん」
すると、野崎は驚いたように私を見つめた。
「どこでそれを。君は聴いていたのか?」
野崎はそう言った後も、驚いた表情を維持している。直感を働かせてここまで走ってきた私には、直感的にこの表情が嘘であることが分かる。驚いて開いたはずの口に比べて、瞳孔が一切開いていない。まさか私にわざと聴かせていた?どうやって?なんのために?
「まぁいい。しかし、私を追ってきたのは、それだけじゃないだろう?私に何か用か?」
逆に驚いた私は、言葉を振り絞るように、小声で応えた。
「祥太くん・・・、相澤祥太くんのことで、知ってほしいことがあるんです」
野崎は薄く笑みを浮かべながら、すべてを理解した様子で話し始めた。
「ということは、君は、みゃーこさん、だね?」
私は思わず目を見開き、口をあんぐり開けてしまった。”みゃーこ”は私のSNS上の名前だ。野崎は何故それを知っている?
「そうです。本名は・・・」
野崎はそっと人差し指を私の口元に近づけて、
「待った。どこで誰が聴いているかわからない。ここではそれは言わない方が良い。相澤くんのことは、私が調べている。就職してしまう君は、とにかく彼氏と幸せになりなさい」
私はまた胸がドキっとした。何故野崎はそこまで私の情報を得ているのだろう?わからないが、このままでは引き下がれない気がした。
「待ってください。私、私、彼のことが、心配で心配で。だって、だって、私のせいで・・・」
抑えきれない感情がわき上がりそうになる。その感情に合わせて、「でも・・・」から始まる論理的な言い訳が私を追いかけてくる。そして、その矛盾に耐えきれず、世界が濡れていく。野崎は私の気持ちをすべて悟っているように、ゆっくりと説き始めた。
「いや、それでも君は何も悪くない。それほどの気持ちがあるのなら、彼は貴女を好きになって、心から良かったと思うはずだ。それだけで彼は救われる。男は女が思っているほど弱くはない。心配するな」
私は、スカートのポケットからハンカチを出して目に当てながら、小さく頷いた。すると、野崎は意外なことを言ってきた。
「まぁ、今日の質問者の名前も聴かれているし、仕方ない。このパラレルスマホを君にも渡しておこう。それはハッキングの心配が無いスマホだ。何か他に情報が入ったり、私に連絡したくなったら、いつでもそれで私に連絡してくれ。使い方はシンプルだから、みゃーこさんなら簡単に分かるはずだよ。じゃあ、またね」
野崎は行ってしまった。私の研究生活の最後に無難に終わるはずだったシンポジウムは、かなり無難じゃない出来事になってしまった。私は体良く祥太くんを利用し、自分だけ修士号をとって就職する。そして3年ぐらいしたら、直樹か、直樹みたいな彼氏と結婚するのだろう。そんなことを思いながら、あの野崎とかいう研究コンサルタントの後ろ姿を見つめた。そして、演技なのか本音なのか自分でもよくわからない自分の涙を完全に拭った。
野崎から指定されたカフェで、俺ら三人のRC研究生は、もう1時間以上待っている。俺らが教室を出てからすぐにパラレルスマホに連絡があったが、時間がかかっているらしい。三人ともコーヒーを飲み干してしまって、ウェーターが持ってきた水を飲んでいる。それにしても、初仕事。普段、ゼミや研究会で喋るほうではあるが、流石に俺は緊張した。まさか最後に、俺の合気道の得意技「隅落とし」をすることになるとは思わなかった。そして、野崎は警察やマスコミを自由に動かせるほど実力が認められているとも思っていなかった。警察が絡んでいるなら、このRCの話も大丈夫なんじゃないだろうか?
指定されたカフェは超がつくほどの高級カフェ。なんと個室だ。こんな店が本当に存在しているとは思わなかった。席料だけで2万円となっている。野崎正洋の名前を言うと、二つ返事でこの個室に案内された。椅子(というよりソファー)や机から高級感が漂い、窓の無い薄暗い室内も手伝って、ここで寝てしまいたくなるような雰囲気だ。だが、そんな場合じゃない。斉藤結衣佳だ。あの面接の途中で出て行った彼女がどうしてここにいる?吉岡が質問し始めた。
「斉藤さんは、結局、RCの話を受けるってことなんですか?」
「うーん、というより、私のパパが野崎先生に投資しているの。うちのパパ、斉藤自動車の会長で」
なんだと?あの日本トップの売り上げを誇る大企業、斉藤自動車グループか。こいつ、金持ちだと思っていたら、本当にガチの金持ちだったのか。斉藤は続けた。
「私の友達が京阪大で大学院生をやってるんだけど、行方不明になっちゃったの。自分で調べたかったんだけど、パパが野崎先生に任せなさい、って。でも直接、野崎先生に相談したら違うんじゃないかと思って、私も大学院生だから潜入くらいできます、調査させてください、って申し出たんだけど、条件をクリアしたらいいよ、って言われてしまって」
「それはどんな条件だったんですか?」
吉岡が訊いた。斉藤が応える。
「結衣佳くんは、力があるわけじゃないから演技力を見せてくれ、って。私がRCの面接で、話を受けない演技をしたにも拘らず、他の二人の候補者が話を受けたら、結衣佳くんを合格にする、って。だから世間知らずのお嬢様の演技をして、金持ちの論理を振りかざせばイイかと思って、おどおどしていたんだけど、どうやらヒットしたみたいね。条件はクリアしたはずなんだけど、それでも野崎先生は、女の子だし、斉藤会長の愛娘だから、って反対されていたんだけど、今日はどう転んでもどうでもいい練習だったみたいだから、私も参加を許されたってわけ」
なるほど、だから今日はメイクもばっちり。雰囲気ブスじゃなく、完璧に可愛いお嬢様になっている。しかし、あの所作が全部演技だとは。女とは恐ろしいものだ。
「みんな、遅れてごめんね。意外と説明に時間がかかってしまった。結衣佳くん以外はとても良かったよ」
野崎が個室に入ってきた。斉藤は少し怒りながら、野崎に言った。
「野崎先生、ひどい!だって仕方ないじゃないですか。あれくらい言わないと、村松を警察に引き渡せないと思って」
野崎は少しあきれながら応えた。
「村松を暴行で警察に連行させるつもりはなかったよ。他にも研究費流用に関する不正を掴んでいたし、結衣佳くんの勝手な行動は私にとって邪魔でしかない」
「そんなぁ」
と斉藤は甘い声を出した。野崎は何かを察したように、こう言った。
「まぁでも、村松を分かりやすい方法で警察に引き渡せたからヨシとしよう」
「やったー。私、合格ですか?」
「というよりも、お父さんを出されてしまえば、私にはどうにもできないし、選択肢は無い。共同研究先は京阪大医学部か。まぁ、研究テーマに関しては、後で考えることにしよう」
斉藤がガッツポーズをしている。そんなに、こんなに危ないことを、やりたいか?まったく。世間知らずってのは、コイツの場合、演技しなくても本当にそうなのかもしれないな。その斉藤が話題の本論を今日のJTSシンポジウムに戻して、こう言った。
「ねえねえ、野崎せんせーい」
まるで小学生が先生をバカにして呼ぶように斉藤は言った。
「村松って、光田学派でしょ?光田学派はブラックで有名だし、今日みたいに叩けばなんでも出てきそうよね」
野崎はそのコメントが気になるようで、やや強い口調で自分の論を説き始めた。
「確かに、光田和夫先生の門下生たちは、現在あの分野でPIになっている先生が多く、ブラック研究室である可能性が高いとネット上でも噂されている。だが、そのように、光田学派がブラックだ、という風に決めつけるのは非常にナンセンスだ。光田学派のなかで、まともに大学院生の指導をしている研究室はたくさんある。ましてや、あのような捏造行為をしているのは、光田学派のなかで村松研だけだろう」
確かにその通りだ。PIの先生たちが学推などで俺らを審査する際、論文の数や指導教員がどの派閥に属しているか?だけで審査している!などと批判する一方で、学生や若手側が、PIの先生達を彼らが持っている言葉や履歴だけで判断するのなら、その思考不足は共通じゃないか。
「今日は、あくまで練習。至極どうでもいい。失敗しても構わないゲームだった。まぁ、助教の小平先生も、MDをやった都王大の西岩先生も、研究不正認定されるだろうけどね」
村松は共同研究先の先生達に対しても研究費を一部私的流用していたらしい。それで口止めをし、捏造を繰り返していたようだ。サイエンスに対してのまっすぐな気持ちが、どの分野にも足りていない、ということなのだろうか。
「もしかしたら、我々が追っている例の多発的な失踪事件に、村松研でも一部通じているのかもしれないが、まだそれは調査してみないとわからないことだ。とりあえず、今日は皆にスマートグラスの威力を知ってもらえれば良かった。そして私がしなければならなかったことも達成された。お疲れさま。家でゆっくり休んでくれたまえ。また、個別に連絡する」
そう言うと、野崎は皆に退室を促した。スマートグラスの威力って・・・、ほとんど野崎の威力じゃないか。
その後、俺にだけ話しかけてきた。
「さっきはああ言ったが、少しは有機合成分野の性質がわかったところもあると思う。戸山くんが共同研究に行く慶明大学の山岡研の主催者、山岡忠雄教授は村松教授と仲が悪かったことで有名だ。今日のことは隅々まで忘れないように」
その言葉を聞いて俺は少しだけ憂鬱になりそうになった。そんなあやふやな気持ちを抱き、ほとんど暗くなってしまった空を眺めながら、3人と駅まで向かった。
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4. RCの意味/『研究コントローラー』につづく
この文章を書くにあたって、事前に読んでくださった方、相談にのってくださった方、誠に有り難う御座いました。
最後まで書ききれたらと思いますが、、やっぱりアクセス数次第ですね笑。